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せつじつさ

2013.09.18(23:10)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)
(2003/06)
谷川 流

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罪と罰〈上〉 (新潮文庫)罪と罰〈上〉 (新潮文庫)
(1987/06/09)
ドストエフスキー

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 注 「涼宮ハルヒの憂鬱」
   「罪と罰」
   以上の物語内容に一部言及しています。


 9月15日(日)

 台風がやってくる、といううわさで、だから、台風はやってきたんだろうか、と思っていたけれど、けっきょく、よく、わからなかった。お昼すぎにはおきてクリーニング屋さんにいって、それからエクセシオールカフェにいって小説を書いた。
 ギレルモ・デル・トロ「パシフィック・リム」を見た。デル・トロは「パンズ・ラビリンス」が好きで、それ以外に彼のことはなんにも知らなくて、「パシフィック・リム」の予告を見たときは、え、このひとなにやってんの、と思ったけれど、見て、ちゃんともおもしろかったからよかったと思った。けっきょくのところ、美意識なんだろうな、ということを思った。菊地凛子の黒傘に落ちる雨滴だとか、香港の黒色に道路に染みだす紫色の光だとか、そういうわたしたちが身近に体験できるひとつひとつが映像としてちゃんときれいであってくれて、そうでなければ、わたしたちが身近に体験できないイェーガーと怪獣の戦闘場面がどうしてきれいに撮れるだろうか、ということを思った。映像は、わたしは、タルコフスキーが撮った映像がいまもなおほかのどんな質のたかいCGでつくられたものよりも美しいと思いつづけていて、だから、質のたかいCGでつくられた映像がそのまま美しいわけではないと思う。だって、わたしはタルコフスキー「鏡」の冒頭で草原に風がふいただけで感動してしまうのに、ほかのどんな映像でも、ただ草原に風がふいただけで感動したことは、ない。デル・トロはたぶんきっとそういうことをわかっていると思う。そうでなければ、ただロボットとモンスターががちゃんがちゃんと戦闘してばかりのこんな映画がこんなにもおもしろいはずがないんだから。
 家に帰って谷川流「涼宮ハルヒの憂鬱」を読んだ。谷川流はずっとまえに「絶望系 閉じられた世界」を読んで、紙くず…、と思ったのでそれ以来敬遠していたけれど、なんだかきゅうに読みたくなって読んだ。おもしろかった。この小説は語り手のキョンの独白的なかたちですすめられるけれど、ちょっとこわいな、と思ったのは、なかばあたりから、地の文とキョンの会話文の区別がだんだんと希薄になっていくところだった。このときの会話において彼のこころのなかの反応とそれをくちにだすということは、わたしたちにとってはほとんど区別の必要がなく、また、されることもない。それは、説明がむずかしいけれど、わたしとしてはどことなく語りの基点が落ちているように思えた。いいかえれば、それは、キョンの一人称独白じたいがハルヒたちがおりなす非日常にとりこまれていく過程のようにすら思えた。日常、非日常という対比があると仮定したとして、この物語は日常を非日常化していく物語だと思う。けれど、そもそもこの物語における日常と非日常とはなんなんだろう。ハルヒも、そしてキョン自身もなにもおこりはしない日常を忌避しているとしても、ハルヒの願いがかなったときこの世界は終わると仮定されている。物語的にいえば、長門もみくるも小泉もハルヒの願いを妨害する立位置にいる、と同時に、長門もみくるも小泉もキョンもハルヒとかかわるうえでなりたつどたばたとした日常をたのしんでいる。けれど残酷なのは、彼らがハルヒがほんとうに思うおもしろいことをハルヒに教えることがないことだと思う。彼らが思うハルヒの願いは彼らがハルヒにおしつけているものでしかないし、だから、彼らがハルヒに自分たちの正体を教えないのもおおきな範囲でいえばハルヒへのうらぎりなんだと思う。物語はただぐるぐるまわりつづけるだろうと思う。「うる星やつら」の最終回であたるがラムを好きかどうかを問題にせざるをえなかったように、けっきょくのところこの物語もハルヒが日常をどうとらえるか問題にするとき終わりにむかうだろうと思う。
 濱口竜介「親密さ」を見たとき、わたしは、わたしたちはどうして日常すらも耐えなくてはいけないんだろう、耐える必要のないものにどうして耐えていかなければいけないんだろう、けれどそのとき、ようやくわたしたちは生きる価値のない生を生きはじめることができるかもしれない、と言った。ハルヒが求める日常、あるいはとくべつさ、というのはいったいなんなんだろう。もしも将来にわたしたちが過去をふりかえったときにあのときすごした時間のひとつひとつがとくべつだったと感じえるのならば、そのときとくべつなのは過去の時間ではなくて未来であるのかもしれないのに。


 9月16日(月)

 台風がやってくる、といううわさだったから、台風にそなえてずっとねむっていた。ねむっていたから、けっきょく、台風がやってきたのかどうかよくわからなかった。モスバーガーにいって小説を書いた。
 家に帰ってドストエフスキー「罪と罰」を読んでいた。ずっとまえ、わたしは、小説においてやさしさが描かれたのはサリンジャーやヴォネガットやブローティガンが最初かもしれない、というとてもてきとうなことを言ったけれど、それは、ラズミーヒンのことをすっかりわすれていたからだと思う。ソーニャには愛があって、愛だけしかないことをわたしはとても美しくて危険なことだと思う。やさしさというものが自分のなにをもけずることなく相手になんらかのものをわたすものだとして、そして愛がそうではないとしたら、けっきょくわたしはやさしさだけがほしいと思う。
 この小説が、すくなくともわたしにとってせつじつなのは、ラスコーリニコフがナポレオンではなかったことだと思う。彼は自分がナポレオンかどうか、ひとを殺すことができるかどうか、まるまる1ヶ月以上も部屋のなかにひきこもって考えつづけたけれど、その時点で彼は自分がナポレオンではないことを知っていた。ナポレオンだったならそもそも自分がナポレオンかどうか、ひとを殺すことができるかどうか、それを考えることもしなかっただろうと彼は理解してしまう。自分というひとりのにんげんがこの世界のなかでとくべつでありえるかどうか、ということ、ただそれだけのせつじつさをもって、ラスコーリニコフは老婆を理論もなにもなく殺した。彼にとって大事だったのはそのせつじつさそのもので、わたしがなんらかのことを思うのは、ラスコーリニコフがそのせつじつさがせつじつさであってほしいと願いつづけたことだと思う。せつじつさをせつじつさとしてとらえつづけること、ほんとうはそれだけがわたしたちにとってたいせつなものかもしれないと思った。わたしは無感覚なにんげんだから、文学もお金も他人も、ほとんどすべてのことについてだいたいどうでもいいとしか思っていないから、だからわたしがほんとうにほしいのはただのせつじつさ、なにかとくていのものごとにたいすることではなく、あえて言うのなら自分自身への、せつじつさだったのかもしれない。でも、けっきょくのところわたしは老婆も、自分のたいせつなひとすらも殺さなかった。ソーニャを必要としないにんげんに、だれかを殺すことが、殺すと意志することが、できるんだろうか。


 9月17日(火)

 ほとんどねむらないでいたら夜が明けていたので、朝からドトールにいって日記を書いた。そのあと会社にいった。そのもっとあとで帰った。帰ったあとにはすぐにねむった。


 9月18日(水)

 朝、ついったーでアンゲロプロスのずっと未公開だった映画が公開される、ということを知って、よろこんだ。
 会社にいった。帰ってモスバーガーにいって、日記を書いたり小説を書いたりした。




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