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Cui?×お布団「エデン瞬殺」@新宿眼下画廊

2013.07.14(00:58)

緑の資本論 (ちくま学芸文庫)緑の資本論 (ちくま学芸文庫)
(2009/06/10)
中沢 新一

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 7月7日(日)

 午後の3時まえにはすっかりおきて、洗濯をしているあいだに村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」を読んでいた。とてもとても、おもしろいと思った。洗濯物を干してからドトールへでかけて「ねじまき鳥クロニクル」をおしまいまで読んだ。この小説を読むのはほとんど3年ぶりで、わたしは日本語で書かれた小説のなかでこの小説はいっとうおもしろいものだといままで思っていて、あらためて読みかえしてみても、その思いは揺るぎはしなかった。この小説が感動的なのは、たとえばシベリア少女鉄道がそうであったように、どこかのだれかの声はまたちがうどこかのだれかのもとへととどいている、というたんじゅんであられもないふたしかな祈りがあるからだろうと思う。暴力的でいて血なまぐさい世界がいっぽうではたしかにあって、それは救いがたいものではあるけれど、同時に救おうとすることだけはたしかにできるのかもしれなかった。過去におこったあらゆるできごと、それは戦争ということに集約され、それらをすべて背負い、「これは僕の戦争なのだ」と言いながら妻をとりもどそうとする「僕」にたいして、幻の笠原メイは「あなたはその過程でいろいろなものを救ったけれど、あなた自身だけは救うことができなかった」と言った。けれど、その過程というものはわたしたちのなかにたしかにのこるんだろう。それは時間、そして空間をとおしてわたしたちのなかに愛おしさとしてのこるものなんだろう。
 今村夏子「こちらあみ子」を読んだ。おもしろいと思った。上等な小説がいつでもそうであるように、小説は言葉で構成されていながらなおそこにあらわされているさまざまなことがらを言葉で表現しようとしてもどうしてもできないものが諸要素としてあたえられていると思う。「こちらあみ子」にも「ピクニック」もどことなく狂気的な面があるようにわたしには感じられたけれど、それを狂気と呼んでかたをつけてしまうことはわたしにはできない。あるものに名前をつけようという衝動はわたしたちがほんとうには知らないものごとをわたしたちが知っているものごとのうちがわに閉じこめようとすることなのかもしれない。それはわたしたちに安心をあたえるかもしれないけれど、ほんとうはそれこそがいちばん危険なことなのかもしれないと思う。「ピクニック」のルミたちはおそらくは七瀬さんのことを理解しているわけじゃないと思う。それでもルミたちが七瀬さんのことを尊重しているのは七瀬さんが抱えているものに名前をつけているからではなくて、ぎゃくに、名前がつけられないというそのこと自体を、言語的にではなく、環境的、肉体的に感じようとしているからのように思う。
 もっとも、それもけっきょくはわたしの願望かもしれない。わたしはわたしが本を読むときにはわたしの読みたいようにしか読めないと思っている。けれどわたしはそうじゃないように本を読みたいとも思っていない。
「ピクニック」という小説のなかで、ルミたちの存在は不気味だ。というよりも、ルミたちは七瀬さんをかこうひとつの実体ある群衆として描かれているだけで、ひとつひとつの個性を持っているわけじゃない。ひとつひとつの肉片がからまりあってひとつの個体をつくりあげているような、肉を持った機械みたいな存在として描かれている。「新人」がおそらくはそのどちらも好きになれないのもむりはないだろうと思う。「新人」にとって七瀬さんが好きになれないのも当然として、機械的に七瀬さんという不気味な存在をかこうようになりたっているルミたちも「新人」には理解できない不気味な存在だろうと思う。視点はルミたちの三人称として描かれてはいるものの、七瀬さんがついているうそにたいしてルミたちが肉づけをくりかえしているかぎり、そこでおこっている正気であるはずもないものごとについて、ルミたちは正気さをたもったまま対応してしまう。読んでいるわたしはそこにあるどこかおかしいという狂気さを正気さだとする判定を留保しながら読みすすめなければいけなくて、それが、ただそこに発生しつづけている不穏さをかきたてつづけていく。そういうやりかたは藤野可織「パトロネ」でも見られたもので、きっと、わたしはそういうものがとても好きなんだろうと思う。
「こちらあみ子」も基本的にその構造はおなじだと思う。あみ子は外面的に見たらおそらく環境的にとても不幸だと思う。あみ子自体もそのことはおそらくわかっているだろうと思う。けれど、あみ子はそのことを理解してはいない。けれど、同時に「こちらあみ子」を読んでいるわたし自身がそれを理解しているわけじゃない。わたしがそれを理解したところで、あみ子の不幸が、あみ子の家族の不幸がとりのぞかれるわけじゃない。大事なことは理解することじゃないんだ、ということだけを、なんとなく思う。


 7月8日(月)

 会社にいった。


 7月9日(火)

 会社にいった。


 7月10日(水)

 会社いったあと6時に帰って、中沢新一「緑の資本論」とサーシャ・スタシニチ「兵士はどうやってグラモフォンを修理するか」を借りてきた。ドトールで「緑の資本論」をすこしだけ読んだ。ここで描かれているのは、資本主義の発展の原理の裏に潜んでいるそもそもの宗教的な考えというものをキリスト教、イスラムそれぞれで対比的に考えていく、ということだった。キリスト教は基本的に三位一体という考えを採用しているけれど、イスラムは三位一体を拒否している。そして、そもそも三位一体という考えかた自体に剰余価値を発生させる貨幣、という資本主義というものの成立に欠かさない要素がおりこまれている、というようなことが書かれている。


 キリスト教は「三位一体」の構造として自らをつくりあげることによって、一神教のドグマに、サイバネティクスの要素(「父」が「子」に遺伝情報を正確に伝達するメカニズム)と浮遊するシニフィアンの要素(「聖霊」のおこなう愛と意志にみたされた増殖のメカニズム)を組み込むことになった。前者は貨幣の本質に、後者は商品と資本の本質につながりを持ち、それらがボロメオの輪のように結合して、キリスト教的西欧は、社会の富を商品の集積として生み出す資本主義を発達させたのである。



 こういう話はとってもおもしろくて好きだけれど、なにかをわかっているようなふりをしてなにかを言うしか、すくなくともいまのわたしにはできることがないから、なにも言わない。


 7月11日(木)

 会社にいった。


 7月12日(金)

 会社にいった。仕事量とわたしにのこされた今月の残業時間をまじめに考えてみると、どう考えてもたりないような気がしてきた。終わった、とおもった。

 7月13日(土)

 午後の4時くらいまでこんこんとねむりつづけたあとになってようやくおきて、たらたらと新宿まででかけ、新宿眼科画廊でCui?×お布団「エデン瞬殺」を見た。すばらしかったと思う。
 綾門優季の脚本をわたしが好きなのは、たんじゅんにわたしがずっと書いてきたこととおなじようなことが直接的に描かれているからだと思うけれど、それがそもそもあったところは、たとえばチェルフィッチュの岡田利規や三角みづ紀が描いてきたことで、もっと直接的に言えば、それは、「現実はこんなに過酷で残酷なのに、ぼくたちはなんでこんなに幸福なのだろう」という「オウバアキル」の帯の言葉の表と裏なんだろう、と思う。
 この3編はそれぞれ小規模の楽園の構成と崩壊を描いている。楽園のつくられかたで顕著なのは「許さないで、薄く愛して、太陽から離れて、手を握って」という作品で、この作品のふたりの女の子は自分たちの楽園とそこに定住することを欲する自分たち自身の価値を故意におとしめることで、つまり、なんでもないわたしたちなんだから、そのなんでもないわたしたちがつくる楽園だっておんなじようになんでもないものなんだから、というかたちで楽園の無限性を獲得しようとしていく。それはひとつの閉じられた世界だ。西尾維新の初期の小説をわたしが好きだったのは、それぞれの登場人物が狂っていて、どこもかしこもおかしいのに、その登場人物たちの小規模集団すべてを俯瞰して眺めたときにたしかに調和がとれ、楽園的なものがかろうじて成立している様相が刺激的だったからだと思う。個々の様相は悲惨だ。けれど、それでも彼らにとって世界は美しかった。西尾維新が「ネコソギラジカル」で示したのはその小規模の楽園の崩壊であって、彼らは彼ら以外の他者をふくんだゆるやかな世界を移行していく。問題は、そうやってなかば矯正させることを余儀なくされた彼らがもともとそうであった彼らよりも醜くなんでもなく見えてしまったことだろうと思う。
 楽園は小規模な共同体だ。けれど、現代資本主義は事実上共同体を否定している。本来等価交換であるはずの売買がそれをおこなうことによって剰余価値を発生させるのは、たんじゅんに言って、共同体間の価値形態の差異によるものだ(安いところでしいれて高いところで売る)。そして、そのこと自体が共同体間にあったはずの価値形態の差異を解消させてしまう働きを持つ。そういう働きが全世界を流通すれば価値の画一化がおこり、資本の自己増殖は、資本家と非資本家との差異、技術革新済の企業と技術革新済でない企業との差異、と剰余価値を生む差異の矛先を変えていく。共同体はそうやって消えていくわけで、もしも消えたくないのであれば、現代社会の規則とはちがう規則を小規模体制のなかで構築しなければならない。わたしたちはそれをときには楽園と呼ぶ。けれど楽園はつねに外部規則にさらされ崩壊の危機を呼びおこす。「許さないで、薄く愛して、太陽から離れて、手を握って」にでてくる小澤麻友は、原田つむぎが飛びおり自殺したことを(警察に)通報しようと西村佳澄に言われ、「(彼女が自殺したことの)解決を外部のにんげんに託してしまっていいの?」と訴え、通報自体を拒否する。もちろん小澤麻友はただしい。彼女たちがつくりあげた楽園は外部規則を排除することによってのみなりたっているものであって、外部規則を持ちこんでそのなかのなんらかの解決をもたらすということは楽園の崩壊をそのまま意味するからだ(探偵小説では吊り橋が落ちたというシチュエーションもおなじ意味でただしい。そこに存在する探偵が探偵であるためには外部規則が適用されてはいけない。その意味で外界と分断された館は楽園だ)。同時に、彼女たちがつくりあげている楽園も、反外部規則という要素によってのみ規定されている。そうでないのであれば彼女たちはそもそも楽園をつくる必要性はないし、楽園はそのまま外部と同一のもっとおおきな共同体のごく一部でしかない。そして、その無慈悲性はたとえば柄谷行人「探求」で描かれていて、そこではひとつの共同体は外部(異端者)をも共同体を成立する装置としてとりこんで成立しているということがくりかえし語られている。であるならば、小澤麻友が守ろうとしている楽園の内部規定は外部規定の侵略を受けるかたちでしか成立しえない。
 現代社会の発展、という目的を達成するための装置のなかにすでに、共同体を、また共同体を押しすすめた結果としての楽園をも駆逐する機能がおりこまれている。そのいっぽうで楽園はその機能を前提として成立せざるをえない。これは矛盾かもしれないし、ただそれだけで悲劇的なのかもしれない。楽園を駆逐する装置に対抗するものは「狂気」と名づけられる。そして、そのことから目をそらすために世界はさまざまな性癖、病気に名前をつけてはそれを「狂気」ではないと規定してきた。それも外部的な装置だった。R・D・レインのエッセイのなかに「あなたは、言っていることが理解できないというだけでヘーゲルを狂気だと診断できますか?」と問われた精神科医の話がでてくる。その精神科医は「できる」と答える。
 わたしはここで「楽園のただしい構築方法」についてなにかを言うつもりはない。前日の日記でも書いたけれど、ただしいということもあたりまえに狂気でしかない。わたしがただただ問題にしたいのは、ただただふれていたいと思うのは、そういう楽園のなかで発生すると期待される言葉にできないやさしさだったり不気味さだったりする、皮膚感覚だけだ。そしてCui?×お布団「エデン瞬殺」という演劇はまちがいなくそういうところにとどいている。「エデン瞬殺」の最後の場面、ちらつく身体とちらつかない発声のあてどもないずれという感覚、もしも楽園と呼びたいのならばすぐれた演劇はすべて楽園であって、わたしはその感覚を信じるしか生きるやりかたをもう知らない。




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