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前田司郎「いやむしろわすれて草」@青山円形劇場

2013.05.19(01:54)

斜陽 (新潮文庫)斜陽 (新潮文庫)
(2003/05)
太宰 治

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 5月16日(木)

 会社にいって気がついたら夜の8時だった。
 家に帰って村上春樹「レキシントンの幽霊」を読んだ。


 5月17日(金)

 今日は8時まで残業をしてやろうと決意をしていた。6時になって、みんなが帰るようなそぶりをしていて、僕ひとりだけ知らん顔をしていたらみんなたちあがって僕を見ていて、ビール祭り、と言われた。はあ、と僕は言った。けやき広場でビール祭りがあるんだけど、と言われて、はあ、と僕は言った。Nさんが、あれ、わたしちゃんと言っておいたはずだけど、と言って、いや、僕、まったくなんにも聞いてないです、と僕は言った。じゃあ、はい、いきます、とそのあとで僕は言った。けやき広場にはたくさんの屋台があってあちこちにひとが群がっていた。地べたにシートをひいて場所とりをして、僕はいちばんしたっぱのくせになんにも動かずシートのうえに座ってほかのひとたちが買ってきてくれたビールを飲んだりあげものを食べたりしていた。道を歩けばおなじ会社のひとにあたった。僕はとくになにもしゃべらなかった。Hさんがこどもをつれてきていた。こどもはチョコパンマンとさけんでいた。MTさんがそのこどもに覚えておいたほうがいい言葉があると言っていた。アベノミクス、これだけ覚えておけばいい、と言っていた。SYさんはインリン・オブ・ジョイトイの話をしていた。僕はそのこどもとはけっきょくひとことも口をきかなかった。
 家に帰って「レキシントンの幽霊」を読みおえた。


 5月18日(土)

 橋下徹というひとが当時慰安婦は必要だったと言ってアメリカから批難されたという話を知って、そのことについてのかこみ取材の動画をyoutubeで見ていた。新聞社が橋下が慰安婦が必要だと思っていると発言したような報道のしかたをしたということだった。橋下と新聞記者たちががかりに対立しているとしたら、僕の考えではそれは橋下が言葉を問題にしているのではなく行為や感情や問題にしているいっぽうで記者たちが言葉を問題にしているからだと思う。橋下がくりかえし慰安婦なんてだめに決まっていると発言しているのに彼らはあくまで過去の発言の字づらにこだわっているように見える。彼らが求めているのは橋下の考えや感情ではなくて橋下の言葉なんだろう。そして彼らはわれわれは言葉の微細な表現のしかたにこだわると言ってその言葉の解釈のしかたを求めつづけている。僕の考えだと、言葉の微細な表現のしかたになんらかの解釈を求めるということはとくにわるいことではないけれど、その表現を論理性と事実性だけで解釈をくりかえしてもむなしいだけだと思う。言葉の字づらを解釈すれば事実というものが見つかるなんてほとんど狂った幻想にすぎない。事実も客観性も、あるいは倫理や道徳すらも正義ではない。言葉であらゆる事実と感情を表現できそのあらゆる事実と感情を論理的に解釈または説明できるなんて世界はきっと地球の歴史上1度だって生まれてはいない。僕の考えでは新聞記者たちがこのとき橋下に求めたのはそういうことで、彼らが無意識にでもそれを求めているとしたら彼らが愚鈍であったり醜かったりするからというだけのことだと思う。意味は言葉から発生するものではない。言葉と事実の相関のあいだに生まれるものが意味であって、その意味はたぶんに恣意的に揺らぐ。慰安婦を「必要」だったと言った橋下の言葉の解釈に辞書的意味を持ちだした記者すらいたけれど、橋下が私はこういう意味で言ったとくりかえしくりかえし発言しているなかでその言葉を執拗に辞書的意味で解釈しようとするのはほとんど狂気的だと思う。なぜ彼らがそこまでめのまえのにんげんを信用しないのか、そのくせに橋下の言った言葉の字づらだけをかたくなに信用しようとしているのはなぜなのか、僕には理解できない。その非信頼性が橋下個人への感情に起因しているとしたら、彼らはけっきょくのところ公正でも客観的でもなんでもなんでもない。
 渋谷まででかけてヴェローチェでモーパッサン「女の一生」を読みおえた。この作品はほとんど俗物しかでてきてはいないけれど、唯一ロザリだけが非俗物として描かれて思う。俗物を俗物らしく描くということはおそらくは現代の文学から見ればほとんど貴重なことで、個々のにんげんの単一性を無自覚に認めてしまった現代では、というよりもすくなくとも僕にはそういうふうには描けないと思う。僕はたとえば描写というものを重ねることによって個々のにんげんのにんげんとしての深さを描きつらねようとしている。そしてそれは同時ににんげんのからっぽさをおおいかくしてしまう。そのにんげんのからっぽさの程度にかかわらず描写を重ねることそのものがにんげんの深さの程度と一致してしまいがちだ。これがにんげんの問題なのか表現の問題なのかということを僕は知らない。表現するということもたしかにはにんげんの問題のひとつとしてあらわれるだろうし、150年もまえのにんげんのこころを現代のにんげんのこころと比較して150年まえのにんげんは現代のにんげんよりも複雑にものごとを考えてはいなかったということはたとえモーパッサンを根拠にあげても言うことはできないだろう。


 お母さまは、つとお立ちにあって、あずまやの傍の萩のしげみの奥へおはいりになり、それから、萩の白い花のあいだから、もっとあざやかに白い顔をお出しになって、少し笑って、
「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」
 とおっしゃった。
「お花を折っていらっしゃる」
 と申し上げたら、小さい声を挙げてお笑いになり、
「おしっこよ」
 とおっしゃった。
 ちっともしゃがんでいらっしゃらないのには驚いたが、けれども、私などにはとても真似られない、しんから可愛らしい感じがあった。
                  ――太宰治「斜陽」

 モーパッサンの小説のすがすがしさとたんじゅんなおもしろさは行為とそこから派生する感情が僕たちが一般的に抱くこうだろうという道徳観や一般的感覚と基本的に一致しているからだと思う。太宰治ではもはやそういうある意味でのたんじゅんさは消失している。散歩しているときにいきなりおしっこをはじめた母親へ抱くかず子の感覚は僕をはっとさせる美しいものがたしかにあるはずなのに、僕はそれを一般的道徳観で説明できるだろうとは思わない。あたらしい感覚というものがあたらしいと呼ばれる文学をきりひらきもしたし、それはあたらしいにんげんの誕生だったのかもしれない。そしてそういうあたらしい感覚が一般化したとき、ではなぜ、僕はモーパッサンの小説を読んだときのように行為とそこから派生する感覚が僕たちの道徳観や一般的感覚と基本的に一致しているような感覚を覚えないんだろうか。それはたぶん、僕たちがいまだ近代を生きているからで、そしてそれはけっきょくのところ、現代を理解することも現代の感覚というものをあたりまえのように受けいれることもできていないからだと思う。それでもモーパッサンの小説に感情移入できないとしたら、そもそも僕たちはいったいどういういきものなんだろうか。
 青山円形劇場で前田司郎「いやむしろわすれて草」を見た。前田司郎と満島ひかりを目的としていってけれど、前田司郎の作品としてはよくできているほうではなかったと思う。全体的には死の雰囲気がただよっているけれど、僕は前田司郎がそういうことをうまく表現できる劇作家だとは思ってはいなくて、とくに、喧噪と対比的に描かれる静けさの場面ではどうしても退屈してしまう。なんでもない会話というものが喧噪の対比として効果をあらわすだろうというものはけっきょくのところ喧噪のちからにたよりきったことだと僕は思うし、もしも前田司郎がそうではないものをねらっていたとしてもそれはやっぱり稚拙だと思う。たとえばマームとジプシーはせりふがすぐれているわけではない、それでも彼らのせりふが観客たちを感動させるというのであればその月なみなせりふを感情のたかまりにあわせて過度なくりかえしをおこなっているからで、感動した観客がかりにあのせりふがよかったということをあとになって言ったとしてもそれはほんとうにはそのせりふがよかったというわけではなくただそのせりふのくりかえしがよかったということになると思う。前田司郎はそこまで過度に観客を感動させようとなんて思っていないだろう。問題は、たとえそうだとしても前田司郎にはそのかわりに観客たちにさしだすことができるものをなにも持ってはいないだろうということだ。前田司郎の喜劇ではない作品でいちばん気にいっているのは「生きてるものはいないのか」で喜劇作品でいちばん気にいっているのは「俺のお尻からやさしい音楽」だけれど、そうではない、今回のような中途半端な作品はいくら満島ひかりがでているからといって6000円もだすようなものではないし、前田司郎にしても、そもそもたいした作品をつくろうなんてきっと思っていないだろう。
 太宰治「斜陽」をすこしだけ読んだ。ヴェローチェにもう1度いって日記を書き、小説を書いた。




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