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感情に名前をつけるそのやりかた

2013.10.27(01:12)

きみとぼくの壊れた世界 (講談社ノベルス)きみとぼくの壊れた世界 (講談社ノベルス)
(2003/11/08)
西尾 維新

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 注 西尾維新「きみとぼくの壊れた世界」
   新房昭之監督「魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語」 
   押井守監督「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」
   時田貴司(スクウェア)「LIVE A LIVE」  
   以上の物語内容の結末に言及しています。

 10月21日(月)

 西尾維新「きみとぼくの壊れた世界」を読んでいたせいで、ねむらずに会社にいった。もうにんげんとして、ほんとうそういうのはよくないな、と思った。
 西尾維新「きみとぼくの壊れた世界」がすばらしいのは、外面的、あるいは世界的にはだれもふしあわせではない、ということだと思う。琴原はたとえ事故だとしてもひとを殺すことに加担してしまい、その結果、わたしはひとに殺されるのがこわい、と言う。ひとを殺してしまったことですくなくとも琴原の日常は変質したにもかかわらず、外面(世界)はまったく平穏がたもたれたままに進んでしまう。わたしたちがきっとこわいと思うのは進んでしまう、というひとつの事実であって、病院坂の言う「世界と自分が関係していないことの恐怖」ということも、わたしはこのことだと思う。様刻は「その場その場で最善の選択をしていく」という信条にのっとり行動をしていくけれど、その結果として夜月の関係は壊れていく。そして、病院坂を好きだと言い、殺人を犯した琴原に対価をしはらうため琴原とつきあうことを選択する。もちろん、様刻の選択は絶対的にただしい。様刻の選択によって、だれも傷つかず、だれもそこなわれていない。様刻ですら、自分がただしい選択をした、というそのただしさによって救われている。けれど、あきらかにその「ただしさ」はまちがっている。おそらくそもそもの問題は、そこでおこりつつあるできごと、あるいはそのとき様刻がおこなう選択にたいして、ただしい、とか、まちがっている、とか、そういう判断をくだしていくことだと思う。様刻がおこなう判断は様刻が言うようにおそらくすべてただしい、ひとつもまちがっていない。わたしは、まちがえたほうがよかった、と言いたいのではなく、問題は、そこで、ただしい、とか、まちがった、という判断を適用してしまうことだと思う。ただしい、ということに、わたしは価値はないと思う。
「LIVE A LIVE」というゲームの中世編について、わたしは、オルステッドは自分を救うべきだったと思う。オルステッドは魔王にとらわれた姫を助けにいく。親友(だったはずの)ストレイボウはオルステッドに嫉妬し彼を殺そうとし、姫(だったはずの)アリシアはストレイボウの死に絶望し自殺してしまう。オルステッドは魔王なんてそもそも存在すらしていなかったことを知り、すべてのにんげんにうらぎられたことににくしみを増大させてみずからが魔王になってしまう。オルステッドの行動は外面的、あるいは世界的にただしい。オルステッドは勇者として魔王(にせものだったけれど)にさらわれた姫を助けにいかなくてはいけなかったし、そのためには、親友の魔法つかいをパーティメンバーとして活用しなくてはいけなかった。そもそもの問題はオルステッドが行動指針を外面的、世界的要因に従っていることで、ほんとうは、彼が問題にしなければいけなかったのは個人としての親友であり、個人としての姫だった。彼は勇者である以上世界についての問題は解決できる、けれど、彼個人、あるいは彼のまわりの個人についての問題はなにひとつ解決できなかった。その彼の弱さは彼が勇者であるという問題、あるいは、これが「ゲーム」であるという問題に密接にからみあっていると思う。オルステッドはなにもわるくない、という意見はおおい。けれど、オルステッドはすくなくとも作品中、嫉妬を増大させてオルステッドを殺そうとしたストレイボウに気づかいの言葉をひとつたりともかけていない。それはたしかに「ゲーム」としての問題ではあるけれど、同時に、「現実」の問題だ。
 様刻はオルステッドとちがい、「ゲーム」としての問題からは基本的に解決されている。わたしが問題だと思うのは、「ゲーム」としての問題から解放されてなお、様刻がオルステッドとおなじ行動をしたということだ。様刻は破片をひろいあげた。様刻はただ様刻の世界で魔王になっただけだ。


 10月22日(火)

 会社にいった。


 10月23日(水)

 会社を休んで、文藝賞の贈呈式にいった。山の上ホテルにいって、取材の練習をした。それから取材をうけた。控え室で待っていたら選考委員の方々が到着されました、と言われたので挨拶をしにいった。星野智幸さんがいて、角田光代さんがいて、山田詠美さんがいて、高橋源一郎さんがいた。でもあるいはもしかしたらにせものかもしれないと思った。特性の皮をかぶったいきもので、「は、は、は、だまされたな!」と言って皮がめりめりやぶけてなかからとかげがでてくるのかもしれないと思って、そのときどういう反応をしたらいいのだろうかとずっと考えていた。「うわー、だまされたー!」と言えばいいんだろうか、と考えていた。でもいつまでたってもとかげはでてこなかったのでそれはまちがいなく本人らしかった。というよりも、考えるまでもなく本人だった。ありがとうございます、とか、はじめまして、とかもごもご言って、あとはほとんどずっと黙っていた。時間になると会場までいっていろいろなものをもらって、いろいろなひとにあいさつをした。はじめまして、ありがとうございます、ともごもご言った。メロンを食べた。あとはほたてのお寿司をひとつ食べた。2次会にいって、また、はじめまして、ありがとうございます、ともごもご言って、枝豆をひとつ食べた。またべつの2次会にいって、また、はじめまして、ありがとうございます、ともごもご言って、パンをもしゃもしゃ食べた。致命的なコミュニケーション能力のなさ、と思った。今村友紀さんが日本酒をくれると言い、高橋源一郎さんと中森明夫さんがわたしのことをぶっつぶすと言っていた。過激派、と思った。帰った。
 選考委員のひとたちは、みんな、わたしが書いた「世界泥棒」という小説について、わからない、というようなことを言っていた。わたしは、小説を読んでわかったと思えたことがいっかいもなくて、どんな小説を読んでもなにもわからないと思ってきた。小説だけでなく、どんなものにたいしても。村上春樹を読んでも綿矢りさを読んでもゴダールを見てもアンゲロプロスを見てもカネフスキーを見てもなにもわからなかった。だからわたしはいままでほんとうの意味でなにかを読んだことはないのかもしれないし、ほんとうの意味でなにかを見たことはないのかもしれない。わたしはだれかと話したこともないし、なにかを生きたということもないのかもしれない。生きる意味とか、あるいは小説を書く意味、ということすらわたしは知らない。わたしが村上春樹を読んだりアンゲロプロスを見て思ったこと書いたことはつまり、村上春樹ともアンゲロプロスとも関係ないのかもしれない。問題はむしろわたしたちがその無関係性のなかでさえもなにかを語れてしまうということだと思う。それは本来的に語りえないものだ。だって、わたしたちにはなんの関係もないんだから。必要性、とか、意味、とかではかれるようなものですらない。わたしたちはそのありかたを無自覚であったとしてもつづけてしまっていて、ただそれだけがつづいていくしかないんだから。


 10月24日(木)

 会社にいった。


 10月25日(金)

 会社にいった。


 10月26日(土)

 ちかくの映画館まで「魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語」を見にいった。空をヘリコプターがばらばらと転回していて、路上にまでにんげんたちがあふれだしていた。「魔法少女まどか☆マギカ」とはこんなに人気があったのか、と戦慄したけれど、ただちかくでツール・ド・フランスをやっていただけだった。
 エクセシオールカフェで日記を書いて、小説を書いて、それから「魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語」を見た。わたしは、とてもおもしろかったと思う。「まどか☆マギカ」の風景が美しいのはひとがいないからだ、ということをたしかわたしはまえの作品を見たときにも言っていて、それは、なんだかとても洗練されていたような気がした。わたしはこういうものを見ても、どうしても、「少女革命ウテナ」だよ、シュヴァンクマイエルだよ、「lain」だよ、ヘンリー・ダーガーだよ、ということしか言えなくてはがゆいんだけれど、メルヘンは不気味さとともにある、というふつうのことがこれ以上ないような微細な齟齬を持ってでてきているように思う。それは、たとえばワワフラミンゴの作品がわたしたちが夢見たひとつの世界でありかたであるかもしれないのとおなじように、「まどか☆マギカ」の世界もわたしたちが夢見た世界のひとつのありかたかもしれなかった。
「まどか☆マギカ」のループ願望、というのはいったいなんなんだろうか。「[新編]」のはじまりかたは「[前編]」のはじまりかたとほとんどひとしく、転校生としてほむらがやってくる。ほむらは気のよわいときのかっこうとして、佐倉杏子や美樹さやかをふくみ5人でナイトメアと呼ばれるものと戦っている。美樹さやかとまどかが存在しているはずがなく、わたしたちはここで、この世界はいったいどういう世界だ、という解答を留保されたまま物語は進んでいく。それ以降は基本的に押井守「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」とおなじような展開をとって、この世界が夢(的な世界)であること、そして、それを構築している犯人はだれだ、ということを軸に展開されていく。わたしは、すこしまえに「まどか☆マギカ」の世界はまどかの願いがかなった世界ではなくほむらの願いがかなった世界だ、ということを言ったけれど、ほむらは「[新編]」のなかでよりよいかたちで願いをとげようとする。ほむらはまどかに叛逆をする。ほむらは全的な存在となったまどかからまどかとしての部分だけをとりもどし、そしてほむらの世界を再構築し、まどかににせの記憶をうえつけて彼女の学校に転校させてくる。そのやりかたを許すことができない美樹さやかの記憶すらも書きかえて。この構造はおそらくは西尾維新「きみとぼくの壊れた世界」とおなじありかたをしていて、様刻がやったこともけっきょくは琴原の記憶の書きかえであったのかもしれない。ほむらはほむらのやったことについて、愛だと言った。けれど、それは感情に名前をつけるそのやりかたの問題にすぎなくて、愛と言っても、欲望と言っても変わらないような気がする。世界の書きかえ合戦のようなかたちをなしてきた「まどか☆マギカ」はもう、世界の書きかえにたいしてわたしたちはなにをどう思えるだろうか、というところを問題にするしかないように思う。そして、「serial experiments lain」が問題にしたのは、けっきょくはそれだけだったような気が、いまはする。




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