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文章を書きつけるための場所

2013.10.15(00:02)

さよならクリストファー・ロビンさよならクリストファー・ロビン
(2012/04/27)
高橋 源一郎

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 10月7日(月)

 会社にいった。


 10月8日(火)

 会社にいった。いそがしかった。


 10月9日(水)

 会社にいった。いそがしかった。


 10月10日(木)

 会社にいった。いそがしかった。


 10月11日(金)

 今日は夜間待機だったから15時から会社にいった。夜間待機だからといって夜明けまでかかるわけでもないから、はやめにおきて、あんなことやこんなことをしよう、と思っていたけれど、それは思っただけでだいたいおきたころにはお昼をすぎていた。
 夜中の2時くらいに帰った。


 10月12日(土)

 ドトールにいって小説のなおしをして、モスバーガーにいって小説のなおしをした。目がちかちかした。もうわかくないんだな、死んでしまおう、と思った。夜の11時までずっとやって終わらなかったから夜中の2時まであいているロイヤルホストまでてくてく歩いていったけれど、お店のまえまでいったところでなんとなくその雰囲気に気圧されてやめて、俺はいったいなにをやっているんだろう、と思いながらグレープフルーツジュースを買って家に帰って高橋源一郎「さよならクリストファー・ロビン」を読んだ。グレープフルーツジュースは、飲んだ。


 10月13日(日)

 会社にいった。日曜日だというのに、会社に、いってしまった。課長が文藝賞のお祝いを買ってあげるよーと言ってくれたけれど、小説のなおしが…すみません…とぶつぶつ言って、昨日いったところとはちがうドトールまでいってなおしていた。終わった、と思った。


 10月14日(月)

 ボディソープとシャンプーがなくなっていてさいきん身体を水洗いばかりしていたんだけれど、現代のにんげんとしてそれはおかしいだろう、ということにとつぜん気づいて買いにいった。図書館までいって本を返して今村友紀「ジャックを殺せ、」と綿矢りさ「ひらいて」を借りてきて、ドトールにいって「ジャックを殺せ、」を読んだ。読みおわってしまった、と思ってもういっかい図書館にいって「ジャックを殺せ、」を返して鹿島田真希「冥土めぐり」、麻耶雄嵩「隻眼の少女」を借りてきた。それで、ドトールにいって日記を書いたり小説を買いたり「隻眼の少女」を読んだりしていた。
 今村友紀「ジャックを殺せ、」には物語が、というよりも、わたしが物語と呼びたいと思っているものが根本的に存在していない。たしかにミス・レイディはジャックを狙撃しブルース・ウィリスに襲われ、一般人に危害をくわえながら街を練り歩き、そしてセーフハウスでイヴリンといちゃいちゃし、そのうちに自我も世界も壊れていくけれど、そのストーリーには物語がない。世界にたいする考察も言葉もある、けれどそれらの考察も言葉も、この小説においてはいったいどこに描かれているんだろうか。よくもわるくも、文章を書くひとはどこかにそれを書きつけるための場所を持っているはずだとわたしは思う。カフカの文章は書かれるごとにその文章が実体化していくありかたでなりたっているけれど、そうであるにもかかわらず、文章を書きつけるための場所はあらかじめ存在していなければならなかったと思う。文章を書きつけるための場所は比喩であっても実体であってもかまわない。わたしが読んだかぎり、今村友紀は文章を書きつけるための場所を徹底的に拒絶、あるいは無視しているように見える。わたしはこの小説の最後の数十ページをきちんと読むことができなかった。ひとつひとつの文章を目で追い頭のなかに流しこんでいく、というごくごくふつうの作業がうまくできなかった。それは、たとえば100ページめに書かれた文章と101ページめに書かれた文章がまったくおなじものに思えたからだった。100ページめが101ページめにうつりかわる、ということ、ページの更新という現象じたいがそもそも真っ向から拒否されている。カフカの小説の終わりについて、わたしは、100ページめの次に101ページめがないというだけにすぎない、とずっとまえに書いたことがあるよう気がする。今村友紀の小説は100ページめのまえに100ページめしかないし、100ページめのうしろにも100ページめしかない、だから、これはそもそも「本」ではないんだろう。
 高橋源一郎「さよならクリストファー・ロビン」には物語しかない。ずっとまえに、だれかが、村上春樹と高橋源一郎は2作めでそれぞれの方向にわかれていった、村上春樹は物語の方向に、高橋源一郎は言葉の方向に、と書いていたのを読んだような覚えがかすかにあって、それをうけてわたしは高橋源一郎は作者自身を小説化しようとしている、村上春樹は小説を書こうとしている、というようなことを言ったかもしれない。高橋源一郎「さよならクリストファー・ロビン」に物語しかない、と言ったのは、それを呼ぶ名前をわたしは、そしておそらくはわたしたちはまだうまく持っていないからだろうと思う。この小説はおそろしくたんじゅんな書かれかたをしているけれど、そのたんじゅんさは、たとえばおおきくて混沌として世界の一部を分析的にきりとって拡大して提示している、というかたちで提示されうるたんじゅんさとはまるでちがうように思う。高橋源一郎は、おそらく、この世界の混沌のどの部分を切りとることなくたんじゅんさに還元しようとしているんだと思う。表題作で、この世界を構成する観測することすらできないほどちいさな粒子がひとつ消失したことを発見した物理学者がでてくる。彼は生物学者にそれを証明する数式を提示し、生物学者に、世界はどうなる、と訊ねられ、その粒子ぶんすべてのものが縮尺どおりに縮む、という。生物学者はそれにたいして、だからなんだ、それがいったいわれわれとどんな関係がある、と言い、物理学者は、意味、関係、そんなものは考えたことがなかったよ、と言う。高橋源一郎の小説はそんなふうにいままでの縮尺どおりにちぢんだ世界のありかただ、と言うのはかんたんだけれど、それを言ったところでなにがどうなるんだろう、ともわたしは思う。この小説の意味もわたしは問わない。意味、というものはものごとがきりとられた断面のかたちのことで、わたしたちのそもそものまちがいはそれをきりとってしまうことであるかもしれないから。




コメント
お久しぶりです。
かなり前にこちらに書き込みをしていたものですが、先日河出のHPを見て、ひどく驚きました。友人も文藝賞に応募していたので、こまめにチェックしていたのです。

高橋源一郎の中央大学の講演会の時、桜井さんは高橋源一郎にサインをもらって、そのことにひどくショックを受けておられましたが、今度対談をするみたいで、しかもサイン会もあって、そっち側に行ったのですね。受け取る側から発信する側に。本当にすごいことだと思います。
高橋源一郎が、吉本隆明のために、小説を書いて、それが本当に吉本隆明に認められたように、
なんだが、このブログも高橋源一郎が何度も何度も出てきて、それが形になって、なんだか物語みたいじゃないですか。

文藝がどこの本屋にも置いていないのでまだ読めていないのですが、楽しみにしております。

おめでとうございます。
【2013/10/19 01:46】 | ぴかそ #- | [edit]
ぴかそさん

おひさしぶりです。
ようやっと というところです。
僕は あの小説を 高橋源一郎ならみとめてくれる と
思って書きました。
おおくのひとに批難されようと 高橋源一郎だけは と。
だから それもまた ひとつの物語 なんですけれど
けっきょくのところ 必然的なこと なんです。
だって そういうふうなものを 書いたわけなんですから。
それにしても けっきょくはこれからの話です。
これからの。

けれど 「そっち側」も「こっち側」も僕にはないように
思います。
「そっち側」も僕が考えていたところとはあたりまえに
ちがって とくべつなものがありえるということも
きっとおそらくはなくて ないんでしょうね。

どうもありがとうございます。


【2013/10/21 00:22】 | 桜井晴也 #- | [edit]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
【2013/10/29 02:56】 | # | [edit]
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