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マームとジプシー「cocoon」@東京芸術劇場

2013.08.18(01:21)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)罪と罰〈上〉 (新潮文庫)
(1987/06/09)
ドストエフスキー

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 8月12日(月)

 会社にいった。


 8月13日(火)

 会社にいった。


 8月14日(水)

 会社にいった。


 8月15日(金)

 会社にいった。
 想像力がたいせつだよ、ということはよく言われるけれど、「想像力がたいせつだよ」と言うことにはすくなくとも想像力は欠けている。想像力をたいせつにして、それでわたしたちはいったいなにをしたいんだろう。想像力をたくましくすれば他人のことが理解できるとか他人に共感できるなんてうそに決まっていると思う。他人のことが理解できたり他人に共感できたりすれば想像力なんかいらない。目のまえのひとを見たり目のまえのひととしゃべりあったりしてそれでもまだなにかを感じられなくて、その感じられないものを想像で埋めようとするなんてただの傲慢じゃないかと思う。わたしが想像できるのはわたしだけじゃないか、それでなにがいけないんだろう。
 部屋の電球がきれて部屋がとても暗い。冷蔵庫も壊れてしまったままだ。家のなかのものがひとつひとつじゅんばんに壊れていく。最後にはわたしも死んでいくんだろう。けれど、それのどこが悲劇的なんだろうか。


 8月16日(土)

 お昼すぎにおきてクリーニング屋さんにいって、ドストエフスキー「罪と罰」を読みながら電車にのった。なぜ愛と犠牲がたやすく結びついてしまうのかわたしにはうまくわからない。サリンジャー、ブローティガン、ヴォネガット以前にやさしさを見たことがない、とわたしはずっとまえに言ったけれど、ドストエフスキーの小説にはたしかにやさしさはでてこない。妹のダーニャはラスコーリニコフのため母親のためその身を犠牲にするけれど、それが、たとえ愛であるとしてもやさしさではないのはどうしてなんだろう。
 わたしが読んでいるところではまだでてきていないけれど、ずっとあとになってラスコーリニコフは僕が金のために老婆を殺したのであったならば僕はどんなに幸福だっただろうと言う。そうかもしれない、とわたしは思う。すべての金のための行為であったならばわたしたちはどんなに幸福だっただろう。
 池袋の東京芸術劇場でマームとジプシー「cocoon」を見た。ほんとうにすばらしかったと思う。わたしはマームとジプシーはまえに見た作品がきらいできらいでしかたなくてもう見るのはやめようとつよく思っていたけれど、どうしても青柳いづみが見たくて見にいってしまった。青柳いづみも、たとえば野津あおいもそうだけれど、ほんとうに舞台のうえですごいことをやっているひとを見ると、発声ということがひとつの身体的な行為だということが意識されて、ぞくっとする。どうして彼女はあんなふうにしゃべることができるんだろう、そして、そのしゃべりかたはほかのひとといったいなにがどうちがうんだろう。わたしにはわからないことだらけだ。言葉というものが読まれるためにはそれを書きつけるための媒体が、たとえば紙が必要で、そうであるならば、わたしたちの言葉は自然と有限であって、その有限さは媒体からどんなふうなかたちで制限を受けなければいけないんだろうか。小説を書くということ、そして社会のために行動すること、それは排他的ではない。小説を書くということが行為であるはずなのに。行為であるから、わたしたちはずっとずっと有限だ。
 マームとジプシーをわたしがきらいだと感じたのは、たんじゅんな話で、リフレインがいくらなんでもおおすぎるからだった。たしかに調子を変えてくりかえされるその会話は重ねられることによって感動を増すのかもしれないけれど感動するまえにどうしても我慢ができなくてうんざりしてしまう。うんざりしてしまったらもう感動もできない。「cocoon」はすくなくともわたしがまえに見た作品よりもずっとずっとリフレインがおさえられていて、見やすかったと思う。けれどいやだったのは、言葉であらわしたことを行動でもう1度くりかえしてしまうことだった。青柳いづみは海まで走っていくということを何度となく語るけれど、直後、舞台のうえでほんとうに走りだしてしまう。マームとジプシーのその執拗さはいったいなんなんだろう、と思う。なぜおなじことを言葉と行為でそれぞれくりかえさなくはいけないんだろう。わたしは藤田貴大が言葉に、あるいはそれをしゃべらせるやりかたに無神経だとは思わない。だからもしかしたら藤田貴大は言葉を、行為をたいせつにしすぎているのかもしれない。それらがなにかをあらわしえるということを、どこまでも信じているのかもしれない。
 けっきょくのところマームとジプシーが表現しているのは個々のにんげんではないと思う。ひとりひとりの人物の紹介あって、それぞれのにんげんの個性もあって、だから藤田貴大がそれを描けていない、ということではないと思う。そうではなくて、マームとジプシーがはらんでいる問題は、どんなに個々のにんげん、個々の場面をくりかえし強調したとしても、それが全体性のなかに併合されてしまうように見えることだと思う。安川奈緒は、9.11テロを受けて「歴史を見た」と発言した阿部和重と中原昌也にたいし、「ひとはいいかげんな非―場で、てんでバラバラに死ぬべきだ」と言った。「cocoon」という演劇のなかで彼女たちは個別に、さまざまなやりかたで死んでいく。ときにはその死を絶えずリフレインさせながら。けれど、どんなに個別なありかたで彼女たちが死んでいったとしてもそれはばらばらの場所べつべつの時間の死でありえてはいない。おおきな全体のなかでの彼女たちの個性は全体のなかで対比されたしかけられた個性でしかない。死んだにんげんは舞台上方に追いやられ、彼女たちはそこから舞台のうえを見おろしている。彼女たちの顔に光はあたらないにもかかわらず。舞台装置と化してしまったときの彼女たちの美しさをそれならわたしたちはどんなふうにとらえていったらいいんだろう。いろいろな考えかたがあると思う。寺山修司「邪宗門」がしかけたことは劇場の否定ではなく個の生成ではなかったんだろうか、といったような。劇場に個性がないわけではない。けれどわたしたちが問題にするのが全体に対比された個人でしかないのであれば、わたしたちはけっきょくのところ安川奈緒が言ったような死にかたはできないだろう。




コメント
シャーロック・ホームズも「探偵には想像力が大事だよ」とよく言います。でも、どうして探偵に想像力が必要なのかはほとんど説明してくれません。その代わりにやたら麻薬をやったり、タバコを吸ったりしています。これってほめられませんよねえ。
【2013/08/23 17:01】 | ぐっしい #- | [edit]
ぐっしいさん

僕はホームズのことはよく知りません。
ホームズのことを想像することもできません。
そして また 探偵のことも。
ホームズもまた僕のことを想像しないでしょう。
でも ホームズは僕のことを想像しない理由を 
説明しないことを 想像すらもしないでしょう。
【2013/08/26 20:18】 | 桜井晴也 #- | [edit]
ずっと拝見してました!
おめでとうございます!
【2013/09/08 13:44】 | ゆ #- | [edit]
ゆ さん

こんばんは。
お湯のほうにあったかそうな名前ですてきですね。
どうもありがとうございます!
【2013/09/09 02:15】 | 桜井晴也 #- | [edit]
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