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ゆたかさの感情において世界をその夜その瞬間に

2013.08.11(22:05)

中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)
(1997/04)
村上 春樹

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ショートカット (河出文庫)ショートカット (河出文庫)
(2007/03)
柴崎 友香

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 7月29日(月)

 会社にいった。


 7月30日(火)

 会社にいった。


 7月31日(水)

 会社にいった。


 8月1日(木)

 会社にいった。


 8月2日(金)

 会社にいった。


 8月3日(土)

 いちにちじゅうずっとねむっていた。
 あとはむかしの「GODSGARDEN」の動画をずっと見ていた。ぜんぶおもしろかったからずっと見ていられた。


 8月4日(日)

 いちにちじゅうずっとねむっていた。
 あとはときどとウメハラの101戦をずっと見ていた。おもしろかったからずっと見ていられた。


 8月5日(月)

 会社にいった。


 8月6日(火)

 会社にいった。


 8月7日(水)

 会社にいった。


 8月8日(木)

 会社にいった。


 8月9日(金)

 会社にいった。


 8月10日(土)

 午後5時くらいまでずっとねむっていた。仕事がいそがしい、ということもあるかもしれないけれど、平日だってそれなりにねむってはいた。はやくねむろうと思えばねむれるはずなのに、「GODSGARDEN」の動画ばかりを見ているからねむれないでいて、けれどそれはきっとただのいいわけで、動画を見ていたとしても1時や2時にはねむっているはずなのだから金曜日から土曜日にかけて17時間もねむりつづける必要なんてまるでなかった。そしてそれを知ってはいた。わたしはもうべつに生きたいなんて思っていないのかもしれない。よりよい人生を生きようとか、充実した生活をしようとか、そんなことをうまく思えないのかもしれない。
 髪をきりにいったけれど髪をきってくれるお店はしまっていて、しかたなくドトールまでいって村上春樹「中国行きのスロウ・ボート」を読んだ。とくにすばらしいのは「午後の最後の芝生」と「土の中の彼女の小さな犬」だと思う。


 二時二十分に仕事は終った。僕はラジオを消し、裸足になって芝生の上をぐるりとまわってみた。満足のいく出来だった。刈り残しもないし、むらもない。絨毯のようになめらかだ。
「あなたのことは今でもとても好きです」と彼女は最後の手紙に書いていた。「やさしくてとても立派な人だと思っています。でもある時、それだけじゃ足りないんじゃないかという気がしたんです。どうしてそんな風に思ったのか私にもわかりません。それにひどい言い方だと思います。たぶん何の説明にもならないでしょう。十九というのは、とても嫌な年齢です。あと何年かたったらもっとうまく説明できるかもしれない。でも何年かたったあとでは、たぶん説明する必要もなくなってしまうんでしょうね」
 僕は水道で顔を洗い、道具をライトバンに運び、新しいTシャツを着た。そして玄関のドアを開けて仕事が終ったことを知らせた。
       ――「午後の最後の芝生」


「午後の最後の芝生」では刈りおわった芝生の様子を俯瞰する主人公の視線からいってんして彼女の手紙の文面が挿入される。彼女の最後の手紙の文面が挿入される必然性なんてなにひとつないにのかかわらず。
 あるものとあるものを重ねあわせる、ということは、比喩的である、ということとはまたべつの位相で小説かそうでないかを問わず基本的な技術であって、そして、それはたしかにひとつの技術なんだけれど、とくにじゅうぶんに高度な小説のなかで技術が問題にされるとき、その技術がなぜ有効なのかを問わなければならないように思う。ここで表現されていることは、あるものとあるものが言葉でもって結びつけられている、あるいは結びつけようとだれかによってつよく意志されている、ということだと思う。けれどそれはいっぱんに言われる「深さ」というものとはちがうように思う。なんらかの結びつけによってあるものごとに「深さ」がそなわる、という現象が自然におこりえる、という発想自体がどこかしらおかしいんじゃないかとときどき思う。ものごとを見たときに感じる「深さ」というのはそれを見る側の視点に依拠しての尺度でしかないのかもしれなくて、そしてかりにそうであったとしたとき、わたしたちはそのとき「ものごとの深さ」ではなくわたしたち自身をきちんと問題にすることができるんだろうか。それはきっと、小説を読むことよりもずっとずっとむずかしいことだろう。
 近くのMOVIXまでいって宮崎駿「風立ちぬ」を見た。おもしろかった。けれど、そもそもこんな映画がおもしろいということが異常だと思う。脚本はつくづく地味で、物語的要素は希薄で、夢のつかいかたも驚くほど稚拙だ。エンターテインメントよりだとも文学よりだとも言えない。わたしはこの作品を語るやりかたを持っていない。
 そもそも、たとえばある作品が「おもしろくない」ということがなぜおこりえるんだろうか。作品をつくるひと、すくなくともその当人だけであってもその作品を「おもしろい」と思ってつくっているという楽観的な見かたをとるのであれば、あらゆる作品は「おもしろい」はずだ。にもかかわらず実際に「つまらない」作品というものはへいぜんと存在している。「つまらない」作品であってもだれかひとりだけでも「おもしろい」と思えるはずの要素を持っているのであれば、それを「つまらない」と感じてしまうわたしは「そのおもしろさが理解できない」とか「そのおもしろさを受けとめられるだけの感性のひろさを持っていない」ということになってしまうんだろうか。「おもしろい」と思ったひととその作品にふれたときのわたしの環境、考えかた、感性が一致していればその作品は「おもしろい」んだろうか。作品の「おもしろさ」を個々人の環境、考えかた、感性のちがいにゆだねてしまっていいんだろうか。そのとき、その作品をつくる際の技術の問題をどうとらえればいいんだろうか。
 わたしはなにも知らない。


 8月11日(日)

 髪をきってからドトールにいって柴崎友香「ショートカット」を読んだ。


 信号が変わっているのに気がついて、片野くんは歩き出した。また、車輪がからから回る音が鳴り出した。さっきまでその音がしていなかったことに、音が鳴り出してから気づいた。ちょうど車も信号でみんな停まって、とても静かな一瞬があったことを、その時間が終わってから気がついて、惜しいことをしたと思った。
                   ――「やさしさ」


「やさしさ」は真夜中の道を男の子とふたりで歩いて帰るというだけの短編だけれど、わたしがほんとうに衝撃を受けるのは、世界のゆたかさのすべてを享受している、という感覚だと思う。わたしは小説家が文章を書くときにどうやって書いているのかを知らない。ある風景を想定し、そのなかに登場人物を配置し、登場人物の視点から見られたものをそのときどきにおいて語っていく、というのが小説の書きかたなんだろうか。
 ずっとまえに、柴崎友香の理由をあらわす接続時の「(だ)から」はすでに理由をあらわしてはいない、と書いたことがあったと思う。柴崎友香の「(だ)から」の文章は生成と認識の距離が近すぎて、あるいはそのへだたりのあいだを埋めるための文章速度があまりにもはやすぎて、それはすぐに「できごと」に変わってしまう。「なにかがおきた、だから、うれしかった」といういちれんの流れがほとんどゼロ距離またはゼロ時間のうちにおこなわれていて、それらがひとつにまとまった感情として「わたし」には感じられているように思う。いいかえれば、柴崎友香はゆたかさの感情において世界をその夜その瞬間に凝縮している。うえに引用した文章において、「わたし」は「わたし」が感じそこなった時間について惜しんでいる。けれど、「『わたし』が感じそこなった時間」には中身なんてほんとうにはないのかもしれない。あるのは「『わたし』が感じそこなった時間」だけで、その内実は「気をつけていればたしかにわたしが感じとれたかもしれない時間」であって、そのなかにあったはずのゆたかさはけっきょくのところ「あったはずのもの」でしかない。柴崎友香がここでとりだしているのは、わざわざ文章としてまで書いてとりだしているのは、「すぎさってふれえなかったゆたかさ」を「いま現在のゆたかさ」としてあらためて生成しなおしたもの、だと思う。柴崎友香がとりだしているのはけっして短い時間の過去ではなく、その意味でそれは郷愁的なものではない。彼女はつねにいま現在をとりだしている。「存在しえないもの」すらも彼女にとってゆたかさであるのであれば、彼女にあるのはあらゆるかぎりのゆたかさだろう。岡田利規が「わたしたちに許された特別な時間の終わり」で描いた「特別な時間」を柴崎友香はつねにとりだしつづけているようにすら思う。
 このとき、そのさきになにがあるんだろう、と問いかけることに価値があるだろうか。あらゆる未来が現在でしかないことは悲劇的ではない、という立場にたったとき、その問いは。




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