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「God save the Queen」@東京芸術劇場

2013.09.14(23:33)

対岸の彼女 (文春文庫)対岸の彼女 (文春文庫)
(2007/10)
角田 光代

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 9月11日(水)

 病院いくから明日11時にいきますよ、と宣言していたにもかかわらずふつうに病院はおやすみで9時にいった。
 わたしのための飲み会が、開かれた。


 9月12日(木)

 会社にいった。
 それからモスバーガーにいって日記を書いたり小説を書いたりしていた。


 9月13日(金)

 病院にいった。会社にもいった。
 それからドトールにいって日記を書いたり小説を書いたりしていた。
 角田光代「対岸の彼女」を読みおわった。おもしろかった。


 9月14日(土)

 奇蹟がおきてお昼まえにはおきることができて、東京芸術劇場までいって「God save the Queen」を見た。出演団体はうさぎストライプ、タカハ劇団、鳥公園、ワワフラミンゴ、Qで、おもしろいじゅんばんをいえば、鳥公園、うさぎストライプ、ワワフラミンゴ、タカハ劇団、Qだったと思う。この公演のチケットはたった2500円で売られていて、しかも、Qをのぞけば見やすい作品がそろっていて、とても、よくて、というより、わたしが感じたのは、そのへんで売られている小説をにさつ買うよりも彼女たちの公演を見にいったほうがずっとずっと行為としてはまともだということだった。水準のたかさはうれしい。
 鳥公園「蒸発」はきわめて文学的だったと思う。もっとも、「文学的な」というのは、とくに文学と呼ばれる小説にたいしては褒め言葉ですらない。たんじゅんな話、現代の文学は「文学的」であろうとしているわけではないとわたしは思う。言いかたがむずかしいけれど、「文学的」な文章では文学は書けないし、また、「詩的」な文章では詩は書けない。文学や詩を書くことができる文章は「文学的」だとか「詩的」だとか呼びなおされるひまがあってはいけなくて、呼びなおされる以前にそれは文学であったり詩であったりしなくてはいけない。鳥公園「蒸発」が文学的だ、とわたしが感じたのは、そもそも、文学という存在がそのなかでやろうとこころみていること、つまりは、文学的だと呼ばれなおされる必要性を持ちえないことが、この作品のなかにはみちみちているように思えたからだった。森すみれと野津あおいがあのとき舞台のうえでしゃべりあったことを文学は文学的ではないやりかたで書こうとしてきたように思えた。書けなかった、とわたしは言わない。けれど、鳥公園のこの作品は文学にたいして文学が書きえないことをつきつけているように思う。文学は書こうと思えば鳥公園のこの作品でなされたことを書くことができるだろうと思う。けれど、そのときその作品は鳥公園のこの作品のようにはたしておもしろくあれるんだろうか。わたしはそうは思わない。それが、鳥公園の強度なんだと思う。
 うさぎストライプ「メトロ」はまえにアゴラ劇場で見たのとおなじようなものだと思って、けれどそれは、おなじようにおもしろかった。たとえばマームとジプシーの観客を感動させるやりかたはそれはもうずるいと思うけれど、うさぎストライプはそれよりもよっぽどそれはもうほんとうに、ずるい。そもそも彼女たちは踊る必要も必死になって身体を動かす必要もない。大声で台詞をさけばなければならなくなるほど大音量でやくしまるえつこのうたを流す必要だってない。そうやってかけられた負荷によって、たった1時間ほどの作品でも、たった20分ほどの作品でも、ほかのほとんどどんな作品よりもよっぽど感動させられてしまう。だからずるい。ずるくて、すごい。
 ワワフラミンゴ「どこ立ってる」にわたしは衝撃をうけたけれど、それはきっと、こういう作品をつくりたいと思っているひとがおそらくはそれなりにいて、そして、こういう作品はきっと、そういうひとたちが漠然と考えるときにおもしろそうに思えるかもしれないけれど実際につくってみるとぜんぜんちっとも陳腐でおもしろくない作品になるだろうという気がずっとしていて、だから、こういう、しかもおもしろい作品がつくられうるということが、衝撃だった。シュールで、どことなくメルヘンチックで、かわいくって、どことなくおかしい、と書いてもほんとうにどうしようもないけれど、重要なのは、ほんとうにそうだ、ということだと思った。
 タカハ劇団「クイズ君、最後の2日間」は意外に笑えてそれなりにちゃんとおもしろいけれど、わたしはあまり好きではなかった。わざとらしさ、というものをけっきょくのところわたしは好きではないんだろうと思った。それはたぶん、演劇を劇的にしてしまう。劇的なのはわたしたちの実人生でじゅうぶんじゃないか、と思う。そして、2ちゃんねるめいた書きこみは書かれるものであって発音されるものではない。この作品をつくったひともそれはほんとうにわかっているんだろう。なのになぜしゃべらせたのか、それはサービスではなく、怠慢なんじゃないだろうか。
 Q「シースーQ」は、わたしは、けっきょくこういう作品を見てもどうしようもないでしょう、ということしか思えないけれど、すくなくともお寿司を食べる気はなくなった。この作品がどうのこうの言うより、お寿司を食べさせる気をなくさせる演劇はたぶんここ10年単位でこれいっぽんなのかもしれないと思う。それは、むしろ迷惑だけれど…。
 ヴェローチェにいって日記を書いたり小説を書いたりした。ドストエフスキー「罪と罰」を読みながら電車にのって帰った。




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