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子供鉅人「モータプール」@アサヒ・アートスクエア、うさぎストライプ「おやすみおかえり」@アゴラ劇場

2013.06.10(00:27)

キミトピアキミトピア
(2013/01/31)
舞城 王太郎

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 6月2日(日)

 ドトールにいって本を読んだり日記を書いたりしていた。そのあとで近くのMOVIXまでいって新海誠「言の葉の庭」を見た。本編のまえに野村不動産とタイアップしたみたいな短編作品がひとつ流れていたけれど、絵はひどく簡潔で語り口もびっくりするくらいひどくてがっかりした。
「言の葉の庭」も物語を見たかぎりはとてもひどいものだった。彼の描く主人公たちはみんなこころのなかにどこかひとに理解できない孤独のようなものを抱えていると思う。僕が思いだしたのは村上春樹がむかしに書いた「沈黙」という短編小説で、そこではまわりとちいさな壁をつくりあげてボクシングに耽溺していく男の子と俗的な価値観に染めあげられた男の子とのかかわりあいが語られるけれど、基本的に「言の葉の庭」の主人公の男の子が靴づくりに没頭しているのもおなじような視点だと思う。たとえば「ノルウェイの森」がすぐれていたのはその手の孤独のようなものをこころの病気という外的な問題として提示することで主人公の男の子が現実的な問題としてそれに向きあわざるをえなかったからだと思う。彼は僕が病気だと思ってる連中はいまも元気にそとを歩きまわってるよと直子に言う。それはむしろ彼が直子にたいして向きあうためのひとつの決別のように響いてしまうように感じる。このとき彼はたしかになにかを切りすてたように思う。あるいはけっきょくのところ直子が救われなかったのは彼がほんとうには直子に向きあってはいなかったことが原因のひとつなのかもしれない。でもこういう言いかたはいつもひどくむなしい。僕が関心があるのは、僕が関心を持ちたいと思うのはそのとき主人公の僕や直子がなにを思い、なにを見て、どう感じたということだ。外的な状況判断から彼らに審判をくだすことじゃない。
 いま僕が書いたことは村上春樹についてのことで、新海誠についてのことじゃない。僕が村上春樹について語ったことが今回新海誠が表現したことのどこかへとつながるかもしれないと思ったけれど、うまくつながらなかった。新海誠は今回の作品で村上春樹がこうだからこうと言えるようななにかを提示したわけじゃないんだろう。それでも僕が「言の葉の庭」を見てすばらしいと感じたのはやはり絵だと思う。僕はビニール傘をあんなふうに描いたひとも、雨が風に流れて不安な虫のようにただよいながら降っている様子を描きだしたひとも知らない。そういうことにおいては新海誠はやはり貴重で、いま彼より美しいものを描くことができる映画監督はほとんどだれもいないように思う。彼が描く新宿はなによりも美しい。もしも彼に新宿がほんとうにそんなふうに見えているんだったらうらやましいと思う。けれど、彼の新宿の美しさに焦がれると同時に僕はどうして僕が新宿をそんなふうに見ることができないんだろうかと思って、かなしくなってしまう。


 6月3日(月)

 昇任したので昇任式というものにでた。それから新入社員研修の講師にいった。みんなが演習のプログラムをつくっているあいだに僕はずっと彼らのまわりをぐるぐるとまわりつづけてまるで落ちつかない犬のようだった。


 6月4日(火)

 新入社員研修にいってぐるぐるまわっていた。


 6月5日(水)

 新入社員研修にいってぐるぐるまわっていた。


 6月6日(木)

 新入社員研修にいってぐるぐるまわっていた。


 6月7日(金)

 けっきょくぐるぐるまわっていただけで新入社員研修の僕のぶんが終わってしまった。彼らはきっとあとであのひとずっとぐるぐるまわってたけどけっきょくなにしにきたんだと言いあっていただろう。
 飲み会だから6時に帰りますとたからかに宣言していたにもかかわらず月曜日のうちあわせの資料を1枚も用意していないことにいまさら気づいて2時間くらいでつくった。そのあと飲み会にいって同期のひとたちとお酒を飲んだ。ほとんどのひとが終電までのこっていた。どうして彼女たちは終電までのこっているんだろうと思った。もういちばんもりあがっていた時間はすぎさってしまって、話さなければならないこともきっとなくて、家に帰ってしまうことがさみしいわけでもきっとないはずで、ねむいーねむいーと言いながらなおどうしてのこっているんだろう。僕にはよくわからなかった。でも僕にだって僕がのこっている理由がわかるわけじゃないし、理由なんて探す必要もないのかもしれない。ひとが減ってにぎわいが減った個室のかたすみでほとんど意味も価値もない話をつづけるということただそれだけが親密さをたもちつづけるということであれば、そのときのものがなしい終わりの空気もきっと美しいんだろう。


 6月8日(土)

 図書館にいって舞城王太郎「キミトピア」、柴崎友香「寝ても覚めても」、綿矢りさ「かわいそうだね?」を借りた。なんとなく借りた3冊だったけれどよくよく考えればいま日本で小説を書いているひとのなかでおもしろいひとをうえから順に決めていったときの3人だったことにあとになって気づいた。 
 浅草までいった。吾妻橋が赤色だった。ほのかに夕暮れがはじまりかけていて、まだ出発していない屋台舟が隅田川のうえにぷかぷか浮いていた。吾妻橋をわたって有名な黄金色のうんちがのっかっているビルのなかにはいって子供鉅人「モータプール」を見た。「おもしろい」とか「愛している」とか「なつかしい」とか、そういうたんじゅんな感情、あるいはたんじゅんと見えるような感情をたんじゅんな身ぶりをともなったうえで音楽にのせて演劇する、ということはままごとの柴幸男がいちばんうまくやっていたと僕は思っていて、子供鉅人のやっていること、とくに今回の作品のオープニングはままごと「あゆみ」そのままじゃないかと思ってなんだかすごくがっかりした。過剰に白痴的な演技をするということ、とくにそれが笑いに結びつかないものであればなおさら僕はそれを好きじゃないんだろう。そういうとき、僕はどうしていいのかよくわからない。ロロがやっているのも過剰に白痴的な演技だとたしかに思うけれど、ロロにはそれを平然と投げだしてくる強度のようなものがあると思う。でも子供鉅人はすくなくとも僕にとってそうではない。男のひとが人物を部屋の調度に見たててたんじゅんなせりふを言っていく場面、ランニングをつづける女の子がせりふをしゃべる場面、子供たちの役をやっている俳優たちが舞台のうえで飛んでる飛んでるーとさけびながら走りまわる場面、すべてが白々しく感じられた。その白々しさは舞台のうえでまじめなことをまじめなやりかたで言うことへの反逆として生まれたもののように感じられた。それはそういうものこそが高尚だという気持ちへの反逆だろう。けれどそれをうらがえして過剰に白痴的なことをやったとしても、それはそっくりうらがえったことをおなじ気持ちでやっているだけのことだ。愛することをやめたから殺すようなものだ。そうじゃないだろう。愛することがうすっぺらいんだったらおなじ気持ちで殺してもうすっぺらいだけだよ。
 そとにでたらもう夜だった。隅田川がびっくりするくらいにきれいで感動した。真っ黒な水面のうえにどこから照らされているのかもよくわからない白色がちらちらと反射していた。隅田川のほとりをぶらぶらと歩いた。鞄には3冊の本がはいっていたから重たかった。スケートボードを持ったひとたちがたむろしていた。対岸がきれいだった。淡い橙色の光がぼうっと浮かびあがっていた。どこかの窓からボクシングをしているひとのパンチの音と息づかいが聞こえていた。樹木の幹の部分と葉の部分はおなじように黒いのにりんかくのちがいだけでちがう色のように感じられた。風はなまぬるかったけれどちっとも不快じゃなかった。どこかにいきたい場所があるような気がした。夜が美しかった。
 家に帰って明けがたまで舞城王太郎「キミトピア」を読んでいた。いままでの舞城王太郎の小説は論理的であって倫理的だった。彼らはなにかを思い、行動して、そしてあとになってそれらの行動や気持ちを名探偵が複雑な謎を解くみたいにそれらの気持ちや行動を解釈をしていく。それらは一般的に純文学的とは言いがたい方法なのかもしれないけれど、大事なのはもちろん純文学的かどうかじゃなくて、僕はそんなふうに解釈されることによって彼らがやさしく明るくなっていって、世界は美しいものなんだ、たのしいところなんだ、という認識をつよめていくことが好きだとずっと思っていた。「美味しいシャワーヘッド」という作品はいままでそんなふうに描かれていた舞城王太郎の作品とはちがっていて、なにかにたいして論理的だったり倫理的に気持ちを解釈していくということがおこなわれていなかった。だからかもしれないけれど、文章は端正で落ちついていて、夜に散歩をする場面なんかはとくに美しいと思った。そういう方法をとらなくても舞城王太郎がやさしさみたいなものを描けるということを知ってうれしいと思った。


 6月9日(日)

 ポメラと柴崎友香「寝ても覚めても」を鞄にいれてそとにでかけた。途中でクリーニング屋さんにいくのをわすれたことに気づいたけれど、めんどうくさいのでもどらなかった。ドトールでいま僕が書いている小説のつぎに書こうと思っているロボットSFものの小説の書きだしを書いてみたけれど、おもしろいのかどうかよくわからなかった。そもそも僕はいま書いている小説を書きおわったら探偵小説を書こうとずっと思っていたはずなのにどうしてロボットSFものなんかを書いているんだろうと思ったけれどよくわからなかった。そんなふうに思っていたら、僕がいま書いている震災の夜にゾンビの女の子と大事な話をしながら一晩中家まで歩いて帰る小説もおもしろいのかよくわからなくなった。ずっとおもしろいと思って書いてきたのに。
 柴崎友香「寝ても覚めても」をすこしだけ読んでお店をでて電車にのって、浦和で湘南新宿ラインにのりかえてからもずっと「寝ても覚めても」を読みつづけて、この小説を読むことにうまく耐えられなくなるとときどき電車の窓からそとの風景を眺めた。空は薄灰色をしていた。


 心斎橋筋商店街をひたすら南へ向かって歩いた。上を見るとアーケードの半透明な屋根を、黒い四つの点が移動していた。猫の足だった。あれ、とわたしが指差したときには、もういなくなっていた。頭上を猫が横切ったことを知っているのは、大勢の中でわたしだけだった。もうすぐ日が暮れるから、そうしたらまたあの猫が歩いても誰にも見えないと思った。


 ここで描かれていることはあたりまえの日常のなかで「わたし」だけにあたえられるとくべつさだと思う。けれどそれはたしかにとくべつなのにちっともとくべつではなくて、そのとくべつさをも日常のなかに回収してしまう。柴崎友香がずっと描いていることは「わたし」という気持ちのうつりかわりによって世界はどんなふうにも見えること、けれどそれは「わたし」自身の自意識によってのみなされるものではなくて「わたし」の目で見られた風景やわたしによって感じられたものとの相互連関のなかで浮かびあがっていくもので、だからこそそのとくべつさはとくべつさをたもちながらとくべつさではなくなっていく。僕が書いていることは矛盾なのかもしれないけれど、実際にそうやって矛盾をはらみながら成立しているのが柴崎友香の小説で、そうであるならばそれはひとつの奇跡みたいなものだと思う。


 麦は丸椅子を置いて腰掛けた。先週、岡崎の車で粗大ごみ収集日を狙って回ってきた中にあった。オレンジ色で花柄でビニール張りだった。その花はわたしの好きなポピーだったから、すべてが思ったようにうまく運ぶ時期もこの世にあるんだと思った。別の花でも別の色でもそう思った。


「頭上を猫が横切ったことを知っているのは、大勢の中でわたしだけだった。」という文章も「別の花でも別の色でもそう思った。」という文章も、「わたし」が実際に経験したことではない。彼女があたかも事実であるかのように語っていることは彼女の願望的なものでしかないけれど、僕には「わたし」がそれが事実はないということにすら気づいていないように見える。それは「わたし」が世界にたいしてそういう見方をしてはいないからだ。それはけれど「わたし」が実際にそうであるような世界とはべつの世界を見ているということではない。「わたし」に世界がそんなふうに見えているということは世界が実際にそうであるということだし、僕もそれ以外の世界なんて信じたくはないと思う。同時に、やっぱり僕はそんなふうに世界を見ることができないことを不安に思う。そしてどうして柴崎友香は世界をこんなふうに見ることができるんだろうとどうしてもどうしても焦がれてしまう。
 僕のつたない知識のなかだけだけれど、ほんとうに、いまだかつて世界をそんなふうに見て小説に書きのこしたひとなんて、この惑星の歴史上たったひとりだっていない。
 駒場東大前で降りてアゴラ劇場にいってうさぎストライプ「おやすみおかえり」を見た。ほんとうにすばらしかった。チェルフィッチュとおなじような語りくちだけれど、そこにはチェルフィッチュとはちがうものがたしかに思ったような気がする。はじめ、それは相対性理論があんまりにもすばらしすぎるからというだけのことかもしれないと思った。でも、きっとそれはちがった。ではうさぎストライプがいったいなにをやったのかと考えるけれど、今日はあんまりうまく考えたり書いたりすることができない。
 渋谷までもどってヴェローチェで日記を書いたり小説を書いたりした。




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