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好きなものを好きでいること、きっとこれだけ

2013.07.01(00:41)

氷
(2008/06/04)
アンナ・カヴァン

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いちばんここに似合う人 (新潮クレスト・ブックス)いちばんここに似合う人 (新潮クレスト・ブックス)
(2010/08/31)
ミランダ・ジュライ

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 6月16日(日)

 お昼すぎにおきて図書館にいってアンナ・カヴァン「氷」を借りてドトールで読んでいた。SF小説というのはだいたいいつも気になるものだけれど、ヴォネガットがSF小説は小説全体を読むよりもアイデアだけ読むほうがおもしろいというふうに言っていて、それを体現するかのように彼の小説はところどころにSF的挿話がなされるけれど、それ全体は非SF的なありかたで書かれていると思う。舞城王太郎がやっていることもヴォネガットとおなじことで、それがSFなのかミステリなのかというちがいがあるだけだと思う。舞城王太郎が書いていることはミステリではなくてミステリのアイデアというだけで、だから事件はおきた瞬間に謎解きと解決がなされてしまうことだってありえる。それは挿話なんだから。
 アンナ・カヴァンが「氷」で書いたことは、あるいは、おなじような作家としてジェフリー・フォードが書いていることはけっきょくイメージが先行しすぎてしまって好きじゃないんだと思う。どうあったっても、たとえアンナ・カヴァンの文章が硬式で格調高い美文であったとしても、それではイメージの羅列にしかならない。もちろん、ここにはいろんな考えがあると思う。なぜ詩はイメージの羅列ではないことが可能なのか、プルーストの書いた「失われた時を求めて」とはいったいなんだったのか、けっきょく、わたしには小説のことなんてなにひとつわからないんだろう。


 6月17日(月)

 会社にいった。


 6月18日(火)

 会社にいった。


 6月19日(水)

 会社にいった。


 6月20日(木)

 会社にいった。

 
 6月21日(金)

 会社を休んで、AIさんとCKさんとKIちゃんとディズニーシーにいった。舞浜駅でおりてみんなが電車にのりはじめるものだから、どうしたんだろうと思った。ディズニーリゾートに電車が完備されているなんてちっとも知らなかった。
 なかにはいると海があってまるで異国の街みたいだった。あの海、ほんもの、と訊いたらほんものだよと言われた。だからそれはきっとほんものだった。わたしは自分がぎりぎりでのることができる絶叫マシンはスプラッシュ・マウンテンが限界だと思っていたけれど、AIさんがさっそくタワー・オブ・テラーに向かっていって、ついたばかりでうっかりテンションがたかかったわたしはほいほいついていってしまい、うっかり死ぬんじゃないかと思った。シリキ・ウトゥンドゥの人形が消えたからこれはまちがいなく呪いだと思って、呪いというものの弾きかたをわたしは知らなくて、生きて帰ることができたのかよくわからなかった。わたしはいまこうして生きて元気に日記を書いているけれど、ほんとうはもう死んでいるのかもしれない。わたしはもうわたしではなくてシリキ・ウトゥンドゥかもしれなくて、だから、いまこの文章を書いているのもほんとうのわたしではなくてシリキ・ウトゥンドゥかもしれない。いまこれを書いているわたしがわたしであるということをいったいどうやって証明したらいいんだろう。わたしですらも確信が持てないことをどうやって。昨日のわたしがわたしであったとしても、今日のわたしがわたしであるということのなんの証明にもならなくて、毛髪のひとかけら、細胞のひとかけらひとつちがうだけでもしかしたらほんとうは昨日とはもうべつのにんげんになっているかもしれなくて、そして、そうやって欠けたぶんを埋めあわせているものがシリキ・ウトゥンドゥ的なものではないということを証明できない。それが100%ではない、ということは、まだ不確定の要素があるということで、粒子の位置が確率的しか確定できないように、そして、マクロ的に見ればわたしはたしかにここに存在しているのかもしれないけれどもしかしたら原理的にごくごくちいさな確率的に存在していないという存在のしかたをふくんでわたしの存在とシリキ・ウトゥンドゥの存在は不確定なのかもしれない。
 世界に絶対的にただしいことなんてない。だれもそれがまちがっているということを絶対的には言いえないからだ。絶対的にただしいことを言ってしまったらそれはまちがっていることとひとしくなってしまう。道徳というものが相対的な価値観に基づいている以上、裏をかえしただけで逆転する2項対立価値観は崩壊してしまう。もしも自分がただしいと言うことを言いたいんだったら自分がただしいとは言わないほうがいいと思う、ただしさを証明しようとしないほうが、きっと。
 センター・オブ・ジ・アースはスプラッシュ・マウンテンみたいなものだよと言われてそれなら耐えられるかなと思っていったけれど、なんとなくスプラッシュ・マウンテンよりこわかったと思う。上昇速度がはやいからだと思う。あとはレイジングスピリッツが一回転するよって言われてつれていかれたけれどにんげんは一回転するようにつくられていないから一回転したら死ぬんじゃないだろうかと思った。一回転するところが霧のなかだったからなにも見えなかったけれど、なにも見えなかったのはむしろ一回転した瞬間に死んでいたからかもしれない。あとはのりものにのっては死にかけたりしていた。クリスタル・スカルではたぶん20回くらいは死にかけたし、海底2万マイルではあやうく海の藻屑になるところだった。ディズニーシーはいくらなんでもあぶなすぎるんじゃないのかなと思った。どこへいっても生命の危険にさらされてしまう。
 お昼ごはんを食べたあとにのるものがなくなってセンター・オブ・ジ・アースにもういっかいつれていかれて、もしかしたらさっき生きのこったのはほんとうに奇跡だったのかもしれないしもういっかいのったら今度こそ死んじゃうよ、と言ったら、なに言ってんの、と言われた。きみたちは死をおそれなさすぎている! と思っていたら、のる直前で雨のため運行停止になって、ほんとうにたすかった。あぶなかった。でも夜になってもういっかいつれていかれて、夜景きれいだよ、と言われたけれど、いや、俺ずっと目つむってて見えないから、と言った。それでも飛びでる直前に一瞬だけ目を開けたらほんとうにきれいで感動した。死後の世界だったんだろう。タワー・オブ・テラーに最後につれていかれて、いちにちに2回呪いを受けるなんてばかげている、と思って呪いがー呪いがーとずっと言っていたらだれも相手をしてくれなくなってかなしかった。死んだ。死んで肉体から解放されると不思議に気持ちがよくなって、終わったあと、生きてるってすばらしいねって3回くらい言った。
 帰った。ちょうたのしかった。


 6月22日(土)

 MKさんの結婚式にそなえて鞄を買いにいったりワイシャツを買いにいったりネクタイを買いにいったりした。なんだかよくわからないからてきとうに買った。それからATMにいっててきとうにお金をひきだして真新しいお札がでてくるのを待った。HAくんが50回くらいまわすと3枚くらいあたりがでてくるよと言っていたからそれくらいまわす覚悟でいった。とりあえず10枚くらいひきだしてみてそのなかで最良の3枚を選びとっておいて、それでもまだまずいような気がしたらあと5枚くらいひきだした。なんだかもう飽きてきててきとうにまともな3枚を選んで袋につめた。
 家に帰ったら、あんた水道代はらっていないからもうすこしで水道とめるからね、という通知がきていてびっくりした。うすうすわかってはいたけれど、まさかほんとうに水道代をはらっていなかったなんて。無意識にはらっているのかと思っていた。そういえばさいきん家賃をはらった記憶もない。


 6月23日(日)

 朝10時にはおきてご祝儀袋(の中袋)筆ペンで名前とか住所書いた瞬間に袋がにじんだ。どうしよう…と思ったけれどどうしようもなく、しかたなくもうひとつご祝儀袋を買ってドトールによって書いた。SYさんと駅で待ちあわせをして池袋までいって、ATさんとYTさんと待ちあわせをして結婚式場までいった。結婚式場はまるで結婚式場のようだった。なかの構造がいりくんでいて1度まよいこんだら2度とでられないだろうと思った。何組かの式が同時にくまれてあって、Y課長がとなりの待ちあい室にあった飲み物を勝手に飲もうとしてATさんにとめられていた。待っているあいだにあんまりにもひますぎたのでSYさんとYTさんと煙草を吸ってばかりいた。
 教会みたいなところにきて、MKさんと相手のひとがはいってきてキスをしてでていった。コリント書の13章を牧師が読んでいた。それからごはんを食べた。MKさんと相手のひとがはいってきてなにかをしゃべってでていった。それから帰った。
 みんなどこにもいかないんだったら僕映画見にいきますよ、「ジャンゴ」見にいきますよと僕は言ったけれど、ふつうに飲みにいった。KSさんとも合流していっしょに飲みにいった。鹿と暖炉の話をしていた。


 6月24日(月)

 YNさんがみんな明日はちゃんと9時にくるんだよと言っていたけれど、SYさんだけが11時にやってきて、お詫びに、と言ってレッドブルをくれた。ありがとうございます、と言った。


 6月25日(火)

 会社にいった。


 6月26日(水)

 会社にいった。
 ミランダ・ジュライ「いちばんここに似合う人」を読みおえた。


 みんなこの世界で自分は一人ぼっちで、自分以外は全員がすごく愛し合っているような気がしているけれど、でもそうじゃない。本当はみんな、お互いのことなんか大して好きじゃないのだ。友だち関係だってそうだ。わたしはときどき夜ベッドの中で、友だちのなかで誰がほんとうに好きだろうと考えてみることがあるけれど、答えはいつも同じだ。誰のことも好きじゃない。この人たちはみんな仮の友だちで、そのうちに本物の友だちができるんだと思ってた。でもちがう。けっきょくこの人たちが本物の友だちなのだ。

            
 
 これはやさしさ、だと思う。わたしはつめたいにんげんでやさしくなんてないけれど、やさしくない、と思うわりにはいったいなにがやさしいということなのかよくわからない。人類においてやさしさがはじめて生まれたのはいつだったんだろう。わたしが知っているのは文学のことだから、文学をさかのぼってみても、やさしさ、とわたしが感じていることが書かれている本はサリンジャー、ブローティガン、ヴォネガット、サローヤン、みたいなアメリカの小説か、あるいは村上春樹みたいにそれらを模倣したひとしかない。あるいはやさしさはもっとべつのかたちで描かれているのかもしれないけれど、わたしはそれを感知できないし、もしかしたらそれを感知できないからこそわたしの感性のなかのやさしさがほんらいあるべき場所にはぽっかりと穴が開いているのかもしれない。とにかく、もしもやさしさがたかだが数十年まえに発生したものだったとしたら、それまで人類はどうやって生きていたんだろう。


 悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。


 
 イエスが言ったことはやさしさではないとわたしは思う。わたしはイエスの言ったことを守ることはできない。彼が言ったことがかりに愛であるとしても、わたしはそれを守ることができない。そして「守る」という表現をつかわなければいけないとしたらそれはもう隷属でしかないと思う。隷属する、ということは自分のある部分を投げわたす、ということであって、わたしがサリンジャーやミランダ・ジュライに感じるものはそういうものではないから、やっぱりこれはやさしさではないんだろうと思う。やさしさはきっと端的には相手のことを「うけいれる」ということ、相手の存在の様式をうけいれる、ということだと思う。でもそれはたとえば気持ちわるいひとに気持ちわるいと言わないこと、というわけじゃない。そういうことは特定の状況下で個別的に問題にされなければいけないものだと思うけれど、気持ちわるいひとに気持ちわるいと言うこと、そのことじたいもやさしさを基底として肯定されうることだってあると思う。
 だいじなことは、好きなものを好きでいること、きっとこれだけなんだと思う。そういうひとはもうそれだけでやさしいよ。


 6月27日(木)

 KAさんの送別会をもういっかいやった。さいきん仕事があんまりにもいそがしすぎるせいで、わたしは幹事だったんだけれど、ふつうに遅れていった。わたしが幹事をやっている飲み会でさいきん僕が時間どおりにいったことは1度もない。
 飲み会の席で冷蔵庫がいま壊れていることがみんなに知れわたってしまい、Y課長にもばれた。買ってくださいよとお願いしたら給料あがったんだから自分で買いなさいと言われていた。


 6月28日(金)

 明日僕病院にいってからいきますんで11時出社にします、と前日にたからかに宣言していたにもかかわらず寝坊した病院にまにあわなかった。YNさんはKAさんに送別品として牛乳石鹸をわたしていた。
 ○○に向けてがんばっていこうということで会社の食堂を借りきってパーティ的なものが開かれた。わたしはKYさんたちといったけれど、わたしとKYさん以外はみんなもりあがっているようでよかったよかったと思った。いろいろな飲みたいお酒があったけれどすべて我慢してウーロン茶ばかりをごくりごくり飲んでいた。
 ねむるまえに「ブギーポップは笑わない」のアニメ版を見た。おもしろかった。




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