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G.com「聯綿」@王子小劇場

2013.07.28(22:57)

贖罪〈上〉 (新潮文庫)贖罪〈上〉 (新潮文庫)
(2008/02/28)
イアン マキューアン

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 7月28日(日)

 洗濯をしてから王子小劇場までいって、G.com「聯綿」を見た。最後に様相が一変するところはすばらしかったと思うけれど、それ以外の全編についてはずっと我慢して見ていた。「邪宗門」で書いたことそのままだけれど、やっぱり、劇場で役者たちが動いたりしゃべったりしているだけで演劇になるわけではないんだなと思った。劇場で役者たちが動いたりしゃべったりすることにかけては質は高いと思う。でもすくなくともわたしはそういうのを見にきたんじゃない、劇場で役者たちが動いたりしゃべったりすることの質の高さをたしかめにきたんじゃない。
 モスバーガーにいって小説を読んだり書いたり日記を書いたりした。イアン・マキューアン「贖罪」をもうほんとうにひさしぶりに読みかえしているけれど、やっぱりちゃんとおもしろくてうれしかった。たんじゅんにいってしまえばプルースト「失われた時を求めて」とおなじやりかただとわたしは思う。けれど、あらゆる方向から時間を潰しあげるように凝縮してこりかためたすえにできた密度の高い時間と感情の空間はもうすばらしいと思うしかない。G.com「聯綿」とはぎゃくに、質の高さがすなおにうれしい。


 ブライオニーは指を曲げ、また伸ばしてみた。謎なのは、これが動く直前の一瞬、動作と静止を分かつ切断の一瞬、自分の意思が実行に移される瞬間だった。その刹那をとらえられれば、自分というものの秘密、自分を真に動かしている部分を見きわめることができるかもしれないのだ。ブライオニーは人さし指を顔に近づけてじっと眺め、それを動かそうと念じた。指が動かなかったのは、自分が完全に真剣でないからであり、そしてまた、指を動かそうと念じること、動かす態勢になることが本当に指を動かすことと同じでないからでもあった。ついに指を曲げたときには、動きは指そのものから始まるようで、自分の精神のどの部分とも関わりがないように思えた。どの瞬間に指は動きを意識し、どの瞬間に自分は指を動かすことを意識するのだろう? 自己をつかまえる方法はなかった。動かす自分、動かされる指、というふたつしか意識できなかった。それらのあいだには縫い目も継ぎ目も存在しないようだが、それでも、なめらかに連続した一枚のこの生地のうしろに本当の自分があって――それが魂というものだろうか?――ふりをするのをやめる決断を下し、最終的な命令を発していることはブライオニーは分かっていた。



 あたりまえのことだけれど、ここで描かれている圧倒的な濃密な描写は現実に流れている時間と一致していない。わたしたちがこの文章を読んでいる時間とそれらは一致していない。映画で1場面で流れている時間が基本的に現実と一致しているのにたいし、小説ではそうでない。このとき、マキューアンが描いている時間感覚をわたしたちはどう見るべきなんだろうか。ブライオニーの思考の流れをたどるようにマキューアンは文章をつづっているんだろうか、そうであるならば、マキューアンの描く時間はブライオニーが所有する空間を流れる時間の後追いでしかないんだろうか。


 ブライオニーは人さし指を顔に近づけてじっと眺め、それを動かそうと念じた。指が動かなかったのは、自分が完全に真剣でないからであり、そしてまた、指を動かそうと念じること、動かす態勢になることが本当に指を動かすことと同じでないからでもあった。


 この文章をわたしたちはどう見るべきなんだろうか。「ブライオニーは人さし指を顔に近づけてじっと眺め、それを動かそうと念じた。」という文章はブライオニーの描写だけれど、「指が動かなかったのは、自分が完全に真剣でないからであり、そしてまた、指を動かそうと念じること、動かす態勢になることが本当に指を動かすことと同じでないからでもあった。」という文章はすでにブライオニーの描写ですらない。この文章が描いているのは事実、あるいはできごとであるはずだ。では、後者の文章が描かれているあいだ時間はどんなふうな流れかたをしているんだろうか。そもそも、それは「時間はどんなふうな流れかたをしているんだろうか」という問いを発することができる対象であるんだろうか。そしてもしもその問いの対象でなかったとしたら、このふたつの文章はいったいなにによってつながれているんだろうか。そしてなぜ、時間の流れかたが異なる、あるいは時間の流れの対象と非対象であるふたつの文章がおなじ紙面に共存し、そしてなぜわたしたちはそれを過不足なく読むことができるんだろうか。
 これは13歳の女の子が自分の魂に近づいていく濃密な瞬間をきりとったとても感動的な文章だと思う。重要なのはブライオニーが問題にしているのが指が動くときの一瞬、つまり時間ということだ。ブライオニーが意識しているのはその一瞬という時間のなかにほんとうの自分がいるという感覚だ。わたしはこれを畏れたいと思う。わたしたちもまたマキューアンの描く時間あるいは非時間のつなぎめに近づくことによってわたしたちの魂に近づけるかもしれないのだから。




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