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遠い国

2013.10.06(21:51)

わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワepi文庫)わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワepi文庫)
(2006/03)
カズオ イシグロ

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 10月6日(日)

 朝におきてお昼まえに新宿までいった。電車のなかでとてもひさしぶりにカズオ・イシグロ「わたしたちが孤児だったころ」を読んでいたけれど、とてもおもしろくてびっくりした。ここで描かれている文章はどことなく現実的な錯覚をたたえていると思う。主人公はときにいいわけがましいことを言いながら自分の体験や記憶を語っていくけれど、そこにはどこかその体験や記憶じたいがうそなのかもしれないという現実的錯覚のような感触があるように思う。それを意味的な文章にひそませるのではなく、表現的な文章にひそませるというそのことが、たとえば「フラミンゴの村」にはなくて「わたしたちが孤児だったころ」にあるものなのかもしれないと思う。けれどそれも、わたしはこの小説にはどこかおおきなうらぎりがある、という記憶をかすかに持っているがゆえのただのうがった感じかたなのかもしれない。
 新宿の南口をでたところで友達と待ちあわせをした。なに食べたいですか、と訊かれたので、さかな、と答えてお肉を食べた。東急ハンズにいって、ずっと買っていなかった手帳を買った。わたしはメガネケースが壊れていて輪ゴムでしばってずっとつかっていたけれど、それはあんまりにもあんまりだから、ようやくメガネケースを買った。2時くらいには帰って、図書館で星野智幸「俺俺」、高橋源一郎「さよならクリストファー・ロビン」を借りた。ねむかったけれど、いま帰ってねむってしまったら夜中におきてそのままもうねむらないで会社にいくことになっちゃうんだろう、と思って、ドトールにいって「俺俺」を読んだ。おもしろかった。それから日記を書いて帰った。
 友達を、わたしが好きなひとを、もしもそのひとが物理的な要因で救いをもとめているとして、そこにわたしの感情や行為が埋めこまれる場所はあるんだろうか。そしてそうやって埋めこまれたものはわたしや友達やわたしが好きなひとにとってたとえほんのわずかでもゆたかなことになりえるんだろうか。それはただのわたしの欲望としてあって、同時にやさしさとしてあって、そうであるならばそれをなしえないことはわたしのほんとうの冷徹さとしてあるんだろうと思って、しんそこ、いやんなる。救い、なんていうものはなにもない。そもそも救われるというできごとなんておこりはしない。だれもきっと、そんなことは求めていないような気だけはずっと、する。圧倒的なものなんてなにもない。わたしはたぶんだれも救わないしだれも愛さないしだれにも話しかけない。それでも、わたしはわたしの好きなひとたちだけでときどき遠くの国に逃げてしまいたいと思う。救いでも助けでもなんでもない、ただそれだけのありかたで。いってしまおうと思えば、いけるかもしれないのに。




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