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鳥公園「カンロ」@三鷹市芸術文化センター

2013.10.27(23:17)

さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)
(1997/04/10)
高橋 源一郎

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 10月27日(日)

 おきて、図書館にいって高橋源一郎「恋する原発」を借りてきて、それから、とてもひさしぶりに「さようなら、ギャングたち」を読みながら電車にのった。「さようなら、ギャングたち」という小説は、いやおうなく、これはいったいなんの比喩で、これはなにについて語っているんだろう、ということを考えさせるけれど、わたしは、そういう読みかたをしたくないと思っていた。ちょっとまえに「さよならクリストファー・ロビン」を読んだときに、わたしは、意味というものはものごとをきりとったときの断面にすぎなくて、そもそもものごとをきりとってしまうことがまちがいなのかもしれない、と書いていて、たとえば、なにかの比喩を読みとくいとぐちが見つかって、それをたぐりよせていくとこの物語の意味がすべて解決してしまう、という経験をすくなくともわたしはしたことがない。そこに書かれたことのいとぐちから作品全体の意味を読みとっていく、という作業は、たとえば探偵が複雑な殺人事件を解決しようとしていくやりかたとおなじように思えて、もしもそれを文学的読解と呼ぶのであれば、文学は推理小説じゃないか、ということをむかし思っていたことがあった。だったら、推理小説は文学じゃないか、と思いもして、それは、ほんとうにはそういうことなのかもしれないけれど。
 どんなものごともきりとっていかない、ということをわたしはずっと思っていて、そこに書かれたものを総体としてとらえて総体としてぐっと近づいていきたいな、ということもそのつらなりとして思っていて、でも、わたしはそれについてはなにをどうしたらいいのかよくわからない。今回、「さようなら、ギャングたち」を読んで思ったのは、これはゴダールだな、ということだった。


 「最低って、最低ってことなのね」

 
 ゴダールの言葉には意味というものがはりついていない。それは、ゴダールがその場、あるいはその時間のなかでひとがしゃべるだろうという慣性にのっとったやりかたで言葉をつかっていない、つまり、物語的に言葉をつかっているんじゃなくて、現実的に言葉をつかっている、ということになるんだろうけれど、おなじように、S・Bはおそらくこのとき、なにも意味のあることは言えてはいないように思う。問題は、最低、という言葉が最低さをあらわしているという総体的な事実であって、つまり、ふだん、わたしも、あるいはわたしではない文章を書いているひとのおおくも、最低、という言葉が最低さをあらわしているという総体的事実を忘却したかたちで文章を書いている。だから、わたしたちの書いていることがなんにも関係しない、ということもへいきでおこってしまう。でもそのおそろしさ、というよりも、だれもが、自分が書いている文章が文章ではないかもしれないという可能性に気づかないで書いていると思う。けれど、それは、言いつのってもしかたのない問題だとも思う。
 三鷹市芸術文化センターで鳥公園「カンロ」を見た。たぶん、今年見た演劇ではいちばんおもしろかったと思う。わたしがいちばんびっくりしたのは、この演劇ではそもそも言葉がだれに向けて発されているのか、ということをうまくつかめなかったことだと思う。ふたりの俳優がいて、テーブルに座って、おたがいにしゃべっている。ふたりのあいだではふつうに対話が成立していて、それらはまちがいなくおたがいに向けて話されているんだろうけれど、それでもなお、なんだか、わたしはその対話がふたりのあいだで話されていることとはまたべつの位相で話されているように思えた。これは、そのせりふが劇場空間、あるいは観客に向かって開かれているんだ、という話ではなくて、そもそも、せりふというもののでどころの話だと思う。たとえば、とくに確信があるわけではないけれど、たいていの小説の会話文は地の文よりも相対的によわいとわたしは思う。それは、小説を書いていくうえで、おもしろい文章を書こうという意識の達成水準がたぶん会話文のほうが地の文よりも無自覚的に低く線引きされてしまうからで、それは、会話というものが小説、あるいは物語のなかで自然発生的に生まれてしまうからというだけの理由によっていると思う。1文1文それ自体をおもしろいというありかたによって小説を書いていく、ということは小説において基本的にはふつうに要請されるもので、けれど、そのいっぽうでその要請が意識される場所、というものはたぶんずいぶん高い。物語とわたしたちが呼んでいるものが、物語の展開の説明、あるいは登場人物の人物設定への表現によってその要請を無効化するからだ。だから、そもそも1文1文をおもしろく書け、ということはほとんどどこの場所でも言われていない。基本的なことだ、という認識すらない。だから、印象的なせりふ、というものがだいたいどの小説の最後のほうにはあるものだけれど、そもそも、それが印象的になるのは、その小説がいままで積みあげてきた地の文、会話文、物語、そしてその小説をいままでずっと読んできたというわたしたちの現実の時間、そのものかもしれなくて、そのとき、すでにそれはせりふではないのかもしれない。
 そもそも、わたしが問題にしたいのは、どうして小説には、あるいは演劇には会話文というものがでてくるんだろうか、ということなんだろうと思う。詩やダンスには会話というものはでてこないのに。わたしはこのまえ「世界泥棒」という、会話文が長い小説を書いて、会話を書きたかった、ということをだれかに訊かれるたびに言ったように思うけれど、ほんとうは、あの会話文は会話文じゃなくて地の文だったんだと思う。ゴダールが、「気狂いピエロ」について、この映画には血がたくさんでてきますが、と言われ、あれは血じゃない、赤なんだ、と答えたのと、おそらくはおなじありかたで。だから、きっとほんとうにはあの小説には会話文と呼ばれるようなものは1行たりともないのかもしれない。それで、たぶん、鳥公園「カンロ」のせりふ、あるいはせりふを発するそのありかたは、せりふ、とわたしたちが呼んでいるものがそもそも演劇に必要なのか、という問いかけを1度経由して書かれたもの、あるいは発されることを要請されたもののように思える。そして、そういうかたちでせりふをしゃべろうとしている演劇空間をつくろうとしているひとは、わたしの知るかぎり、ほとんどいない。


 私は劇場へ行って、作品を観て、「みんな」が楽しんでいるようなのに自分は作品に全然そぐえず、冷たい心でいて、劇場の外にひとりでいるより孤独だ、と感じることがたまにあります。そういう思いをする人のいない作品にしようと思います。


 西尾佳織は今回の公演に向けてそう発言している。それは、たとえばできるだけひろい範囲の観客にうけいれられるようなかたちで作品をつくる、ということとはたぶんぜんぜんちがっていると思う。観客にとどく、とか、観客にとどかない、というような価値の発現のしかたを根底から無効化するようなちから、みたいなものがこの演劇にはきっとはたらいていて、けれど、わたしにはもうこれ以上はなにもわからない。




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