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ひらいて

2013.11.05(01:07)

ひらいてひらいて
(2012/07/31)
綿矢 りさ

商品詳細を見る

 10月31日(木)

 会社にいった。
 モスバーガーにいって小説を書いた。


 11月1日(金)

 会社にいった。
 赤羽までいって、編集者のひととうちあわせ、というよりも、お酒を飲んだ。「世界泥棒」単行本の見本をいくつかもらった。おお、と思った。


 11月2日(土)

 おきたら17時くらいでびっくりした。モスバーガーにいって高橋源一郎「恋する原発」を読んで、小説を書いた。そのあと綿矢りさ「ひらいて」を読んで、西尾維新「不気味で素朴な囲われた世界」をはんぶんくらいまで読んだ。
 綿矢りさの会話文の書きかたは「蹴りたい背中」のころからずっと異常で、わたしには、彼女がどういうやりかたでもってああいう書きかたをすることができているのかすら、よくわからない。現実的に話されているような、という意味でリアルな会話、というものではないし、その逆に、村上春樹が書くような翻訳調の会話でもない。もしもかりに、そのふたつを極として、ほとんどすべての作家たちがそのあいだのどこかに立ち位置をさだめてそこに規則をおいて小説のなかにそれを定めて書いていく、ということが仮定できるのであれば(ライトノベルでさえ翻訳調だから)、わたしは、綿矢りさをそのどの場所におくこともできないでいて、その意味で、異常だと思う。


「ちりとり、やって。先生に階段の掃除を頼まれたんだけど、一人だけでほうきとちりとりの役目をするのは大変なの。だから、手伝って」


 この会話文を、わたしは、彼女がどうやって書いているのかわからない。というよりも、この会話文がどうして異常に感じられてしまうのか、わたしにはわからない。この会話文をかりにわたしたちが発話するとすれば、わたしたちはもう、これを「棒読み」することしかできない。読まれたのではなく書かれただけの文章が、書かれた瞬間にすでに「棒読み」されている。だから、この文章はすでに発話されている、あるいは、発話されていることをふくんでしまっているように見える。
 チェルフィッチュ「現在地」という演劇がわたしにとって衝撃的だったのは、そのすべてのせりふが「棒読み」されているからだったように、いまは思う。「棒読み」ということは感情がこめられていない、あるいは抑揚がない、ということで、それまで日常的言語によりそっていたはずのチェルフィッチュの言葉は「現在地」という演劇においては、「○○だわ」という日常ではほとんどありえない語尾になっていた。そうなったとき、そもそもそのせりふはたがいの役者同士のあいだにも、あるいはそれを見ている観客だったわたしたちにも、直接的には向けられない。「現在地」のせりふはその演劇空間に響かされたものだったと、いまは思う。問題は、わたしたちはそのせりふにいかなる感情をこめなくてはいけないのか、ということで、もっと言えば、そもそもわたしたちはせりふに感情をこめる必要があるのか、ということだと思う。
 このまえ見た鳥公園「カンロ」を、わたしは今年見た演劇のなかでいちばんおもしろかった、と言ったけれど、それは、そのなかで発されるせりふがその場の人間関係の内部だけでとどまっていないからだった。「カンロ」において森すみれたちが「棒読み」していた、ということではなくて、そのせりふじたいが感情をともなう、というありかたをなされていないからだ、と思う。「カンロ」がもしも難解だとするならば、それは「カンロ」のどのせりふもたがいの役者にも観客にも直接的には向けられていないからだと思う。「カンロ」のせりふは演劇空間に響きあい、そのとき、観客はその演劇空間の一部として構成されなくてはいけないし、そうであるならば、役者がその役としてふるまうときの虚構の感情は非実在としてはじかれなければいけないのかもしれない。
 綿矢りさ「ひらいて」のせりふは、すでにそのせりふの非感情性、あるいは、「棒読み」されることをふくんでしまっている。そのとき、わたしたちは、わたしたちがふつう小説を読むときにつかう読みかたとはべつの読みかたをしなければいけないはずだ、と思う。「現在地」と「カンロ」においてはすくなくともそのせりふは役者がしゃべってくれる、けれど、「ひらいて」においてはそれが小説であるがゆえにわたしたちはそれを読まなければいけない。あるいは、読みおわらなければいけない。このとき、わたしたちが読まなければいけないのはすでに「発されおわってしまっているせりふ」であって、役者ではないわたしたちは、それをどのように読めばいいんだろうか。このせりふはもちろん、「たとえ」という男の子に向けられたせりふだけれど、それは、ほんとうだろうか。
「ひらいて」の会話文は、おそらく、ふつうの小説の会話文よりも遙かにたくさんの労力をかけて書かれている。それだけ、不安定だと思う。「しょうがの味は熱い」のときにも書いたことだけれど、綿矢りさの小説は文学的洗練と安っぽさ(ポエム)の両端のさらにぎりぎりのところで書かれている、と思う。すこしまちがえれば、というよりも、ところどころあえてまちがいながらも、それすらも小説全体のせつじつさのなかに内包するかたちで書かれている。それは、わたしはほんとうにこわい場所だと思う。不安定、だということは、その小説のなかの各部分を縛る規則がすくない、ということで、小説はほとんどの場合、規則がおおいほうが規則がすくないよりも書きやすい。その規則のおおさによる安心のなかで、すくなくともわたしは、書いていて、だから、そこには書けてしまう、という危機が待っていて、その危機のなかで、おそらく綿矢りさは書いていると思う。それはわたしから見ればほんとうに貴重で、ほんとうに貴いことだと思う。
 わたしたちが問題にしなければいけないのは、ここで主人公の「愛」という女の子が感じている低俗さで、むしろ、彼女の低俗さは「サロメ」や「福音書」すらもまきこんで低いところまでつれていってしまう。「たとえ」という男の子が「愛」にたいして、おまえも連れていってやる、と言ったことは、高尚な場所にいたと思いこんでいた彼のひとつの堕落としてあって、だから、この小説は壊れた場所がさらに壊れていくものとしてあって、そして、もっと複雑な問題は、わたしたちはどんなに安っぽく壊れていってしまっても壊れきってしまうことはない、という快楽のありかただと思う。「愛」は「たとえ」に、連れていってやる、と言われて、鶴がなくて、と言う。けれど、鶴なんかどうだっていい。問題は、本来はどうでもいいはずのものが彼女にとってせつじつさになりかわってしまっているということで、そして、低俗さを頭のなかでは意識しながらも肉体的に低俗さのほうに向かっていってしまうそのことにあると思う。「愛」はいろいろなことにやぶれたあとで、校庭の木のしたに座りこみ、親指に指紋がついていることを理解できなくなって指紋のまんなかを切りとり、この学校のなかでいちばんくだらないことをしている、と思う。その程度のくだらなさということが彼女にとってのせつじつさで、そして、すくなくともわたしが問題にしつづけたいと思っているのもそのせつじつさだ。そして最後の電車のなかの場面のすばらしさ、わたしは、あれは90年代後半からのあらゆる表現媒体が見たひとつの夢だったと思う。だから、この小説からあと、もうわたしたちはなにかべつのものを書かなければいけないと、つよく思った。
「ひらいて」という最後のせりふの意味は通常ではとることができない。けれど、わたしはあれは詩だと思う。


 11月3日(日)

 なんとかお昼すぎにはおきたけれど、だらだらとしていたら暗くなっていた。がっかりして図書館にいって本をかえして、クリーニング屋さんにいって、それからドトールで小説を書いた。
 ねむるまえに西尾維新「不気味で素朴な囲われた世界」を読みおえて、岩波文庫の「創世記」をすこしだけ読んだ。むかしのひとは長生きだったんだなあ、と思った。ノアは大洪水を生きのびたとき500歳くらいだったらしい。「福音書」を読んだときも思ったけれど、系譜の書きかたが狂気的だと思う。というよりも、あれは「わかりやすい」ということとはぜんぜんちがったありかたをしていて、だれだだれを生んだ、だれがだれの息子だ、ということがほとんど事実でなない事実、あるいは事実性をおもてにださない事実として記述されていて、そして、重要なことは、わたしのような一般の読者はそれをすでにまじめに読むことすらできない、ということだと思う。
 西尾維新「不気味で素朴な囲われた世界」は、それなりにおもしろいけれど、ちょっときびしい。けっきょくのところ、「キャラクター小説」というものをわたしはぜんぜん信頼していなくて、「きみとぼくの壊れた世界」がすぐれていたのはたぶん、一般人としての琴原りりすがいたからだと、いまになって思う。「奇人三人衆」という、つよい意味でキャラクターをキャラクター化しようとする働きによって、殺人事件、ひいては小説全体が無効化されてしまう気がする。キャラクターがキャラクター化されてしまえば、「ジャンプ」の漫画にあるような戦闘力のインフレ化が小説でも平気でおこってきてしまって、けっきょくのところ、だれがいちばん狂っているのか、という奇人合戦みたいになってしまう。「ブギーポップシリーズ」(「ジンクスショップ」までしか読んでいないけれど)が奇人合戦にならないというすばらしさをたもっていたいっぽうで、「戯言シリーズ」(の「ネコソギラジカル」以外)は、奇人合戦をもふくみながらもとてもすばらしくできていて、「クビシメロマンチスト」と「ヒトクイマジカル」はとくにすばらしかった。でも、そもそも「きみとぼくの壊れた世界」という小説はそういうものとはちがうコンセプトであきらかに書かれていたはずで、だからこそ、病院坂黒猫という奇人を特異点として配置しながらもちいさく独特の世界を描けていたんだと思う。それで、そのやりかたがむずかしいからといって(むずかしいだろうと思っているように見える)、安易にキャラクターをキャラクター化させてしまうのは、ちょっとひどいような気がした。あとがきに「正直、TAGRO先生のイラスト見たさに書かれたような小説」と書いてあることもあって、全体的に、たぶんそんなに熱をいれて書いてはいないんだろうという気がした。


 11月4日(月)

 なんとかお昼すぎにおきたけれど、だらだらしていたら暗くなっていたのでかなしかった。ビックカメラまでいってプリンタのインクを買って、モスバーガーにいって日記を書いた。




コメント
いつも通りさらさらと読みやすく、
小説を読みながら映画を観ているような、
そんな素敵な時間を過ごせました。
トラックバックさせていただきました。
トラックバックお待ちしていますね。
【2013/11/22 15:53】 | 藍色 #- | [edit]
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【2013/11/22 15:25】
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