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わたしたちが語ることについてわたしたちが語ること

2013.10.21(01:08)

隻眼の少女 (文春文庫)隻眼の少女 (文春文庫)
(2013/03/08)
麻耶 雄嵩

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冥土めぐり冥土めぐり
(2012/07/07)
鹿島田 真希

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 注 カズオ・イシグロ「わたしたちが孤児だったころ」
   麻耶雄嵩「隻眼の少女」
   新房昭之監督「魔法少女まどか☆マギカ」   
   以上の物語内容の結末に言及しています。


 10月15日(火)

 会社にいった。


 10月16日(水)

 台風だった。風がつよかったけれど、とくにどうということはなかった。 
 会社にいった。
 帰った。河出書房新社までいって「ダ・ヴィンチ」のインタビューをうけた。もう死のう、と思った。
 


 10月17日(木)

 会社にいった。


 10月18日(金)

 会社にいった。


 10月19日(土)

 おきたら20時をすぎていてびっくりした。ほんとうにびっくりした。
 しかたなくラーメンを食べにいってラーメンを食べて、家に帰って、カズオ・イシグロ「わたしたちが孤児だったころ」をずっと読んでいた。
 カズオ・イシグロ「わたしたちが孤児だったころ」の語り手は信用できない。彼がこうだったと語る彼のおさないころの話は、彼ではないにんげんが語る彼のおさないころについての話と矛盾し、そのことについて語り手は彼以外のにんげんにたいして彼以外のにんげんがそう語ってしまう解釈をひとつひとつ生みだしていく。その不気味さこそがおそらくこの小説のひとつのおおきな達成だと、わたしは思う。語り手のクリストファー・バンクスはおさないころに両親が失踪し、それをきっかけとして探偵となることを夢見る。そして、彼は実際に探偵になり、ロンドンの社交界で急激に名声を獲得していく。そして、彼はおさないころに住んでいて、両親の失踪を機にはなれることになった上海にまいもどり、失踪した両親を探しだそうと調査にかかる。ここで彼が狂気的なのは、彼がおさないころに両親が監禁されているだろう家を探しだそうとしていることだ。実際に彼はその家をつきとめることに成功するけれど、そこにはもうだれもいない。あたりまえだ。何十年もたって両親がおなじところに監禁されているはずはない。けれど、バンクスはそれでもなお、そこに両親が監禁され、その家には誘拐犯がたてこもっているということを信じきってその家にのりこもうとしている。この小説のすばらしさの根底をなしているのはその倒錯だと思う。彼、あるいは、彼をとりまく世界のすべてが、じつのところその倒錯を肯定している。上海のイギリス大使館は両親が解放されたあかつきには記念式典を催そうとしているし、同時に、バンクスが上海にのりこんできたことが当時の戦争、第2次世界大戦時の混乱のおおくにたいしての解決だということをほのめかしている。問題になるのはこの齟齬であって、彼らはバンクスが上海でなにをなそうとしているのかを明示しないし、同時に、バンクス自身が過去にあつかった難事件にたいしてそこでなにをどうしたのかはいっさい言及されない。おおきな範囲で言えば、この小説では語り手が語るどのことがらも信用できない。語り手がけっきょくのところ解放しようとしている両親は彼のおさないころの輝かしい思い出のなかにいる両親であって、それ以外ではない。同時に、そのこと自体を肯定しようとしている彼が語る彼以外の世界についても、けっきょくのところ彼の幻想でしかない。彼は探偵化された探偵でしかなく、そしてこの物語は端的にいって探偵化された探偵を非探偵化する過程としてあるんだろう。そして、彼が探偵化される、あるいは、彼自身が彼を探偵化していくことのうらには、その探偵としての世界をおさないころに体験した輝かしい世界と同一化させたいという思いがあるからだ。探偵、というのはひとつの夢の世界、押井守「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」や小川勝己「眩暈を愛して夢を見よ」、さいきんでいえば「魔法少女まどか☆マギカ」とおなじ意味での夢の世界、としてここでは提示されている。
「魔法少女まどか☆マギカ」について、わたしはさいきんずっと、あれは、まどかの夢がかなった世界ではなく、ほむらの夢がかなった世界なんじゃないか、と考えている。まどかが本来願った魔法少女としての世界はほむらのリセットによって(即時的には)ないことにされ、そして、最終的にはほむらのリセットのくりかえしの反動によって、魔法少女的世界のすべてがリセットされる。ほむらはそのなかでまどかにとってほとんど唯一の特別さとなる。まどかを覚えているのはほむらだけだからだ。ほむらがやっているのはまどかを友達化しているだけで、それはむしろ、友情というよりも欲望だと思う。まどかは「ほむらちゃんはわたしのいちばん友達だったんだね」とむじゃきに言うけれど、そのむじゃきさは、セカイ系として見ればありだと思うけれど、わたしは通常の意味では、ありえないと思う。
 カズオ・イシグロはバンクスを夢の世界から脱出させる。けれどそれは、端的にいって、探偵の無効化によってだと思う。探偵というもの、あるいは、バンクスが夢見た探偵というありかたにはけっきょくなんの価値もなかった、おまえが思っていた世界はこうであるというものはすべてまちがっていた、というかたちでありえていて、その夢への反動としてあるのはけっきょく、サラが収容所で健康を壊して死んだ、とか、ジェニファーが自殺未遂(?)した、とか、あるいはアキラがうらぎりをはかった、とか、両親は失踪したんじゃなくてとくに父親は愛人と逃げただけだ、という、つめたくて残酷な現実だけだ。この小説の最後でバンクスは、けれど、夢の世界をいまだ追いもとめている。と同時に、彼にはもうなにもすることができない。ただジェニファーのそばにいようと思うことしか、彼にはもうなにもできない。彼はもう探偵ではありえないということを知っているからだ。
 麻耶雄嵩「隻眼の少女」は、カズオ・イシグロとくらべればもちろんぜんぜんおもしろくない。というのは、文章があいかわらずとてもへたくそだというのもあるし、同時に、わたしが血縁ということの関係性にまったく興味を持っていないということもあるだろうと思う。けれどこの小説がそれでも興味ぶかいのは、探偵を探偵化しようとするならば究極的には殺人者に、犯人になるしかない、という逆説があざやかに提示されているからだと思う。隻眼の探偵役のみかげは母親も隻眼の探偵であって、たまたままきこまれた殺人事件によって母の名を継ごうと事件解決にのりだす。彼女の推理ははずれて次の犠牲者がでてしまい、それにまきこまれて父親も死んでしまう。彼女は主人公の励ましもあってたちなおり、事件の真犯人を見つけるが、真犯人は自殺、彼女もまた主人公のまえから姿を消してしまう。十数年後、主人公はかつてみかげとともに殺人事件を解決した村にまいもどり、そこでみかげの娘のみかげ(2代め)と出会う。村ではかつてみかげが解決した事件とまったくおなじ事件がおきている。みかげ(2代め)は主人公といっしょに事件にのりだす。過去の事件、および現在おきている事件の犯人はけっきょくはかつての探偵役のみかげであって、彼女は父親を殺すため、また、自身が探偵として華々しいデビューを果たすために無関係なひとを殺し、その事件を自分で解決するふりをしていただけだった。ここでの問題は循環構造で、みかげ(2代め)は十数年まえのみかげがおこした殺人事件を解決したけれど、それもまちがっているかもしれない。犯人はけっきょくのところみかげ(2代め)かもしれないし、そのうちにみかげ(3代め)があらわれてみかげ(2代め)の推理をくつがえすかもしれない。探偵、あるいは探偵小説という夢の世界を構築するために、夢の世界のなかで解決されるはずの殺人事件を夢の世界への導入として用意しているところにこの小説の皮肉さがあると思う。けっきょくのところ、これはたとえば「名探偵コナン」にたいしての皮肉でもあって、「コナン」の世界は次から次へと殺人事件がおきる夢の世界としてあるだろう。おそらく、いま「コナン」であるべき姿というのは、コナンと新一がじつは別人で、一連の事件はすべて新一がしくんだもの、というありかただと思う。探偵は探偵が夢だということを知っている。探偵は夢のためにひとを殺す。けれど、そこにある悲哀とそこから派生する美しさは、いったいなんなんだろう。 


 10月20日(日)

 9時に目覚ましをかけたはずなのに、おきたら15時だった。6時間のねぼうだった。がっかりした。雨が降っていたけれど、雨はただ降っているだけのことで、だから、わたしはでかけた。髪をきりにいって、じゅんばんを待っているあいだずっと、鹿島田真希「冥土めぐり」を読んでいた。中学校の校長先生から電話があって、いったいどこでどうやって文藝賞のことを知ったんだろう、と不思議だった。
 鹿島田真希「冥土めぐり」がおもしろいかと言われればおもしろいけれど、おもしろくないかと言われればおもしろくもないような気がする。「冥土めぐり」よりも「99の接吻」のほうがおもしろいと思ってしまうところがなんとなくわたしのだめなところだろうという気がする。でもそれはいったいどういうことなんだろう。鹿島田真希が描く、かなしみ、とか、あわれさ、とか、かわいそう、とか、そういうことはたんじゅんな深度として、おそろしく深いところに存在してしまう。それは、たとえば「この小説には深い意味がある」というくだらない言説とはまったくべつのありかたとしてあって、ただ、物理的にとても深い。だから、わたしにはそれはふれえない。ふれえないのにもかかわらず、ふれえた、という感触がのこる。実存と感触の差違、その遠さだけが、そのかなしみ、そのあわれさからわたしをへだてていく。そういうことを描ける作家は、けれどほとんどいない。
 モスバーガーにいって、文藝賞の授賞式でなにを言うかを書いて、次にインタビューをうけたときになにを答えるか、ということをひたすら書いていた。なにをやっているんだろう。けっきょくのところ、わたしはなにかを書くということはできるかもしれないけれど、わたしについてのなにかを語るとか、わたしの書いたものについてのなにかを語るとか、そういうことについては、まったく欲求がないんだろう。なにも思えない。




コメント
ずい分遅れてしまいましたが、文藝賞受賞おめでとうございます。
今度は丸山健二賞にチャレンジして下さい(笑い)。丸山健二賞は賞金ナシ、受賞パーティーもナシ、出版だけは約束する、だそうです。一つ気がかりなのは動画を見る限りでは著作権の問題がやや不明確に感じられる点です。
それはともかく、丸山作品も平成に入った頃から、信用できない語り手を多用する傾向にあります。「白と黒の十三話」なんか、それが顕著ですね。
【2013/10/25 16:45】 | ぐっしい #- | [edit]
ぐっしいさん

ありがとうございます。
丸山健二賞には もちろんチャレンジしません。
丸山健二は短い作品をひとつだけしか読んでいないので
僕はよく知りません。
日本のいまの文学がだめだとも ぜんぜん思ってはいないんです。
【2013/10/27 01:35】 | 桜井晴也 #- | [edit]
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