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ピンク地底人「ココロに花を」@王子小劇場

2013.06.03(01:40)

ディスコ探偵水曜日〈上〉ディスコ探偵水曜日〈上〉
(2008/07)
舞城 王太郎

商品詳細を見る

 
 6月1日(土)

 王子小劇場までいってピンク地底人「ココロに花を」を見た。物語がわりあい好みの感じだったからそれなりにたのしめたけれど、ぜんぜん満足できなかったのは、彼らがたださだめられたせりふをさだめられたとおりにしゃべっているように見えたからだと思う。演劇というものがどうやってつくられているかを僕は知らないからなんとも言えないけれども、そもそもたしかに演劇はさだめられたせりふをさだめられたとおりにしゃべるものなのかもしれないけれどそうではない空間がたちあがってくることもまたたしかなんだと思う。ピンク地底人の演劇は、呆然としているひとは呆然としたようなしゃべりかたをしたし、憤ったひとは憤ったしゃべりかたをしたし、得体の知れないひとは得体の知れないしゃべりかたをしていたように見えた。僕はきっとそういうものがきらいなんだろうなと思う。きっとそのひとがいったいなにを考えているのかわからない様子を見たいんだと思う。舞台のうえでなくても、僕は目のまえのひとがいったいなにを考えて僕なんかとしゃべっているのかいっかいだってわかったことはない。
 舞城王太郎「ディスコ探偵水曜日」を読みおえた。僕は舞城王太郎のなかでこの作品はとくにおもしろいと思っているけれど、それでもうまくはいってないんだろうなという感覚がなんとなくのこってしまう。


「知ってる?くそったれのココ・シャネルはフランスがナチスに占領されてるときにドイツ将校の愛人になって、自分だけ優雅に生活してたのよ?私、美しさがスキンディープなのは仕方がないにしても、誇りと尊厳が表面的なのって許せないのよ」というノーマのセリフが彼女の心にはない、単に攻撃的な気分が作り出しただけの無意味な文字列だということを僕は知っている。ノーマはファッションだの政治だのについて基本的に自分自分他人は他人と考える質だし、何に対しても安易なジャッジというものを行うことのない慎重な性格をしているはずなのだ。でもノーマがストライムズについてもシャネルについても短絡的に罵ってみせるのは、そういうふうに振舞って自分を貶めることでダナにビンタを食らわした自らを罰しているんだろう。何よりも暴力が嫌いなのだ、ノーマという天文学部員は。だから僕は何も言わず好きにやらせておく。慰めや言って欲しいセリフを言ってもらうことを潔しとしない性格であることも、僕はちゃんと知っているのだ。


 ここで描かれているのは端的にいってやさしさなんだと思う。舞城王太郎の文章は基本的にやさしさでなりたっていて、僕が彼の小説を好きなのはそのやさしさにおいてだと思う。
 僕がここを引用したのはこの小説において舞城王太郎のやさしさがひきだされている部分がここ以外にはほとんどないからだ。彼の文章が生成しているやさしさはサリンジャーや村上春樹やブローティガン、あるいはカーヴァーとはちがって基本的に他人および自己への理解に根ざしている。他人はこうだ、世界はこうだ、だから僕はこうなんだ、という一定の理解、あるいは理解することができないことへの理解、というものがあたたかく領域をつつんでいることから発生しているはずだと思う。オースターの小説では謎解きというものが自分自身の謎を解くというものが不可避に結びついているところが特徴だったけれど、舞城王太郎の小説がミステリーという形式をとっているのも基本的にそれを踏襲している。彼が世界の謎を解くということは同時に他者のこころの領域の謎を解くということに近しい。それは名探偵でもなんでもないアイコが「阿修羅ガール」でやったことと近しい。彼女がやっているのは謎解きであって、他人を理解することができる、わたしたちは愛のなかに生きている、という謎解き的確信のなかで生きていく意志のなかでやさしさを発露する。「ディスコ探偵水曜日」がうまくいっていないとしたら、それは外部的犯罪の謎解きと他者のこころの謎解きが有機的に結びついていないからだと思う。いくらディスコが世界の謎を解いたとしても、それが梢への愛と有機的に結びついていない。ディスコはあんまりにも世界への謎解きに躍起になりすぎているように見える。それは、けれど舞城王太郎がこの作品でなそうとしたことだと思う。考えろ、動け、というのがディスコに向けられたメッセージであって、それは、世界のあらゆる意味からディスコへ向けられた祝福だろう。そしてそれは同時に村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」の「僕」へと向けられた祝福とひとしい。「僕」は井戸のなかから脱出するまでにおよそ文庫本2冊の枚数を必要として、おなじように、ディスコも時空を超えるまでに700ページ近い枚数を費やしている。ディスコは考え、そして世界中の子供たちを救うために戦いをはじめた。けれど惜しいのはそこにやさしさが見えないことだ。そういう意味で、この作品は失敗だったのかもしれないと思う。





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