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万有引力「邪宗門」@座・高円寺

2013.07.28(22:55)

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注  「トップをねらえ!」
   「LIVE A LIVE」
   「邪宗門」
   以上の物語について結末をふくめて言及しています。


 7月18日(木)

 会社にいった。
 庵野秀明「トップをねらえ!」で気にかかるのは、「まどか☆マギカ」や「エヴァンゲリオン」についていつか書いたこととおなじように、敵の不在性だと思う。この作品で描かれている宇宙怪獣は明確なひとつの個体としては接触してはこなくて、ただ、人類の脅威という概念的存在として描かれていると思う。ガンバスターのつよさは圧倒的だけれど、かといってガンバスター単体で数十億という数の宇宙怪獣に勝てるわけではなくて、べつの兵器(ブラックホールを発生させてそのなかにすべての敵をほうりこむ?)みたいなものを用意しなければいけない。ガンバスターはその作戦を成功させる鍵となりうるものの宇宙怪獣を倒すことはできない。わたしが言いたいのは、たとえば、ここでは「ノリコががんばってつよくなってそして特定の敵を倒せば目的が達成される」という、主人公を中心として合目的的価値観というものがまったく通用しない、ということで、そのことによってどこかしらひずみが生まれてそれがなんらかの悲劇を生みだしてしまう、ということだと思う。
「LIVE A LIVE」の中世編でオルステッドが悲劇的な展開をむかえてしまうのは、そもそもいもしない魔王を倒しに旅にでてしまったからだった。それは、オルステッドが合目的的価値観にもとづいて行動していたからで、その意味ではオルステッドはたしかにただしいだろう。けれど、「LIVE A LIVE」で描かれている世界とはその合目的的価値観というものがけっきょくのところ一個人の一方的正義のありかたでしかありえなくて、その結果として、魔王討伐ではなく、親友の卑小な嫉妬心というものを問題としなければいけなくなったということだと思う。「LIVE A LIVE」というゲームが明るみにだしたのは、魔王討伐という問題にしてもけっきょくのところそれは世界の問題ではなく個人の問題だ、という、オルステッドとしては解決できない問題だった。彼の親友は彼が勇者というだけで親友でありつづけてはくれなかったし、彼の姫は彼が勇者というだけで愛を捧げてはくれなかった。「LIVE A LIVE」が描きだしたのは徹底的な個人の問題だった。
 そして「トップをねらえ!」が抱えこんでいる問題もおなじだったように、わたしには思う。はたしてノリコは人類を救いたいと1度でもほんとうに思っただろうか? わたしにはなにも言えない。それはもう個人の領域の問題で、そして、個人の問題には、それにただしいとかまちがっているという審判をくだして解決できうるようなものはひとつだってない。


 7月19日(金)

 会社にいった。


 7月20日(土)

 ベルイマンを見にいくはずだったのにひたすらひきこもりつづけていた。


 7月21日(日)

 東京デスロックを見にいくつもりだったのにやっぱりひたすらひきこもりつづけていた。あんまりにもひきこもりつづけていたせいで、死んでしまうんじゃないかと思った。


 7月22日(月)

 会社にいった。
 サーシャ・スタニシチ「兵士はどうやってグラモフォンを修理するか」を読んだ。


 7月23日(火)

 会社にいった。
 サーシャ・スタニシチ「兵士はどうやってグラモフォンを修理するか」を読んだ。


 7月24日(水)

 会社にいった。
 サーシャ・スタニシチ「兵士はどうやってグラモフォンを修理するか」を読んだ。


 7月25日(木)

 会社にいった。


 7月26日(金)

 会社にいった。


 7月27日(土)

 ただ券をもらった、とSSくんが言ったので、SSくんとHAくんとGAさんと大宮で待ちあわせをして鉄道博物館にいくことになった。11時30分に待ちあわせだったんだけれど、HAくんが、財政(原文ママ)わすれたからいったんうちに帰るから15分遅れる、と言ってきたので15分待った。AHくんが時間どおりにきたことはほとんどないけれど、そういうところ、ほんとうにいいと思う。やってきたHAくんに、財政じゃしょうがないよね、財政重要だもんね、と言った。ラーメンを食べにいくはずだったのに、暑いから、という理由で却下されて、GAさんになにを食べたいですかとSSくんが訊いたら、おひや、と言った。砂漠の旅人か、と思ったけれどなにも言わなかった。お寿司を食べにいった。彼らの名誉のために書かないけれどほんとうにだめな話をしていた。
 鉄道博物館にいった。新幹線とか電車とかがあった。ほかには新幹線とか電車の部品があった。あとは路線図があった。ほかは、とくになにもなかった。1度SSくんとGAさんとはぐれて、どこにいるの、と電話をして訊いたら、仙台いきの電車のなか、と言われた。仙台にいこうとしていたのか、と思った。帰った。
 そのあと高円寺までてこてこでかけて、座・高円寺で万有引力「邪宗門」を見た。舞台に足を1歩踏みいれたときから衝撃的だった。今年見た演劇のなかでいちばんすばらしかった。この演劇の最後、役者たちは役者であることをやめてしまう。白塗りを拭いとり素顔で舞台のうえにたち、マイクを持って、劇はもう終わりだと絶叫し、出演者のひとりひとりの本名を呼びでてきてくださいと呼びかける。役を持った俳優たちだけでなく、黒子たちまでもが黒衣を脱ぎとってしまう。役者たちをあやつっていたのは黒子ではない、役者たちをあやつっていたのは劇作家だと、そして劇作家をあやつっていたのは夕暮れの憂鬱、いっぷくの煙草の煙だと。舞台装置は出演者たちに破壊しつくされ、観客に向かい、なにかおもしろいことものはないかと思って劇場に足をはこんだあんたたちに俺が言えることはただひとつ、ここにはなにもない、なにもないのだ、と絶叫する。そして出演者たちは観客席をとおって舞台から姿を消してしまう。寺山修司については劇場の否定、ということが言われるけれど、そのことを考えるには劇ということについて考えなくてはいけないと思う。
 ゴダールは映画を撮りたいと思っている若いひとたちに向けてかつてこう言った。まずあなたのいちにちをカメラで撮ってみるといいでしょう、そしてその映像を見てそれが映画になっているかどうかを見てみるといいでしょう、そしてそれが映画になっていなかったら映画を撮るのはやめたほうがいい、と言った。紙とえんぴつがあればだれでも画家になれるわけではないのとおなじです、と言った。
 映像がある、けれどそれがどうして映画だと言えるんだろうか。文字の羅列がある、けれどどうしてそれが小説だと言えるんだろうか。絵の具の塗りかさねがある、けれどどうしてそれが絵画だと言えるんだろうか。キーボードをたたいてプログラムを書いているわたしがある、けれどどうしてそれが仕事だと言えるんだろうか。舞台があってそこでなにかをしゃべったり動いているひとたちがある、けれどどうしてそれが演劇だと言えるんだろうか。
 これらの問いに答えるやりかたをすくなくともわたしは持っていない。持とうとすら思っていない。
 わたしは小説についてなにも知らない。なぜ自分の書いたものをすくなくともわたしは小説と呼ぶのか、わたしはなにも知らない。辞書的な定義にも興味はない。それは辞書の問題であって、小説の問題ではない。映像で映画が定義されないのはなぜか、楽譜は音楽を発生させるけれど音楽を定義しているわけではない。
 わたしの考えでは、あるさだめられた枠のなかに特定の物語と特定の人物のことを文字でつづっていくことが小説を書くということではない。あとからできあがったものをこれは小説だと呼ぶものだからあたかも小説ははじめから書かれえるものだと規定されてしまうけれど、それは書かれおわったあとになってその文章へ便宜的に名づけられた名前にすぎない。机のうえに林檎と蜜柑があって、もしもわたしがだれかに林檎をとってほしかったら、わたしはそれに林檎と名前をつけなくてはならない。そうでなければ、そのひとはわたしに林檎をわたすことすらできないからだ。そしてもしもかりに林檎と蜜柑がふたつずつあったとして、そのときわたしはその林檎に名前をつけてしまうかもしれない。ひとつには「戦争と平和」、もうひとつには「カラマーゾフの兄弟」と。けれどそのときわたしはてわたされたその林檎がほんとうに林檎なのかどうか食べるまえからわかることができるんだろうか。問題はそこにしかない。そしてそれはわたしの問題であるいっぽう、林檎をてわたしたひと、また、その林檎をつくりだしたひと、あるいはその林檎自身の問題でもありえるだろう。そして世界にだれもいないとき、そしてその世界にひとつだけの林檎が存在しているとき、その林檎ははたして林檎でありつづけることができるんだろうか。だれにも読まれることのない小説はそれでもまだ小説なんだろうか。もしも公演のチケットがいちまいも売れなかったとき、劇団はからっぽの観客席に向かって演劇を上演するんだろうか。そのときそこでおこなわれていることをわたしたちは確信をもって演劇と呼べるんだろうか。
 もしもかりに小説が事後にそう呼ばれるだけのものだとしたら、わたしたちはもう原理的に小説を書くことはできない。
 小説は、あるいは演劇でも音楽でも映画でもなんでもいいけれど、それらはその関係の場に発生する直接的空間であるようにわたしには思える。「邪宗門」が感動的なのは、そこに確個として現出した空間を観客をとおして劇場外へと拡散させていく意志への表現があるからだと思う。問題はそこにどういった直接的空間を生成することができるかということだと思う。劇場のなかで演じられるものが演劇ではない。劇場のなかに生成された直接的劇空間が演劇だとわたしは思いたい。
 座・高円寺にいくまえもベックスにいったのに、もういっかいベックスにいって、サーシャ・スタニシチ「兵士はどうやってグラモフォンを修理するのか」をようやく読みおわった。序章だと思って読んでいた文章が目次だとわかったときにはびっくりした。目次を読んでいるだけでほとんど感動してしまうのはブローティガンくらいだと思っていたけれど、そうではないことを知ってうれしかった。旧ユーゴの戦争を舞台にした長編だけれど、興味ぶかいのは、悲惨な現実と子供ながらの視点で描かれた夢が過不足なく結びついているありかたで、それがなにによっているのかと考えてみると、きっと、それはたんじゅんな自然だと思う。ドリーナ川と大地が都市の無機質さをうまく消しさって、夢見がちな魔法が威力をましていると思う。戦場で敵対する兵士たちがサッカーをしている場面があまりにも美しくて泣きそうになった。




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