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大森靖子『魔法が使えないなら死にたい』ツアーファイナル!~つまらん夜はもうやめた~@渋谷CLUB QUATTRO

2013.05.15(22:22)

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 5月13日(月)

 会社で5時ごろ、SYさんに、さあ、うちあわせやろうぜ、と言われ、僕、きょう5時に帰ります、と言った。帰って、電車にのって渋谷までいき、QUATTROで大森靖子さんのライブを見た。大森さんはこのまえ見たピンクトカレフのライブのときよりもずっとけばけばしいへんてこなかっこうをしていて、僕はかわいい女のひとはけばけばしいへんてこなかっこうをする必要なんてないはずなのにと1日に5回は考えているにんげんだからなんてことだろうと思った。ずっとまえに「PINK」とか「あたし天使の堪忍袋」とか「夏果て」とかを聴いて、僕は大森さんはとくに破壊的であったり落ちていく感じであったりするわけではないと思った。「パーティドレス」はどこかよごれじみたものをまとってはいるけれど、それだけではたとえば椎名林檎とか戸川純をこえるものではないと思っていて、僕が大森さんを美しく思うのはつきささるようなつめたさがそのぎりぎりの場所でやさしさとか愛情にひっくりかえってしまうような感覚があるからだと思う。だから大森さんのかわいさというのはけっきょくのところアイドル的なかわいさではぜんぜんなくて、どことなくつめたさをたもったままのかっこうよさから生成されるものだと思う。つきはなされるもの、という感覚をきっと僕は大森さんに求めていて、そういう意味ではきっとこの日の大森さんのライブのとくに前半はありかたはちがっていたように思ってうまく聴くことができなかった。柴幸男のままごと「ファンファーレ」とか黒田育世「おたる鳥を呼ぶ準備」とか、僕がたしかに1度はほんとうにほんとうにすごいとびっくりして感動してしまったひとたちが僕がわりあい興味を持てないことをやりはじめたりやったりしたときの僕の気持ちのあらわれかたをうまく制御することができたらいいのに。サリンジャー「テディ」という小説のなかで、テディという男の子は彼の両親について「あるがままのぼくたちを愛することはできないらしいんだ。ぼくたちをちょっとばかし変えないことには愛せないらしい。彼らはぼくたちを愛すると同時にぼくたちを愛する理由を愛してるんだ」と言ったけれど、もしも僕が大森さんやあるいはほかのひとをつくりかえることでしか愛しつづけることができないのであれば、それはきっと僕が彼女やほかのひとたちを愛さないよりもよほどあわれなことなんだろうと思う。
 モーパッサン「女の一生」をぼちぼち読んだ。近代小説のおかげでひとびとは恋愛ができるようになったという話をどこかで聞いた記憶があるけれど、こういう小説を読むとそうかもしれないなと思う。近代小説というものに僕がもっとも憧れる部分があるとしたら、それは作者が言葉でもってにんげんの気持ちとか世界のありかたというもののあらゆることを表現できるというつよい気持ちを抱いているように見えることだと思う。


 彼女が水の冷たさを味わっていると、夫がその胴に手をまわして、樋のくちの妻の場所を奪おうとした。彼女はそうさすまいとした。唇と唇が闘い、ふれあい、たがいに押しのけあった。闘いのそのときどきの運で、二人はかわるがわる樋の細い端をとらえては、離すまいと口にくわえた。冷たい水の糸は、たえずとらえられたり、また離されたりするものだから、とぎれたり、また結びあわされたりして、二人の顔や、頸筋や、着物や、手にしぶきを飛ばした。真珠のような水滴が二人の髪のなかで光っていた。接吻が水のなかを流れた。


 こういう文章が書きたいと思うわけではないけれど、たとえば「冷たい水の糸」という表現も「接吻が水のなかを流れた。」という表現もおそらくはモーパッサンが言葉でもってにんげんの気持ちとか世界のありかたというもののあらゆることを表現できるというつよい気持ちを抱いていなければとてもつかえないと思う。それはおそらくは詩的な表現であったり、もっと露骨な言いかたをつかえば美文ですらあるだろうけれど、この美文要素は「彼女が水の冷たさを味わっていると、夫がその胴に手をまわして、樋のくちの妻の場所を奪おうとした。」というなそれよりはいくらかふつうの文章と並列にならべられているような印象を受ける。それに、僕がうえに引用した文章はひとつの段落まるごとであって、ひとつの他愛ないやりとりが「接吻が水のなかを流れた。」という詩的文章で締められている。この締めの文章は通常の文意を伝えるためであればまったく不要かもしれない1文だけれど、とくにつよい詩的要素がそのまえの文章すべてをつつみこむようにして段落ひとつまるごとの美的印象をたかめている。僕が「言葉でもってにんげんの気持ちとか世界のありかたというもののあらゆることを表現できるというつよい気持ちを抱いている」と書いたことはおそらくこういう段落から起因しているんだろうと思う。
 偏狭な考えかもしれないけれど、すくなくとも僕の考えでは、モーパッサンよりももっともっと現代的な、たとえばドストエフスキーやカフカの小説ではもっと文章はばらばらだ。カフカ「審判」の最後の1行、「恥辱だけが生き延びるようであった。」という文章はそれまでの「審判」のどこともまったく関係しないような印象すら受けてしまう。それほどのつきはなしかただと僕は思う。ジャン・ジュネ、セリーヌ、プルースト、ベケット、ブランショたちの文章は文章自体がすでに彼らが表現するもの自体を凌駕し、それ自体がひとつの現実の生成を担うような転倒した領域にはいってしまったように思う。
 モーパッサンではない僕たちはすでににんげんの気持ちを表現することから離脱してばらばらの場所やばらばらの時間で孤独に文章を書きつづっているのかもしれない。でも僕はそれを否定したいと思わない。すでに信じられなかったり信じたりしたくないものを目前にしながらそれについてなにかを言ったり書いたりすること、なにかを信じるやりかたがもうそれしかないのであれば僕たちはそうするしかないし、それはそんなにわるいことでもないだろう。


 5月14日(火)

 残業ができないということがこれほどつらいことだとは思わなかったよと思った。
 モスバーガーにいって小説を20字くらい書いた。家に帰って村上春樹「パン屋再襲撃」を読んだ。「ファミリー・アフェア」がおもしろかった。読みおわってしまったから「緑色の獣」を読みたくなって「レキシントンの幽霊」を読みはじめた。「緑色の獣」は定期的に読みたくなるけれど読むたびにあんまりおもしろくなくてがっかりしていて、今回もばっちりがっかりしたからかなしかった。いくらなんでも小手先すぎると思った。


 5月15日(水)

 6時くらいに会社から帰ってモスバーガーでモーパッサンを読んだり小説を書いたり日記を書いたりしていた。




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