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そこで生成されたざらついた感触のうらがわにまでカメラがもぐりこんでいってしまったかのような

2013.05.21(00:47)

インストール (河出文庫)インストール (河出文庫)
(2005/10/05)
綿矢 りさ

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 5月19日(日)

 新宿までルドンを見にいこうと思ったけれどなぜだか髪をきりにいってしまって、それからドトールにいって太宰治「斜陽」を読みおえた。奥野健男の解説が僕は好きではないけれど、それは「太宰治の全作品が消えても、『人間失格』だけは人々にながく繰返し読まれ、感動を与え続ける、文学を超えた魂の告白と言えよう。」とか「ドストエフスキーの『カラマアゾフの兄弟』や『悪霊』のような壮大な展開こそないが、(『人間失格』の)その深さは『地下室の手記』を超えている。」とかそういう言いかたが気にいらないからだろうと思う。「斜陽」もそうだけれど、「人間失格」だってけっきょくのところひとつの文学、あるいはひとつの小説でしかない。それがきわめてすぐれたものであるということを言いたいがために「文学を超えた」なんていう表現をつかう必要はないし、そもそも「魂の告白」と奥野が言っていることがどうして文学よりもすぐれた表現であるのかが僕には理解できない。文学の優良性をたかめていけばそのうちに「魂の告白」と呼ばれる領域に突入してしまう考えるのはどこか「俺のやっている文学は高尚だ」とでも言いたげな傲慢さがちらついてしまうように思う。おなじように奥野は「人間失格」が「地下室の手記」の深さを超えていると言っているけれど、僕の考えでは文学は深さくらべをしているわけではないし、おそらくは僕たちの現実はどんな深さどんな浅さとも呼応してしまうだろうし、そしてそうであるならば僕が考えたいと思うのはそんなふうに呼応してしまわざるをえないにんげんの感情とかにんげんと文章の連関のありかただと思う。たとえば柴崎友香の小説にも舞城王太郎の小説にも太宰治ほどの深さはない、けれどそれが彼女たちの小説が太宰治より劣悪だということを示すわけではないし、そもそも深さというものはいったいなにか、なぜ文学には深さなんてものが求められるのか、その深さと呼んでいるものは僕たちがその文学に対して抱く理解できない領域のおおきさといったいどうちがうんだろうか、ということを考えていかないとけっきょく僕たちはあいもかわらず深さくらべとか高尚さくらべに終始してしまう。文学は、小説はそんなもんじゃないよ。
 家に帰って明けがたまでずっと綿矢りさ「蹴りたい背中」を読んでいた。


「突然だったのに、おれんちまで来てくれてありがとう。」
 ゆっくり言って、おもむろに側に寄ってきた。
「でさ、」
 口から唾が飛んできて、思わず目をつぶった。彼はごめんと言って慌てて私の目の下についた唾を親指でぬぐった。うぶ毛の擦れるしゃっという音が微かに耳に響き、指の腹の生あたたかい感触が肌の上に残った。



 今度はこづかれた男がふざけて、試食のコーンフレークをつまんで、女の人に食べさせ始めた。女の人も鳥みたいに首を動かして、コーンフレークをついばむ。なんだかエッチな光景。でもここで照れてうつむかないでいたら、この人たちの仲間になれるかもしれない。次は、私にもコーンフレークが向けられた。彼の茶色い瞳は気持ちよさそうに潤んでいて、明らかに酔っている。私と目が合っているのに、私を見ていないみたい。お望みどおりコーンフレークを食べようとうすく口を開けたけど、いざ食べるとなると戸惑った。鼻先で揺れている一粒のコーンフレークは、私が今まで食べていたものとは違う。彼女がついばんでいたものとも違う。だって、私はこのコーンフレークを持った外国人とは、知り合いでもなんでもないのだ。餌だ。半開きの口のまま、喉だけで唾を飲んだ。自分が段々戸惑い顔になっていくのが分かる。あんまり食べたくない、でもしらけた空気が怖い。だから、ぐっと力を入れて背伸びして、顔を傾け、彼のつまんでいる秋色のコーンフレークを前歯で取った。舌に、乾いた親指の爪が触れる。私だってノリに乗ったりはできるんだ、やり遂げた、というかノリ遂げた。傾いた顔のままで男の瞳を見たら、その瞳の色で言葉を超えて分った。男の人は、気味悪がっていた。


 雑誌を熱心に見ているにな川の口から、しゃぶりかけの飴が、くたっとしたタオルケットの上に落ちた。
「ん、飴が。」
 にな川の指が飴をつまみあげる。べとついたオレンジ色の三角飴には、タオルケットの毛がからみついている。心がかすかすになっていくような急激なむなしさにおそわれた。



 ここには一般に文章を書こうとするときに描こうとするようなものがぬけているような感覚を抱いてしまう。ふつう描写というものが塗りかさねを基本としてなりたっていくものだとすれば綿矢りさの文章には狭義の描写なんて存在していないのかもしれない。そういうものを通過するまでもなく綿矢りさの文章が極めて肉感的でなまなましさにあふれたものだとしたら彼女が描写というものを空白のままおきざりにしてなお肉感に一気に到達しそれに蹂躙されてしまうからだと思う。


「突然だったのに、おれんちまで来てくれてありがとう。」
 ゆっくり言って、おもむろに側に寄ってきた。
「でさ、」
 口から唾が飛んできて、思わず目をつぶった。彼はごめんと言って慌てて私の目の下についた唾を親指でぬぐった。うぶ毛の擦れるしゃっという音が微かに耳に響き、指の腹の生あたたかい感触が肌の上に残った。



 この文章でにな川がハツに接近をして彼の指が彼女の目のしたの肌をなでつけるまでの時間と空間の距離はかつてカフカが描いたようにどこかしらゆがんでしまっているように思う。肉感と呼びえるものが彼女たちのこころを犯し、そこにたしかにあるはずの空白ですらも肉感に変質させてしまう。


 あんまり食べたくない、でもしらけた空気が怖い。だから、ぐっと力を入れて背伸びして、顔を傾け、彼のつまんでいる秋色のコーンフレークを前歯で取った。舌に、乾いた親指の爪が触れる。


 僕は綿矢りさの文章をこわいと思うけれど、それはきっと彼女がなされた肉感的な蹂躙がそのまま気持ちまでをもたやすく犯してしまうからだと思う。ここでつかわれている「秋色」という繊細なイメージを「前歯」という単語で綿矢りさは塗りつぶしてしまう。透明なありかたを求めるのであればここで「前歯」というものを持ちだす必要もなくて「舌に、乾いた親指の爪が触れる。」なんていう感覚をだす必要もない。カメラのフレームはこのときすでにここで描かれているにんげんの姿をうつしだしていない。たとえていえばそこで生成されたざらついた感触のうらがわにまでカメラがもぐりこんでいってしまったかのような印象だ。気持ちが、こころが、そういう感覚の表面のうえで露悪的にふくれあがっていくようだ。


 この、もの哀しく丸まった、無防備な背中を蹴りたい。痛がるにな川を見たい。いきなり咲いたまっさらな欲望は、閃光のようで、一瞬目が眩んだ。
 瞬間、足の裏に、背骨の確かな感触があった。
 にな川は前にのめり、イヤホンは引っぱられCDデッキから外れて、ラジオの音が部屋中に大音量で鳴り響いた。おしゃれな雑貨屋なんかで流れていそうなボサノバ調の曲に全然似合っていない驚いた瞳で、彼は息をつめて私を見つめている。



「痛。」桃を食べたにな川が、顔をしかめた。
「どうしたの。」
「桃の汁が唇に染みる。乾燥している唇の皮を剥いたんだった。」
 鼻がつまった口呼吸をしているせいか、にな川の唇は乾燥してひび割れていた。さぞかし、染みるんだろう。唇に親指をあてて眉をしかめている彼を見ていたら、反射的に口から言葉がこぼれた。
「うそ、やった。さわりたいなめたい、」ひとりでに身体が動き、半開きの彼の唇のかさついている所を、てろっと舐めた。血の味がする。
 にな川がさっと顔を引いた。



 空白にひろがったその近しさはなんだろうと思う。彼女は意識をしないまま肉体的な感覚に向かっていってしまう。そのゆがんだ接近のしかたというものを気持ちで押しつぶしているようにすら思える。


 にな川が人だかりから引っぱり出されていくその後ろで、オリちゃんは用意されていた車に乗り込み、窓からファンたちに手を振り、笑顔のままで去っていった。
「今度出待ちの時にああいう乱暴なことをしたら、今度は警備員さんに連れていってもらうからね。」
 スタッフの冷たい声が響く。にな川が冷静に“対処”された。スタッフに、そしてオリちゃんに。彼は絹代に引っぱられたせいでだらしなくはだけているシャツの襟元もそのままに、がらんどうの目をして放心している。そして私にはそんな彼が、たまらないのだった。もっと叱られればいい、もっとみじめになればいい。



 この場面でにな川の空間的物理的位置というのはかなり揺らいでいるけれど、そのいっぽうでハツや絹代の空間的物理的位置は直接的には描かれていない。そしてここにでてくるスタッフのひとたちは極めて無機的に描かれていてにんげん的な肉感をまったく持っていないし、それはオリチャンにしても同様だ。そのなかで声だけが響きハツの気持ちがいきなり露出されるように描かれる。この場面があやういのはおそらくはこの場面を映像におこすということがほとんど不可能だというように感じられる距離感の不透明さだろう。このときすでに綿矢りさの文章は一人称ですらない。現実がそうであるようなありかたや動きでもってこの文章はくみたてられてはいないしそうやってできあがった隙間のような場所にハツの一人称のなまなましい言葉がふっとはいりこんでそれが僕たちをよごしていくんだろう。


 5月20日(月)

 会社から帰って綿矢りさ「インストール」を読んだ。この文庫本におさめられている「You can keep it.」という小説はおそらくつきつめれば僕が最後に引用したにな川がスタッフに引っぱりだされていく場面を極端にしたものだと思う。綿矢りさの文章のなかでいちばんすごいのは「You can keep it.」だと思う。この小説はあまりに異常すぎて異常なのかどうかも自信が持てなくなってくるようにすら思うけれど、それでもやっぱり異常なんだろう。


 太い幹と、別の種類の低木の枝葉の隙間から少しだけ見える先には、砂利の敷かれた地面があり、遊歩道かもしれないと思ったけれど、人の気配はなく、鳩よりも小さい鳥の影が跳ねるように横切った。静かだった。そこらじゅうの木や草から湿気が立ち上って、わたしの皮膚にじっとりとくっついてきた。植物と土の匂いがした。
              ――柴崎友香「ポラロイド」


 私はそのあいだ、何をしていたのだろう。革命を、あこがれた事も無かったし、恋さえ、知らなかった。いままで世間のおとなたちは、この革命と恋の二つを、最も愚かしく、いまわしいものとして私たちに教え、戦争の前も、戦争中も、私たちはそのとおりに思い込んでいたのだが、敗戦後、私たちは世間のおとなを信頼しなくなって、何でもあのひとたちの言う事の反対のほうに本当の生きる道があるような気がして来て、革命も恋も、実はこの世で最もよくて、おいしい事で、あまりいい事だから、おとなのひとたちは意地悪く私たちに青い葡萄だと嘘ついて教えていたのに違いないと思うようになったのだ。私は確信したい。人間は恋と革命のために生れて来たのだ。
                 ――太宰治「斜陽」


 風景でも思想でもいい、一般的に文章を書くひとはそれらのものを構造的にそして立体的にくみたてようとする。柴崎友香の文章はひとつずつの文章が描写、感覚、描写、感覚、という基礎的なくりかえしで構成されている。風景描写をわりあい色濃く連綿と描くことでそのつらなりから派生される感覚が短い言いきりの表現でなされることに独特の美しさをあたえている。彼女がやっているのは風景がもたらす受動的な働きが「わたし」になんらかの感化をあたえその感化によって風景をとらえなおし気持ちもまたあらたにしていくというたんじゅんでありながら濃く気持ちのいい描写だ。いっぽうで太宰は否定からはじめる。最初のふたつの言いきりのあとで長いつらなりの文章ではじめ思考感覚の高まりとともに最初の言いきりをうちくだくさらに強度の高い言いきりを放つ。
 たしかにこれらは僕がある程度恣意的に選び恣意的に解釈をほどこしたものだけれど、僕が柴崎友香を選んだのも太宰治を選んだのもたまたま手もとにあったからというだけのことで、すくなくともそれらの文章というものが構造的に把握されうるぐらいにはひとつのかたちをなしているだろうというくらいには僕は小説家たちがあたりまえのように書いている文章の上質さを信頼したいと思う。ひとつの文章のあとにまたべつの文章を積みかさねその文章の積みかさなり具合をリズムと呼んだり文体と呼んだりして、その積みかさねかたがつたないということを文章がへたくそだと呼んだりする。けれどいったいなぜ僕たちにはそういうことができるんだろうか。それは僕たちが文章というものを構成することができるためのひとつの視点というものを持っているからだと思う。一人称でも二人称でも三人称でも神様視点でもなんでもいいけれど、言葉というものが発されるある地点を作成しそこを基点として僕たちは言葉をつむいでいく。綿矢りさ「You can keep it.」の文章がすくなくとも僕には異常に思えるのは、ふつう作家たちが暗黙の了解として定めたその地点自身への意識が希薄だということだ。この小説のなかでは感情がときどき無防備にさらされる、けれど僕にはその感情のありかがうまくわかることができない。文字のうえの微細な空間にふわりと浮かびあがったまま皮膚のうえをなぞるような奇妙な感覚だけがのこされてしまうように思える。たぶんこの小説は一人称でも二人称でも三人称でもなくそして神様視点ですらない。


 綾香とはクラスコンパで自己紹介程度に一度話したきりだ。“城島っておしゃれだね”と言ってくれた。毎週水曜の必修の、基礎経済学のクラスが同じだったが大教室で生徒は百人くらいいたから話しかけにくかった。自分のことを覚えているか分からない。買ったばかりの平べったい帽子をかぶり直してうつむきかげんで歩いていったら、ちゃんと「城島?」と呼びかけてくれた。
 

 この文章の基点、視点のもともとの発生もと、あるいはこのときの人称はどうなっていると問われれば城島の三人称、あるいはこの文章だけを読んだら一人称だと思うのがふつうだと思うし、実際切りとられた文章をくりかえし読んでみればたしかにそういう構成になっているというのは理解できると思う。けれど僕はそれは消極的に選びとられた視線だと思う。実際、この文章の視点はしかたなしに三人称だとか神様視点だとしか呼びえないものになっているけれど、「綾香とはクラスコンパで自己紹介程度に一度話したきりだ。」というのは一人称的な書きかたで、それをふつうに三人称で書くとしたら「城島と綾香はクラスコンパで自己紹介程度に一度話したきりだった。」とかそういうそういう書きかたをせざるをえないのに異様な一人称的現在形の言いきりなかたちがとられている。そして「自分のことを覚えているか分からない。」という文章とそれにつづく「買ったばかりの平べったい帽子をかぶり直してうつむきかげんで歩いていったら、ちゃんと『城島?』と呼びかけてくれた。」という文章には柴崎友香や太宰治の文章で表現されていたような通常の意味での積みかさなりあいはない。この小説の異様さはたしかに極端にけずられた主語に起因しているかもしれないけれど、むしろそれは主語をかきけさざるをえないような独特の視点のとりかただと思う。


「あいつ、やたらくれるな」
 保志が腕時計をつけると、細い革ベルトの華奢な時計は腕にめり込み太い手首を締めつけて今にもはじけ飛びそうになった。
「返した方がいいよ、あの人の方がよく似合ってた」
 そう言う三芳もつい最近もらった香水をつけてきている。



 この小説の冒頭だ。ここにはこの小説の主人公のはずの城島は登場していない。次の場面から事実上城島を視点としての描写になっていくのにこの場面だけは城島が登場していない。かと言ってこの場面が保志の視点で描かれているわけではないし、三芳の視点で描かれているわけではない。


「あいつ、やたらくれるな」と保志は言った。
 彼が腕時計をつけると、細い革ベルトの華奢な時計は腕にめり込み太い手首を締めつけて今にもはじけ飛びそうになった。
「返した方がいいよ、あの人の方がよく似合ってた」
 保志のとなりに立っている三芳がそう言った。彼女もつい最近もらった香水をつけている。



 たとえばこういうふうに書けばすくなくともなんらかの視点はかろうじてなりたつように思う。僕がくわえたのはわずかなものだけれど、「保志は」の「は」という絶対的な主語を表現する助詞と「保志のとなりに立っている」という空間的な位置関係を補う1文ですくなくとも原文よりは視点が保志よりになって違和感は薄れるだろう、というより、ふつうはそういうふうな絶対的主語と空間的位置関係を提示するように書いていくはずだし、僕たちが無意識にしろそういう書きかたをするのはそうでないかぎり小説的な空間を構築していくやりかたをほとんど知らないからだ。日本語の「が」という助詞は「は」という助詞よりもその主語における他者性がつよい。「~と僕が言った。」という文章は「~と僕は言った。」というほどの自然さをまといはしないし、「~と僕は言ってみた。」と言うのは自然だけれど「~と僕が言ってみた。」というのは日本語としてもうおかしい。「が」という助詞は自分以外の、言いかえればその文章が書かれている基点から見られた事物を主語にとるべき言葉だと思う。「保志が腕時計をつけると、細い革ベルトの華奢な時計は腕にめり込み太い手首を締めつけて今にもはじけ飛びそうになった。」という文章は書かれえるけれど、「保志は腕時計をつけると、細い革ベルトの華奢な時計は腕にめり込み太い手首を締めつけて今にもはじけ飛びそうになった。」という文章は日本語としてはおかしい。この文章がそのまま保志を視点の基点として書きなおすことができないのはここに書かれている文章のすべてが他視点から生成された事物として描かれているからで、だからこそ「細い革ベルトの華奢な時計は腕にめり込み太い手首を締めつけて今にもはじけ飛びそうになった。」という時計自体の自動的な運動が描かれえている。このとき保志と腕時計はどちらも視点の基点ではない他者的な事物として描かれている。この書きかたは神様視点ではない。一般的な神様視点というのはAという人物の視点で書かれたそのあとでBという視点で書いてもいいという三人称の規則をゆるめたもの、あるいは三人称をそのままの意味で拡大したというだけのものでしかなく、なんらかのものを描写しようとしたときにある視点の基点にたってものごとを描写するということから見ればそれは三人称となにも変わりはしない。綿矢りさがここで描いているのはそうではない。この文章にはそもそもなんらかの視点の基点にたってそこから見られたものを描写しようということすらおこなわれていない。
 この小説は小説からかなり遠くへだたってしまっていると思う。脚本だったならばこの小説もまだしもまともでいられただろう。けれどこの文章はこんなにもつめたく不安定であり視線を欠きながらなお肉感的な感覚と感情が眼前におしだされてきてしまうような、そんな文章だと思う。


 綾香は肩を叩いてきた三芳としばらく話していたが、身体をねじって、きっと睨んだ。遠いのに、まるですぐ側にいるみたいに近くで綾香と目が合う。まだ怒っている強い瞳の光、まぶしすぎて目を細めるがそらさずに、なんとか見つめ返す。熱い国に一緒に行きたい。
 教授が教室に入ってきて、三芳がサンダルの足で走りにくそうにして慌ててこちらに戻ってくる、指で小さな丸を作って見せながら。
 城島は拗ねたように唇をとがらせる。インドで綾香が問い詰めてくる予感がした。“どうして嘘をつくの?”と。思っていたよりも気が強いみたいだからな、あいつ。そこまで考えてから、頬づえをついた城島の顔が、身体が、ぶわりと火照った。



 どうしてこのひとをこんな文章を書くことができてしまったんだろう。




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