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関係性への意志

2013.11.10(23:36)

予告された殺人の記録 (新潮文庫)予告された殺人の記録 (新潮文庫)
(1997/11/28)
G. ガルシア=マルケス

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 11月5日(火)

 会社にいった。


 11月6日(水)

 会社にいった。モスバーガーにいって小説を書いた。


 11月7日(木)

 会社にいった。うっかり残業してしまった。


 11月8日(金)

 会社にいった。「世界泥棒」が刊行されました記念でブックファースト新宿店で高橋源一郎さんと対談だったので、15時にささっと帰って、赤羽駅のベックスでなにを話そうかということをひたすら書いていた。すこしまえにブックファーストについた。高橋源一郎さんが、このまえ、ニューヨークにポール・オースターに会いにいくのにオースターの新刊を読まなくちゃいけないと思って、でも日本ではまだ翻訳されていないからKindleで読んだと言っていた。文字をタッチすると日本語訳がでてくるんだよ、ちょうべんり、と言っていた。対談をした。「ドラクエ5」ではビアンカとフローラどっちを選んだ、と訊かれて、ビアンカ1択でした、とまじめに答えた。羞恥プレイなのか、と思った。これが作家になるということか、と戦慄した。うちあげをして帰った。
 このブログをむかしから読んでいてくれていたひとが、きてくれていた。わたしのブログはだいたいわたしぐらいしか読んでいないと思っていた。このまえ、文藝賞の受賞式のときも、わたしが好きな作家のひとで、ブログを読んでいた、と教えてくれたひとがいた。むかし書いたものはほとんど消してしまったけれど、もう7年くらいは書いていて、ここに書かれたことは、わたしにはわからないけれど、だから、それはいったいどういうことなんだろうな、と思った。


 11月9日(土)

 会社の部長的なひとに誘われて、サイエンスアゴラ2013というイベントにいった。友達を誘ったけれど、わたしはふつうに30分くらい遅れた。ごめん、と思った。難解なパズルをひたすら解いた。わたしのとなりで小学生くらいの子供がひょいひょいと解いていて、できる、と思った。いろいろなブースがあって、すこしでも近づくとすごい勢いで彼らの研究内容に語られた。ふんふん、と思った。宇宙を操作したり、魚を生みだしたりして帰ってきた。友達は石の磁石を買ってずっといじっていた。ポケモンセンターにいった。友達が、ポケモンセンターのまえにいるのがほんとうの玄人だよ、よく見ておくんだよ、と言った。見た。帰った。


 11月10日(日)

 オーディトリウム渋谷で濱口竜介の映画を12時間くらいずっと見る、という計画をたてていたんだけれど、おきたときにはもう手遅れで、なにもかもがいやになって死のうと思ったけれど、ここで死ぬのはちょっとあんまりだな、と思って、生きた。のろのろとしたくをして、高橋源一郎さんから、自分の本が売ってるのを見てきたらいい、対談のときにと言われていたので、律儀にちかくの紀ノ国屋書店にいったけれど、ふつうになかった。ふつうにないじゃん、と思って、高橋源一郎さんからほかのひとの本はちゃんと買おうね、と言われたことを思いだして、綿矢りさ「大地のゲーム」と藤野可織「おはなして子ちゃん」を買った。ほんとうにわたしはくずにんげんだから本は買わなくて、なんだかとてもひさしぶりにブックオフ以外で本を買ったような気がする。たぶん、ここ数年単位で考えても、新刊で買ったものは三角みづ紀と安川奈緒の詩集だけだと思う。反省しよう。
 MOVIXで吉浦康裕監督「サカサマのパテマ」を見た。そもそもの問題として、ひとりの少年と少女が出会って、おたがいを思いあうことができるまでの時間の長さはどれくらいなんだろう。エイジにとって、パテマははじめて星空をきれいだと言ってくれた女の子で、その意味で彼女はとくべつな存在なのかもしれないけれど、そのとくべつさがなぜエイジにとってほかのすべてを捨てるほどの価値となりえるのか、たぶん、わたしにはわからないだろうと思う。彼らが超越しているのは重力ではなく、時間なんじゃないだろうか。敵キャラクターもただのヒステリックで幼稚なおっさんで魅力がない。彼がサカサマ人をにくんでいるのもそれが呪われたひとたちだからというだけで、ちょっと、意味がわからない。そんなににくんでいるのであれば、さっさと銃で撃ちころせばいいのに。サカサマ人をねだやしにするためにわざわざ地底にいくのに、だれもかれもが、敵勢力もわかっていないはずなのにほとんど丸腰でいってしまう。いったいなにをしにいったんだろう。あとはやっぱり表情のつくりかたが問題で、彼らはうれしいときにはうれしい顔をするし、つらいときにはつらい顔をする。それは、つまり、表情によってそのキャラクターの心情をあらわさなければいけない、というひとつの「規律」や「秩序」や「掟」としてあって、もっと言えば、彼らがおこなう表情はすでに表情ではなく言葉であって、彼らはうれしいときには「わたしはうれしいんです」としゃべっているだけにすぎない。だから、わたしの考えでは、それはアニメーションではない。そしてわたしが思う最大の問題は、ちょっと空に落ちる恐怖を体験したことで「パテマの気持ちがわかった」と言ってしまうエイジで、わたしは、わたしが他者とおなじことを体験したとすれば他者の気持ちがわかるとは思わない。すくなくとも、アシタカはサンの気持ちもエボシの気持ちもわかったとは言わないだろう。2項対立世界の中間にたとうとするものがどうすべきか、それを既存の価値観への同調というかたちで解決してしまっているこの物語は、おさないと思う。
 エクセシオールカフェでガルシア=マルケス「予告された殺人の記憶」を読んだ。この小説はひとりの男の死がさまざまなかたちで語られていて、中篇でありながらも、おおくのにんげんがでてくる。そして、それが読みにくさ、わかりづらさを生んでしまわない。その強度は、ものごとを語るときの語りの強度におそらく由来していて、彼らの語りは、彼らがいままで生きてきたその物語とひとりの男が殺されるその物語と直結している、あるいは、その物語へ集約されていく。重要なことは、そこへと集約されうるというひとつの事実だと思う。彼らの人生の物語がひとりの男の死の物語と関係しているんだろうか。わたしにはなにも言えない。物語の関係性が語り手のひとつの意志によって決定されうるというありかたを、わたしはすくなからず信じている。
 わたしは、比喩表現と呼ばれるものは関係性への意志だと思う。けれどそれは、ここには書かない。




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【2013/11/11 11:49】 | # | [edit]
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