スポンサーサイト

--.--.--(--:--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





スポンサー広告 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]

やさしさではないならば

2013.10.06(01:21)

フラミンゴの村フラミンゴの村
(2012/02/03)
澤西 祐典

商品詳細を見る

鶏が鳴く鶏が鳴く
(2013/08/23)
波多野 陸

商品詳細を見る


 注 園子温「地獄でなぜ悪い?」
   以上の物語内容の結末に言及しています。

 9月28日(土)

 お昼すぎまでねむっていてのろのろとおきてのろのろとクリーニング屋さんにいった。そのあとドトールにいってのろのろと日記を書いた。
 MOVIXで園子温「地獄でなぜ悪い?」を見た。見ているあいだはそれなりにおもしろく見ることができたけれど、あとになってふりかえってみるとだめだったところばかり思いだされてくるから、これは、あるいは園子温にかたいれをしているだけなのかもしれない。園子温にしては物語がびっくりするくらいにだめで、登場人物がまったく有機的にからみついていない。やくざの親玉が撮りたい映画(二階堂ふみを主演にした友近のための映画)とファック・ボンバーズの長谷川博己の撮りたい映画(さいこうの映画)が一致しているわけではないのに長谷川がその話にほいほいのってしまうのもちょっとよくわからないし、長谷川がそもそもさいこうの1本だけをつくりたいと言って映画をまったく撮ろうとしていないのもよくわからない(冒頭では撮ってたくせに)。この映画は映画のために死んでもいい、というファック・ボンバーズの面々がほんとうのやくざの殴りこみを映画として撮りにいってほんとうに死んでしまう、という映画なんだけれど、典型的なメタ的な映画にもかかわらずすでにあるメタ的な映画よりもあらゆる意味で、とくにラストシーンがびっくりするくらいに貧弱で、どうしていま園子温がそんなやりかたで1回しかつかえないねたをつかってしまうのか、よくわからない。作品の名前をだしただけでねたばれになってしまうからここには書かないけれど、あんな映画やこんな映画があるなかで、このラストみたいなことをやってしまうのは、わたしは、恥ずかしいことだと思う。はみがきの女の子がかわいいのがゆいいつの救いなのかもしれない。


 9月29日(日)

 朝ものすごくがんばっておきて友達と多摩動物公園にいってきた。ユキヒョウがすばらしいと思った。でもだいたいぜんぶすばらしかった。ここはもしかして山なんではないかと思った。たのしかった。そのあとはお酒を飲んだりしゃべったりだまったりをくりかえしていた。


 9月30日(月)

 会社にいった。帰りにモスバーガーにいって池澤夏樹個人編集の世界文学全集「短篇コレクションⅠ」を読んだ。とても、おもしろいと思った。こういう本を読んでいいと思うところはたんじゅんにおもしろいということ、まだ読んだことのないおもしろい作家を見つけることができること、そして、わたしがほんとうにはいったいどんな小説をおもしろいと思うのかをつきつけられる、ということだと思う。この本にはふだん読むことがあんまりない中国、韓国、アラブ系の作家の短篇がふくまれているけれど、けっきょく、わたしがほんとうにすばらしいと思ったのはカーヴァー「ささやかだけれど、役にたつこと」、コルタサル「南部高速道路」、マクラウド「冬の犬」、アトウッド「ダンシング・ガールズ」、モリスン「レシタティフ──叙唱」、カナファーニーや金達寿の小説ももちろんおもしろいけれど、けっきょくのところわたしがほんとうにおもしろいと思ってほんとうに好きだと思うのはこういう小説でしかなくて、とくに、カーヴァーをいちばんおもしろく思ったのは複雑だった。わたしはカーヴァーがすばらしいのはよく知っているしわたしがカーヴァーを好きなこともよくわかっていると思う。けれどそのいっぽうで、たとえば、ジョン・バースやドナルド・バーセルミの小説のおもしろさを理解できないそのことを、たとえば、わざわざバースやバーセルミなんか読まなくてもほかにおもしろい作家はもっともっといるよ、ということとはべつのありかたでうけいれられそうな気がした。バースやバーセルミをおもしろく読めない、ということは、たとえばマキノや増村みたいに映画にとてもくわしいひとたちに讃えられている日本映画をあんまりおもしろく思うことができないのとおなじように、すくなくともわたしにとってはじゅうぶんに傷つくことだと思っていた。けれど、あるいはそうではないかもしれないと思った。カナファーニーやオクタビオ・パスがいるなかでそれでもカーヴァーを好きでありつづけるというそのありかたもまた、わたしにとってじゅうぶんに気持ちがいいことなのかもしれなかった。


 10月1日(火)

 会社にいった。それ以外はなんにもしなかった。


 10月2日(水)

 会社にいった。それ以外はなんにもしなかった。
 

 10月3日(木)

 会社にいった。それ以外はなんにもしなかった。


 10月4日(金)

 会社にいった。それ以外はなんにもしなかった。

 
 10月5日(土)

 お昼すぎにおきて、夕方にやっとでかけて、図書館にいって、それからドトールにいってヴォネガット「猫のゆりかご」、澤西祐典「フラミンゴの村」を読んで、そのあとでモスバーガーにいって波多野陸「鶏が鳴く」を読んだ。どれももしろかったからうれしかった。
 波多野陸「鶏が鳴く」は、はじめ、おもしろくないなあ、へただなあ、「カノジョ」とカタカナで書くのはやめてほしいなあ、ということばかりずっと思っていたけれど、まんなかあたりからおもしろくなってきてずっとよかった。ドストエフスキーと言われているみたいだけれど、わたしは、これはやさしさが発露しないサリンジャーのように思った。重要なことは、やさしさというものがないままサリンジャーめいたものが描きえるのか、ということだと思う。この物語の最後で信太が感じる祝福を、わたしは孤独だと感じた。わたしはこの物語の最後で信太と健吾がわかりあえたとは思わない。信太ははじめから健吾を理解したいとはきっと思っていないだろうと思う。信太が最後に健吾に言ったことを健吾もやさしさだとはうけとっていないだろうと思う。やさしさではないならばなんなのか、その問いに答えるということが文学だとはわたしは思っていない。わたしはそれに名前をつけることはしない。それはただそこに生成されたもので、だからわたしは、そこに生成されたものを貴いと思う。




コメント
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://kizuki39.blog99.fc2.com/tb.php/1279-3e1e09f7
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。