スポンサーサイト

--.--.--(--:--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





スポンサー広告 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]

まなざしのふりをした接近としての暴力

2013.10.30(23:44)

女の一生 (新潮文庫)女の一生 (新潮文庫)
(1951/02/22)
モーパッサン

商品詳細を見る

 10月28日(月)

 会社にいった。
 モスバーガーにいって小説を書いた。


 10月29日(火)

 会社にいった。
 家に帰って小説を書いた。
 石原千秋の文芸時評(11月号)「はちゃめちゃ系の功罪」で、いやだな、とわたしが思ったのは、小説というものがそのひとのなかだけで読まれてしまうことだった。たとえば、名前をつける、という行為には不安定さ、わからなさを解消しようという意志がふくまれているように思う。けれど、問題はわたしたちがそれに名前をつけ、それにレッテルをはりつけてしまうことじたいにあるのかもしれなくて、だからわたしはそれに名前をつけたくはないと思う。それに名前をつけ、それはこうだからこうだと思う、という現象はふつうにおきていて、わたしたちはそれを、理解する、と呼んだりしている。でも、その過程においてはすくなくともだれもなにも考えていない。ずっと書いていることだけれど、重要なことは理解することではなくてわからないということで、ものを考える、ということは、「あるものがある状態にある、そしてその現象はいったいどういうことなのか」ということを考えるということで、だから、重要なのは「あるものがある状態にある」ということそのことじたいに向けるまなざしのありかただ。「世界泥棒」という小説で、あやという女の子は、かなしみをかなしみぬきたいと言い、百瀬くんにたいして、百瀬くんのやっていることはわたしの気持ちや考えかたを勝手にひとりで決めつけてそれを批難しているだけだよ、それは百瀬くんが考えたわたしで、わたしじゃない、と言った。わたしは、あやが問題にしたのはけっきょくのところそれだけだったんだろうと思う。それはたぶん、自分を理解されたい、という欲求とはちがっていて、まなざしのふりをした接近としての暴力にたいしてのとまどいや不安だったんだろうと思う。石原千秋は「柊くんが夕暮れを食べて嘔吐していた」という文章を「クサイ文章」と言って批判しているけれど、わたしはそもそもわざとつよく感傷的な文章を書いているわけで、だから、そうではなくて、「クサイ文章」というものがとくに現代文学においてなぜだめなのか、ということから考えていかないと、それはなにかを考えたことにならないと思う。


 彼女が水の冷たさを味わっていると、夫がその胴に手をまわして、樋のくちの妻の場所を奪おうとした。彼女はそうさすまいとした。唇と唇が闘い、ふれあい、たがいに押しのけあった。闘いのそのときどきの運で、二人はかわるがわる樋の細い端をとらえては、離すまいと口にくわえた。冷たい水の糸は、たえずとらえられたり、また離されたりするものだから、とぎれたり、また結びあわされたりして、二人の顔や、頸筋や、着物や、手にしぶきを飛ばした。真珠のような水滴が二人の髪のなかで光っていた。接吻が水のなかを流れた。
             ――モーパッサン「女の一生」


 いまいくよ、ちょっと待ってくれ、と柊くんが言って、それからわたしの顔面を見つめた。いかないほうがいいよ、と言おうかどうかまよって、けっきょく、わたしは転回できないままうしろ足とまえ足を交互にうしろにずらして机のしたからぬけだしただけだった。膝は黒ずんでいたし、手のひらやスカートにまるまったほこりがついていた。わたしの黒ずみの近くで、柊くんが夕暮れを食べて嘔吐していた。



(たまたまえらんだだけの)モーパッサンの「女の一生」と「世界泥棒」のこの文章は、いっていの描写があり、文末に意味から解放された、文章全体にたいしての象徴的な1文をおいている、というかたちでは、おなじ書かれかたをしている。考えるべきなのは、近代文学ではありえたはずの「文学的」な表現がなぜ現代文学ではだめになるということがおこりえるのか、そして、それははたして時間経過の問題なんだろうか、あるいは、文学化されたものが非文学化された領域のなかで書きこまれたとき、1度文学化されたものは再度非文学化されうるのか、そしてそれがおこりえるとき、1度の文学化を経由したという形跡によって非文学化されたかつての文学は非文学としてなんらかの価値を持ちえるだろうか、それは、和解の問題だろうか、ということがそもそも考えられるべきで、「クサイ文章」それじたいはだめではなくて、だめなのは「『クサイ文章』がこういうありかたをしている、というとくていの状態」がだめなだけなんだと思う。舞城王太郎がすぐれているのは、たんじゅんな意味では、文学としては書かないことが常識となっているものをぜんぶ書いているからで、そうであるならば、なぜ、舞城王太郎はそれを書いているにもかかわらず文学として存在することができているのか、ということから考えていかないと、ほんとうにもう、現代(の文学)ではどうにもならない。文章はその問いから要請されるとともにその問いそれじたいへの消極的な表現でありえているはずだ、というくらいには、わたしはすくなくともわたしも現代の作家たちも信頼している。物語をもふくめた小説の全体はその問い、あるいはありかたを、そのまま、問い、あるいはありかたとしてぎりぎりにとどめておくためにこのかたちでしかなされえない、という不安定な必然にもとづいて書かれているわけで、それを考えたうえで、そもそもその考えかたも書きかたもだめだ、と言われるのならばわたしにもなにかを思えるかもしれないけれど、それをぜんぶ無視して、あるいは存在することすらも意識できずに、「『クサイ』文章」だからだめだ、とか、「『ハチャメチャ系』にはもう飽きた」なんて端的に言ってしまうのはあんまりにも幼稚で、「選考委員向けにとにかく奇をてらって目立てばいいという印象を持った。『はちゃめちゃな設定』にさえしておけば『可能性がある』とか、『未知数だが期待したい』みたいな評価を受けられそうだという計算が見え見えなようで、興ざめである」という言いかたにいたっては侮辱でしかない。ほんとうにくだらないと思う。


 10月30日(水)

 会社にいった。
 モスバーガーにいって小説を書いた。




コメント
「ないもの」についてはあんまり、考えない?
【2013/10/31 00:01】 | tamotsu #- | [edit]
お久しぶりです!覚えておいででしょうか..

まずは、文藝賞受賞おめでとうございます!!
作家デビューされても、今までどおりにこちらのブログを更新されていて、なんだかうれしいです^^

桜井さんのブログは、以前のブログの頃から拝読していましたが、ある時期からブログの文体を大きく変えられましたよね。
文体を模索されていたというか。
その当時は、読んでいてとてもびっくりしました(正直なところ、ついていけない...とさえ思いました)が、あの頃から着々と執筆活動の準備をされていたのですね^^

受賞作の『世界泥棒』も、現在のブログのような、改行が少なくて、平仮名遣いが独特で、書き手のジェンダーがあいまいな感じの文体なのかな、といろいろ想像しています^^
単行本の書影が、もう出ていましたね♪
手に取るのが、今から楽しみです^^

桜井さんの作家活動を応援していますね!
【2013/10/31 02:00】 | みか #J8sWLEBQ | [edit]
>「柊くんが夕暮れを食べて嘔吐していた」といったクサイ文章に「すっかりやられ」(山田詠美)た選考委員がいたのには呆(あき)れた。

これは桜井晴也さんを批判しているわけではなく、クサイ文章に「やられ」てしまう山田詠美さんを批判しているのでは? と思いました。

川上未映子「ミス・アイスサンドイッチ」の「『ライ麦畑でつかまえて』の文体」と言いつつも、褒めているところを見るに、石原さんは、たとえその小説が誰々の文体と似ていても、クッサクサな文章であっても、それが小説として成功していれば、評価を与える人なのではないでしょうか。にも関わらず、今回の桜井さんの作品が批判されたのは、(石原さんから見て)そこに書かれているクサイ文章が小説的に成功しているとは思えなかったから、ではないかと思いました。

桜井さんの反応は、過剰すぎるのでは、とも思いました。
【2013/11/03 09:54】 | てんてん #1jxB54a6 | [edit]
tamotsuさんへ

「ないもの」はないです。
「ないもの」について考えたとき
それは「あるもの」に変換されます。
「ないもの」について考えるとき
「ないもの」について考えているふりをしながら
「あるもの」について考えているだけだと思います。
【2013/11/03 14:54】 | 桜井晴也 #Xkgdy6gM | [edit]
みかさんへ

おひさしぶりです。
ありがとうございます。

ゴダールが
「私は映画批評を書くのと映画づくりを区別して考えたことはいっさいない」
と言っていて 
そういうふうにあれたらいいな というのは ずっと
ありました。

なにはともあれ 
読んでいただいて ほんとうにありがとうございます。
どうぞよろしくお願いします。
【2013/11/03 15:02】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
てんてんさんへ

> これは桜井晴也さんを批判しているわけではなく、クサイ文章に「やられ」てしまう山田詠美さんを批判しているのでは? と思いました。

山田詠美さんは「クサイ文章」とはひとことも言っていません。
「クサイ文章」と書いたのは石原千秋で 「クサイ文章」という書きかたが
読んだひとにどういう印象をあたえるのかを考えるのであれば
僕は 僕への批判もふくんでいると思いました。
もちろん 山田詠美さんも批判されているのでしょうけれど。


> 川上未映子「ミス・アイスサンドイッチ」の「『ライ麦畑でつかまえて』の文体」と言いつつも、褒めているところを見るに、石原さんは、たとえその小説が誰々の文体と似ていても、クッサクサな文章であっても、それが小説として成功していれば、評価を与える人なのではないでしょうか。にも関わらず、今回の桜井さんの作品が批判されたのは、(石原さんから見て)そこに書かれているクサイ文章が小説的に成功しているとは思えなかったから、ではないかと思いました。

くりかえしになりますが
小説的に成功しているとは思えないのであれば
それがなぜなのか どういうかたちで成功していないのか を
書かないとだめです ということを 僕は言っています。
それを書かなくていい と言うのであれば
それは「文章」ですらありません。
ただの「権力」です。


> 桜井さんの反応は、過剰すぎるのでは、とも思いました。

過剰です。
それに 僕もまた 言いかたをまちがえています。
僕もまたちがったかたちの「権力」をつかっただけです。
だからそれは やっぱり くだらないことなんです。
【2013/11/03 15:24】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://kizuki39.blog99.fc2.com/tb.php/1285-11bd4a55
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。