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価値と名づけられた価値が

2013.07.17(21:02)

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(1999/12/18)
浪川大輔、辻谷耕史 他

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 注 「ポケットの中の戦争」
   以上の物語について結末をふくめて言及しています。

 7月14日(日)

 うっかりずっとねむっていた。クリーニング屋さんにいって血まみれのワイシャツをだしてからドトールへいって中沢新一「緑の資本論」を読んだ。それから
 家に帰って「カウボーイビバップ 天国の扉」とテレビ版の25、26話を見た。おもしろかった。


 7月15日(月)

 でかけるはずだったけれどねむっていたせいででかけることができないでいて、わたしはさいきん休日はいつもねむってばかりだったからもうほんとうにいったいなにをやっているんだろう、というかなしい気持ちになった。それからまたねむった。
 おきてやることもないからコンビニまでごはんとビールを買いにいって「ポケットの中の戦争」と「トップをねらえ!」を見た。
「ポケットの中の戦争」が悲劇的なのは、クリスとバーニィがたがいに認識をしないままに殺しあったことがひとつ、もうひとつはその戦いになんの意味もなかったことだろうと思う。たんじゅんに考えればこうなると思う。けれど、悲劇とはほんとうにはいったいなんなんだろう。
 シェイクスピア「ロミオとジュリエット」ではおたがいが死んだと思いこんで毒を飲みあってふたりとも死んでしまう。これは一般的には悲劇だけれど、おこっているできごと単位で見るならばそれは喜劇にもあまりにも近い。そこでおこっているのはたんなるすれちがいにすぎないし、愛しあっているふたりの死はそのすれちがいの結果にすぎない。できごと単位で見れば「めぞん一刻」だって悲劇だろう。あの作品が悲劇よりも喜劇として見えるならばそれはけっきょくのところ死がすぎさったものだからでしかない。
 クリスとバーニィの殺しあいはバーニィがコロニーへの核攻撃を防ごうとすることに起因している。けれど結果として核攻撃は未然に防がれ、バーニィはその情報を耳にすることができないままクリスと殺しあいをつづけてしまう。このすれちがいはやっぱりできごとだけとってみれば喜劇と本質的に変わりはないように思う。だからわたしの考えではある物語において喜劇や悲劇を決定するのは物語で発生するできごとではなくてその物語をつつんでいるなんらかの要素なんだろう。その要素とは、けれど意味ではない。バーニィの戦いにはたしかに意味はなかった。でも戦いに意味があるとはいったいどういうことなんだろうか。バーニィの戦いによって実際に核攻撃が防がれたとして、そしてそれがバーニィの戦った意味だと規定したとして、ではなぜ、その意味の剥奪が「悲劇的」だとされなければいけないんだろう。
 すくなくともわたしは世界のひとつひとつのものごとに意味をつける必要はないと思う。同時に、ひとつひとつのものごとに価値をつける必要もないと思う。ものとものは交換されることで価値が発生する、と柄谷行人は言う。それをさかのぼって価値があったからこそそのものとものは交換されたんだと考える思考は誤りだと。わたしたちはその価値をはかるまえに価値をつけてばかりなのかもしれない。価値をつけおわったあとになってわたしたちがつけた価値にわたしたち自身で驚いてこれはなんて偉大なものなんだろうと言っているだけなのかもしれない。どんな小説にもどんな映画にもどんな演劇にも本来的には価値なんてなくて、そこに価値と名づけられた価値があるだけで、わたしたちが見ているのは価値と名づけられた価値なのかもしれない。意味をつけられるものに価値があるという考えかたをとる必要はなにもないと思う。わたしたちが生きているありさまにだって意味はないし、それにさまざまな意味を付加していくだけでどんどん時間は流れさっていきどんどん醜く老いていく。悲劇をつくりだしているのはわたしたちで、涙を流したいのもわたしたちだ。わたしたちにとってここちいいのはきっとそこにいちれんの過程があるからだ。そしてわたしたちはその過程を体験と呼ぶのかもしれない。ふりかえってみればそこにはなにかをはたしたわたしたちがいる。けれどそれはもうわたしたちですらない。


 7月16日(火)

 燃えるごみを捨てて会社にいった。
 仕事をして帰って眠った。


 あなたにおじいちゃんはいなかったの、アレクサンダル。いたのは、ただの悲しい人。あの人は、川と大地のことを悲しんでいた。ひざまずいて、爪が欠けて血が出るまで大地を引っかいていた。草をなでて、においをかいで、ほんの小さな子供みたいに、草むらに顔を埋めて泣いていた――俺の大地よ、なんと踏みつけにされ、あらゆる重さになすすべもなく耐えていることか、ってね。あなたにおじいちゃんはいなかった。いたのは、愚かな人。
            ――サーシャ・スタシニチ「兵士はどうやってグラモフォンを修理するか」


 7月17日(水)

 朝に空き缶を捨てるのをわすれた。おこったできごとといえば、それくらいだった。あとは雨が降っていた。つめたい雨だった。




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