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シベリア少女鉄道「遙か遠く同じ空の下で君に贈る声援 2013」@王子小劇場

2013.07.07(01:33)

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 6月29日(土)

 10時すぎにはおきて病院にいった。それから髪をきって、図書館にいって岩井克人「ヴェニスの商人の資本論」と今村夏子「こちらあみ子」を借りてきた。部屋にもどってから「ブギーポップは笑わない」のアニメ版を終わりまで見た。
「ブギーポップは笑わない」のアニメ版はあきらかに「serial experiments lain」を模倣していると思う。暗い色調、事象の説明を意味しない散発的な台詞、電線、そして何気ない雑音、物語自体が断片されている。「lain」が難解なのは世界および事象というものにたいしてなんの説明もあたえられないか、その説明が断片的なかたちでしかあたえられないかだということに起因していると思う。作品世界構造としておそらく重要な意味を持つ集合的無意識やシューマン共鳴はおよそただの情報としてあたえられているし、この世界でなにがおこっているか、ということもときとしてネットの噂として投げかけられるにすぎない。「ブギーポップ」でもそれはおなじで、その街におきていることは基本的に女子高生たちの噂話として投げかけられる。統和機構についても、決定的な情報は森田という警官がもうひとりの警官に投げかける都市伝説めいた語りでしかなされない。そして、その都市伝説めいた語りはサイコホラー的な不気味な演出効果としておもしろくあるけれど、物語に有機的にからまりつくわけではない。「lain」という作品が玲音をそれでも中心として物語をつむいでいたいっぽうで、「ブギーポップ」はそういう中心を持たない。むしろそれはよりは群像劇という意味あいがつよく、たとえば小野不由美「屍鬼」がそうであったように、ひとつの共同体が中心に、たとえいっぽうが閉鎖的な村であって一方が現代都市であったとしても、共同体というものが中心になっている。それはたしかにブギーポップという存在の性質、あるいは原作の性質によるものかもしれないけれど、それでその価値が変動するわけではない。「ブギーポップ」という作品はその原作からしてどこかしら決定論的なものがあって、ブギーポップの持っているまなざしは全能的ではあるものの、読者にその全能性そのものが提示されるわけではない。そして、それが「ブギーポップ」という作品のおもしろさの一端ではあるんだろう。ブギーポップというキャラクターが特異なのは、いっぽうでたしかな全能性を持ちながら自動的である、というところにあって、それは、ブギーポップが全能的な都市の歯車ということを意味しているようにすら思う。
 問題は、そんなふうに断片化された、記号化された、部品化された、そういうたぐいの諸要素がなぜそれでもグロテスクなんだろうか、ということだと思う。わたしが驚きたいと思うのは、わたしたちにんげんはたとえ2進数化された情報の羅列のなかからさえも意味と肉体を見いだしそれについて吐き気を覚えられるということだと思う。
「タオルケットをもう一度」や「箱庭物語」について書いたときにも言ったことだけれど、リアルさというのはあらゆるレベルに呼応する。CGで実写に近いものがつくられてそれについてリアルだとわたしたちが言うとき、それは現実的な一側面を高い精度で模倣しているということにすぎない。けれどそれはあくまで現実的な一側面の高い精度での模倣であって、そうである以上、わたしたちはまたべつの認識をもたやすく持ってしまう。あるひとつの認識からべつの認識、つまりいままで自分がそうだと信じていたものからべつの認識へと肉体的にうつりかわるとき、グロテスクさというのが発露してしまうんじゃないだろうか。それは端的にいって機械だと思っていたエヴァが使徒を食べたり内臓をぶちまけたりするような、あるいは「三月の5日間」で女のひとが最初黒い犬がいるなと思って見ていたものが次の瞬間浮浪者が排便をしている姿だったことに気づいてしまった瞬間だと思う。にんげんを、あるいは非にんげんをそんなふうにも見てしまう、見えてしまうそのことが存在のおぞましさを喚起してしまう。フランツ・カフカの小説は全編がそのように描かれている。彼の小説が奇妙なのはわたしたちが普段現実的に認識しているものの見かたとカフカが描いているものの見かたがどことなく一致しないからだ。彼の描いている世界に欠けているのはただひとつものごとを遠近法的に見るというやりかたであって、空間的時間的距離をとりちがえたなかであるがゆえに無数のKたちはいつまでたっても目的の場所にたどりつくことはできない。
「ブギーポップ」の登場人物たちが抱えている問題は、なぜ世界はこうであるはずなのに実際の世界はそうではないんだろう、ということだと思う。そして彼女たちが絶えずグロテスクさを更新していくのはすくなくともアニメ版においてはブギーポップがそこになんの救いも見解もあたえないからだろう。肉体の見解にたいして無限に相違していくなかで、たとえば望都はそれでもわたしは生きていると言うしかない。望都がそう言ったのは、けっきょくのところ肉体がまだ静止していない(死んでいない)という現状の再認識でしかない。ずれつづけていく肉体認識のなかでなおも肉体を頼りに生きていくしかない、わたしはそれを「ただそこにあるだけで悲劇的な世界」だと呼びつづけているけれど、すくなくともわたしはそれをうちけすやりかたをまだなにひとつ知らない。

 
 6月30日(日)

 起きてクリーニング屋さんにいった。それから岩井克人「ヴェニスの商人の資本論」を読んで、村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」を読んだ。「ヴェニスの商人の資本論」には貨幣と呼ばれるものが未来の商品を買うものであるならばアダム・スミスが言った「見えざる手」、つまり、市場において需要と供給のバランスの自動均衡装置はたもたれない、と書いてあった。需要と供給のバランスは即時的な側面を持っているから、つまり、おおくの貨幣を持ったとしてもそれをただちにつかわなければいけない必然性をすくなくともわたしたちが持たない以上、需要の動きにたいして供給がきちんと動いていくわけではなく、供給の動きにたいして需要はきちんと動いていない。もともとも経済学の考えかたがよっているのは、けっきょくのところ市場の需要供給機能の自動均衡装置であって、もしもそれがほんとうに資本主義社会でなりたっていないのであれば、わたしたちはべつの理論を考えださなければいけない。わたしたちが本来的に考えていかなければいけないのは、そもそもそれを疑う視線だと言う。
 市場に需要供給機能の自動均衡装置が完璧だという考えかたがある。もしも経済ということがうまく動いていないのであれば、それは市場ではない外在的な理由、つまり、最低賃金を定めている法律であったりを原因としていて、経済学というものが考える狭い問題というのは、市場の自動均衡という完璧な状態を「真理」として考え、その「真理」状態に達しえない理由を考察するということだ。たとえばたんじゅんな話、雇用問題、仕事につきたくてもつけないひとが事実存在しているのは最低賃金が定められているからかもしれない。雇用もひとつの市場である以上、にんげんの供給過多であるならば賃金は当然さがるはずで、そのいっぽうで、法律で最低賃金が定められているのであれば、その非均衡は解消されない。
 というようなことをひとつひとつ書いていっても、それはすべてこの本に書いてあることだからわたしがもういっかい書くということだけにしかならない。それにわたしは経済というものをなにも知らない。もっとも、いま経済をしているひとたちもそれを知っているもわからない。どうして基本的に等価交換であるはずのわたしたちのやりとりのなかで資本は増殖していくんだろうか。たとえば100円の林檎を買うときにそのとき林檎の価値は100円しかない。かりにその100円のうちに輸送費や人件費がふくまれていたとしても、それはおなじだ。100円がわたしの手からわたし以外のにんげんの手に分散されてわたるだけであって、資本の増殖なんておこるはずがない。であるならばそれは等価交換のはずだ。でも実際は資本は増加しているし、そうでないのであれば、あらゆる等価交換は資本の奪いあいでしかない。けれど奪いあいではない保証もなんにもない。それほどまでにわたしたちは無知だから。


 7月1日(月)

 会社にいった。


 7月2日(火)

 会社にいった。
 RCさんにお菓子をもらった。白い薄皮にゼリー状のものがつつまれているお菓子で、これなんですか、と訊いたらわからない、と言われた。彼女にもらう食べものにたいしてこれなんですかと言うと100%わからないと言われる。ほんとうにそうだ。白い薄皮がなんだかわからなかったから、これなんですか、と訊いたら、紙、と言われた。紙おいしい、と言って食べていた。紙…。


 7月3日(水)

 会社にいったような気がした。


 7月4日(木)

 会社にいった。


 7月5日(金)

 9時まえには帰ることにした。喫煙所にいくとSYさんとMTさんがやってきて、いっしょにごはんを食べにいった。SYさんがおごってくれて、ありがとうございます、と言った。「新世紀エヴァンゲリオン」の話をした。


 7月6日(土)

 夕方5時まで、17時間もこんこんとねむりつづけて、王子小劇場までシベリア少女鉄道「遙か遠く同じ空の下で君に贈る声援 2013」を見た。生まれてはじめてメイド(篠塚茜)をかわいいと思った。あとは川田智美もかわいかった。ここさいきん見たもののなかではいちばんおもしろかった。ねたとしてはけっきょく小ネタにすぎないと思うんだけれど、そういうネタをほんとうにほんとうにおもしろく、愛らしく、客席をもまきこんだかたちでたのしくつくる、ということができるということはなんてすばらしいんだろうと思った。たとえばバナナ学園をわたしは好きじゃなかったけれど、バナナ学園がわたしにとってきつかったのは、きちんとその場所になじめるような高度まで自分を持っていかなければいけない、とすくなくともわたしには意識されたからだと思う。そういうのは飲み会みたいなものとおんなじで、ちゃんと自分をそういう場所に持っていかないとけっきょくのところそういうものもなんにもしゃべれないままに終わってしまう。わたしはいつもそういうことがうまくできないし、劇場についてわたしが考えるのはけっきょくのところわたしがどうあってもいい、ということで、そしてもしもどうあってもよくないのであれば、わたしはもうひとりで劇場にはいけないだろう。だから、バナナ学園がたとえ解散しなかったとしても、わたしはもうバナナ学園にはいけなかっただろうと思う。わたしは飲み会にはほいほいといってしまういっぽうで、バナナ学園にはいかない。それはわたしがそのなかでこそ孤独だからだと思う。
 わたしはわたしを無感覚なにんげんだと思う。なにを言われてもよろこばないしかなしまないし、たとえだれが死んだとしても涙のいってきも流さないし、あらゆるものごともほとんどわたしには関係ないと思ってばかりいる。それでもひとがきらいなわけじゃないし、わたしがふしあわせなわけじゃない。わたしというにんげんが単独で完結しているということにすらならない。
 シベリア少女鉄道が投げかけたことは「きみはどんなふうだっていいんだ」ということだと思う。そういうとき、もう原理的に孤独ではありえない。たとえどんなにひとりきりだったとしても、孤独では。




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