スポンサーサイト

--.--.--(--:--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





スポンサー広告 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]

ロロ「ミーツ」@アゴラ劇場、グッバイフジヤマ&Beat Happening!@渋谷LUSH

2013.06.03(01:38)

空が分裂する空が分裂する
(2012/10/05)
最果 タヒ

商品詳細を見る

 5月21日(火)

 会社にいった。


 5月22日(水)

 会社にいった。


 5月23日(木)

 会社から帰って明日までにださなければいけないMKさんの結婚式の招待状の返事を書いた。書きかたを知らないのでインターネットで調べていたら、応用編として寿という字を書いたほうがいいよということが書かれていて、サンプルを見たら紙面のあちこちが寿で覆われていてぞわっとした。

 
 5月24日(金)

 会社にいって結婚式の招待状を渡した。インターネットで見たら、2、3日以内には返信しましょうと書いてあったけれどそれは見なかったことにした。
 乙武という車椅子のひとが入店拒否をされたとしてTwitterでお店の実名をさらして批難したということが話題になっていた。ただこれはそもそも車椅子の問題でも障害者の問題でもない。乙武というひとの人間性の問題とそのお店の店主の人間性の問題だと思う。それが障害者の問題だとかバリアフリーの問題だとかに派生しているのはただ乙武というひとが有名だからというだけのことだと思う。僕が見たかぎり乙武というひとはいっかんして店主の人間性について言及しているし、彼はそれ以外のことについてとりたててなにか言っているわけではない。国会でもこの問題はとりあげられ、それをきっかけにしてバリアフリーがさらに推進されるかもしれない。けっきょくのところ個人の問題にすぎないことを社会的問題に拡大させて考えてしまうのは僕たちが個人の問題を考えるより社会の問題を考えるほうがらくだからだろうと思う。僕はきみのことを愛しているのか、きみは僕のことを醜いと思うのか、たとえば想像力が必要とされるのはそういうことだと思う。想像力が必要とされるのは地球のうらがわにいるひとのことを考えるときではなくいま目のまえにいるひとのことを考えるときだ。


 5月25日(土)

 太宰治「ヴィヨンの妻」なんかを読みながら電車にのって、アゴラ劇場までいってロロ「ミーツ」を見てきた。ロロはさいきんの数作はすべて見ているけれど、すべてちゃんとおもしろくあってくれてうれしくて、きちんと安定的にその作品がおもしろいということはじつはけっこうすごいことなんじゃないかと思った。「ミーツ」は想像力ということがひとつのテーマになっていて、少年と怪物のやりとりも舞台上ではふつうにやりとりをされているけれど怪物のせりふはすべて少年が勝手に想像したせりふということになっているし、逃避行に憧れた男女は敵もいないのにだれかから逃げつづけているし、その逃避行の果てにこれを俺だと思ってくれと言われて渡された缶コーヒーを女のひとは男だと思いこんだまま生きていくし、森のなかに住む女の子はシルバニアファミリーの家をずっと背負っている。作品のテーマおよび展開はそういうたぐいの想像力に収縮されるように動いていくのに、僕が見てきたロロの作品がいつもそうであったように物語はまとまりを得ないままほとんどむりやりみたいに進んでいってしまう。といっても、それはたとえばゴダールの映画や高橋源一郎「さようなら、ギャングたち」のように物語が断片化されているというわけではないように僕には思えて、僕がなんとなくおどろいてしまうのはそんなふうに物語がまとまらないままでありながらなおそこに展開されるひとつひとつの要素が物語的なものを内包しているということだ。ゴダールは私はいつも物語を描こうとしてきましたと言っていて、であるならばおそらくは高橋源一郎もおなじことを言うかもしれないし、それはさらにおそらくは最果タヒをはじめおおくの現代詩作家が言いたいことのひとつであるように思う。けれどそれについて言うのはひどくむずかしい。
 ロロの演劇全体を眺めたときに通常見られる物語は散発的であってまとまりがない。けれど、そうやってまとまりのないひとつひとつのものを見たときにそのひとつひとつにちいさな物語が内包されているように見える。僕が見たかぎりそれはゴダールや高橋源一郎とはちがうやりかたで、どちらかと言えばリチャード・ブローティガン「西瓜糖の日々」に近い。そういう物語の語りかたもあるんだろう。
 もうひとつ、僕はこれはロロの最大の特徴だと思うけれど、ロロの演劇にはすべりというものがないように思う。そもそもロロの演劇は観客にここで笑ってほしいというポイントが明確ではないと思う。最初のふたりの少年のやりとりは寒いものだと思うけれど、笑おうと思えばたしかに笑えないこともないように思う。重要なてんは観客にとって笑っても笑わなくてもいいという観劇の自由性を提示しているというところで、ここで笑わなくてもすくなくとも僕はすべったという印象を受けなかったし、そうでないのであれば僕はこのやりとりで笑っても笑わなくてもいい。これはコントとかでもお笑いのテレビ番組とかでもおなじだと思うけれど、観客を笑わせるということにおいて大事なことはそのひとがおもしろいことをやるということだけじゃなくて、これを見て笑ってもいいんだよという雰囲気を作成してあげるということで、そういう観点で言えば雛壇芸人とか笑い声のSEというのも本質的におなじことでそれはそういう雰囲気作成のための装置なんだろう。そして本来はにんげんである彼らがそういう装置になりさがっているということはコントあるいはお笑いの番組をひとつの作品として提示させるというありかたで、僕はそれはそれで美しいということのように思う。たとえば「B.B.ライダー」やドストエフスキーみたいな1対1の関係を結んだうえでなりたつ形式においてすらそれはなされている。演劇という舞台装置はその基本系においてシリアスだと僕は思う。そのなかで笑っても笑わなくてもいい、というありかたを提示することができているロロはやはり希有な劇団なんだろうと思う。
 そのあと渋谷LUSHにいって大森靖子さんのライブを見た。僕はこのあいだのクワトロのライブよりよかったと思う。ほかにガール椿と開くドアとグッバイフジヤマがでていて、僕は大森靖子さんめあてでいってたいていほかのバンドがでているときははやく終われーとしか思っていないけれど、この日でていたバンドのひとたちはどれもよくてちょっとびっくりした。いちばんびっくりしたのはやっぱりガール椿でたんじゅんにかっこうよかったと思う。開くドアやグッバイフジヤマを見ているとどうしてMr.Childrenがむかしにあんなに売れたのかがわかったような気がした。

 
 5月26日(日)
 
 図書館にいって舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日」と最果タヒ「空が分裂する」を借りて、ポレポレ東中野までいって濱口竜介「親密さ」を見てきた。僕はゴダールもエリセもタルコフスキーもアンゲロプロスも見なくてもこの映画だけは見てほしいと思っていて、それはきっとすくなくとも僕にとってこの映画でいまこの国においてもっとも重要なことがもっとも重要なやりかたで言われているようにすら思えるからだと思う。ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」のなかでイワンは遠くへ旅だってしまう前日、居酒屋の窓から弟アリョーシャを呼びとめ神についての話題をふる。それはぜひともしなければならない話としてイワンはとくに選んだ話題だった。こうして交わされる会話の内実もとてもおもしろいものだけれど、さいきん僕が気になっているのはむしろどうしてイワンはその話題についてそういう話のきりだしかたをすることができたんだろうということだ。そして、いま現代において僕たちは神の話題ではなくても僕たちが現実的にせつじつに思いたいことをいったいどうしたらおたがいに話しだすことができるんだろうということだ。もしもかりにいまの僕たちがイワンのように話しだすことができないとしたら僕たちはそれをどうやって話せばいいのか。久谷雉や最果タヒや安川奈緒や大森靖子が詩集のあとがきやアルバムにはさみこまれた紙のなかにそれを投げいれた。彼らの言葉が僕のこころのいくらかを動かしたのはそれがせつじつなやりかたによって投げかけられたからだと思う。そしてもういっぽうで、チェルフィッチュの岡田利規その演劇空間のなかでそれをはじめ、濱口竜介がその映画空間のなかでそれをはじめた。
 濱口竜介「親密さ」のなかでなされていることはわたしとあなたはどういった関係でその関係というものはほんとうにはどういったものなんだろう、そしてその関係からしょうじてくるわたしたちの気持ちとはいったいどういうことなんだろう、ということだと思う。そしてそれを言葉にしたり、あるいは言葉以外のことで表現するにはどうしたらいいんだろう、ということだと思う。彼らは神の話をしたわけじゃない。けれど、きっと彼らはイワンが神について語ったような語りかたでわたしたち自身のことについて語ろうとしたんだろう。
 それは語ることができないものだ。もしかしたら誤解されているかもしれないけれど、すくなくとも僕が思っているかぎりたとえば小説というものの方法は僕たちが抱いている気持ちや感情を言葉に変換して提示しているわけじゃない。すこしまえに村上春樹の短編をいくつか読みなおしてみたけれど、たとえば「ファミリー・アフェア」という短編においてはひとがいままでとは変わってしまうときあるいは変わろうとしているときに抱く気持ちのことが描かれている。けれどそれはそのときに抱く気持ちが言葉として、はっきり「こういう気持ち」というふうに明示されるわけじゃない。それは村上春樹がそういうものを示さないことが純文学的だと思ってそうしているわけではないだろうと思う。それはそうやって明示したときにそうではないものへと変わってしまうものごとだと思う。それでも、映画や演劇において言葉ではないものごとがなにかをあらわすように小説では言葉が言葉ではないものごとをあらわす。僕はまえに僕の小説が映画や音楽であればいいと言ったけれど、それはそういうふうに考えていけば映画と小説であらわされるものそれじたいにとくべつな差異があるとは僕には思えないからだ。
 語ることができないものについて語ること、ということができなくても、すくなくとも僕たちにはそれを語ろうとすることはできるはずだと思う。そして「親密さ」という映画を僕が好きなのはおそらくそれを語ろうとしている映画だからだ。ここで彼女たちが語ろうとしているのはにんげんとにんげんの関係のことだと思う。けれどそれはもしかしたら神の問題以上に語ることがむずかしいかもしれない。そもそも関係は言語的規定に優位にたってしまうものだからだ。たとえば僕は友達とか親友とかそういう関係の定義のしかたを問題にしたくはない。親友だからこうしてくれるはず、というものが基本的に好きじゃないからだと思う。そんなものは言葉の関係にすぎなくて、僕はだれかの友達じゃなくてもいっしょにいられるかもしれないし、だれかの友達じゃないからきらいなわけじゃない。そもそも関係を言葉で規定しようという僕たちの欲求はなんだろうか。ドストエフスキーの小説のせりふがおそろしいのはきっとそれらが意味に規定されていないからだと思う。彼の小説のなかのせりふはすべて意味として結ばれる以前に行為や感情そのもののように発されてしまう。彼らにとって言葉を発するということがおそらくはそのまま行為だった。それから以後、すくなくとも現代においては言葉と行為は断絶され二項対立的なものとなされてしまう。だから僕たちの言葉はどんな行為も背負いはしない。そしてそういうことを前提に村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」や舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日」は描かれている。言葉が行為とならない以上、他者の言葉はすべてふたしかなものとして僕たちに投げかけられ、小説という形態もそれにならっている。ゴダールが「役者というのはあなたがいまスクリーンのなかで見ているいまなにも考えていません。彼がこう考えていると思っているのは観客です」と言ったように、僕たちの気持ちや考えをつくっているのはその他者性となっている。なぜ僕たちの気持ちや考えをあらわすのは他人たちばかりで、僕の言葉や僕の考えは僕の気持ちをあらわしはしないんだろうか。


 あったことのない人を、みんなともだちだと思いたい
 あったことがないまましんでくれたら
 ともだちとして
 いいともだちとして
 永遠に思いこめるに違いない
 行ったこともないような、どこかの国で、ある日びょうきがはやるんだ、だれか
 が死んで、その人はおともだちだった いいおともだちだった
 それで私はかなしいのか、泣くのか、明日には笑ってテレビを見るのか
 ストレス
 毎日何万と死んで
 毎日何万と生まれて
 ともだちが入れ替わる
 ひどいことをする、意味のないことだ、
 会うことがないともだちは、入れ替わっても代わり映えしないのに
               ――最果タヒ「へらない」


 最果タヒの詩はおそらく僕たちの気持ちや感情を他人が規定するということを拒否している場所で書かれている。そしてそれが彼女の美しさだと僕は思う。
「親密さ」のなかで、平野鈴は演劇を抜け戦争にいった田山幹雄に向け、これからあなたがすることがわたしたちのすることと関係ないだなんて思わないで、わたしたちがすることも、これからあなたがすることと関係ないだなんて思わないで、と言った。これは「親友だからこうしてくれるはず」といった関係の定義とおなじようなかたちでありながらもその内実はまったくぎゃくのように思う。
 煙草を吸いながら最果タヒが言ったことを、平野鈴が言ったことについてうまく書こうと考えていたけれど、僕にはこれ以上なにかを書くことがうまくできない。でもここにはなにかとても近しい気配があると思う。僕はずっとまえ僕とあなたは無関係だ、だけれどそれはかなしいことじゃない、と言った。そのことばかりずっと考えている。言葉というものが意味を意味しないでその言葉じたいが関係となりえるような関係のありかた、そういうものはどこかにあるんだろうと思いはするけれど。


 5月27日(月)

 会社から帰って舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日」を読んだ。

 
 5月28日(火)

 会社から帰って舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日」を読んだ。

 
 5月29日(水)
 
 会社から帰って舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日」を読んだ。


 5月30日(木)

 会社から帰って舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日」を読んだ。

 
 5月31日(金)

 出世した。僕を出世させるなんてなんて勇気のある会社なんだろうか!




コメント
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://kizuki39.blog99.fc2.com/tb.php/1262-7ae91c59
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。