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死んでいった無数のマリオへの悼み

2013.11.19(00:50)

serial experiments lainserial experiments lain
(1998/11/26)
PlayStation

商品詳細を見る


注 時田貴司(スクウェア)「LIVE A LIVE」
  中原順志、えんどうてつや(PIONEER LDC.)「serial experiments lain」
  以上の物語内容の結末に言及しています。


 11月11日(月)

 会社にいった。

 
 11月12日(火)

 会社にいった。


 11月13日(水)

 会社にいった。飲み会にもいった。たのしかった。


 11月14日(木)

 会社にいった。


 11月15日(金)

 会社にいった。飲み会にもいった。たのしかった。


 11月16日(土)

「ゲーム映画のレベルデザイン」というイベントにゲストとしてださせていただいて、なにかをしゃべった。つまるところ、わたしにできないのは、ほかのひとがしゃべったことをひきついでなにかをしゃべる、ということなんだろうな、と思った。考えること、とか、思うこと、について、わたしはその時間のなかでなにを思うことができるんだろう。
 いちばん、気になったところだけを書いておきたいけれど、それは、「クッパを倒すために死んでいった無数のマリオたち」の話だった。わたしたちはすくなからずクッパを倒すために何人かのマリオたちを殺している。わたしたちはむかしはマリオの生命を「1機」、「2機」というかたちで数えていて、その生命は、たとえばそれがアーケードゲームであればわたしたちが投入したコインの数とひとしかった。端的にいって、わたしたちはマリオの生命を金で買っていた。では、わたしたちはそのマリオの生命についていったいなにを思い、なにを言えるんだろうか。
 ゲームの構造として「プレイヤー=主人公」という図式が語られるけれど、それはほんとうなんだろうか。マリオや勇者などの主人公キャラクターは、スーパーファミコンレベルでは記号的表現をとられていて、彼らの死がわたしたちの死そのものとしてあるわけではない。彼らの死がもたらすストレスは彼らの死そのものに起因しているわけではなく、わたしたちの失敗に起因していて、彼らの死はわたしたちの失敗のひとつの表現でしかない。だから、「ドラクエ3」では仲間が死ぬとそのキャラクターは棺桶となってしまう。彼らが棺桶になるのは、彼らがわたしたちの失敗のひとつの表現であるからだ。そのとき、のこった仲間は棺桶をひきずって街までもどって教会へといく。死んだ仲間を生きかえらせるために。その、「感動的な物語」にわたしたちはけれど感動することはできない。それは、記号化されたもの、あるいは物語の構造そのものでしかないからだ。
 それにたいする問題提起は90年代にはでそろっていた、とわたしは思う。時田貴司「LIVE A LIVE」の中世篇では、主人公オルステッドは「ドラクエ型」のしゃべらない主人公と設定されている。彼は城の舞踏会でライバルであり親友の魔法使いストレイボウをやぶり優勝し、姫アリシアと結ばれる。その夜、アリシアは魔王にさらわれてしまい、オルステッドはストレイボウ、そして、まえに魔王を倒したもと勇者と僧侶を仲間に魔王を倒しにいく。彼らは魔王を倒すけれど、アリシアは見つからない、倒した魔王もただの幻影だった。病をわずらっていたもと勇者はその戦いで絶命、魔王城は崩壊し、ストレイボウは瓦礫に埋もれて死んでしまう。城にもどったオルステッドは幻覚を見て、王様を魔王とまちがえて殺害してしまい、その罪によって牢獄にとらわれる。牢獄を脱出するために僧侶も死んでしまう。そしてオルステッドは魔王城にまいもどり、そこで真実をつきつけられる。そこに待っていたのはアリシアとストレイボウだった。魔王なんて最初からいなかった、すべてはオルステッドの活躍に嫉妬していたストレイボウがしくんだことだった。ストレイボウとオルステッドは戦闘し、ストレイボウは死んでしまう。ストレイボウの死にショックをうけたアリシアは「なぜあなたはきてくれなかったの? ストレイボウは助けにきてくれたのに」と言って自殺してしまう。オルステッドはようやく「しゃべり」、すべてに絶望し自ら魔王になってにんげんを滅ぼしてしまう。この物語で重要なのは、オルステッドが、真実をつきつけられる直前まで記号化された存在としてふるまいつづけてしまうことだと思う。オルステッドが問題にしたのは、姫を助ける、親友やもと勇者といっしょに魔王を倒す、という、類型的な、記号化された物語をつきすすみ、そのなかでなお、自らも記号化された存在としてありつづけたことだと思う。比喩表現としていえば、オルステッドもまた死んでいった無数のマリオたちを悼むことができなかった存在として描かれている。「LIVE A LIVE」については何度もおなじことを言っているけれど、このときオルステッドが問題にしなければいけなかったのはにんげん、あるいはキャラクターの内面であって、彼はアリシアをにんげんとして愛するべきだったし、彼はストレイボウに親友としてせっするべきだった。彼は勇者なんてやりたくないと思ったのであればやるべきではなかった。けっきょくはそのどれもすることができなかった彼は記号的表現の結末として、みずからが魔王になってしまう。彼は物語構造として唯一欠陥した存在にみずからをあてはめることで完全なる記号化としてキャラクター、あるいはにんげんの内面の痛みから逃亡してしまう。そして、「最終篇」の価値、つまり、「最終篇」でその他のキャラクターたちが真エンディングを導く条件として、魔王と化したオルステッドにとどめをささない、つまり、対話をすることが要請されるのは、おそらく、彼らなりの死んでいった無数のマリオへの悼みだったんだろうといまは思う。
「LIVE A LIVE」が記号化されたにんげんにたいして非記号的な接触をこころみることが、ほんとうの意味でのゲームクリアだ、という考えを、自覚的であれ無自覚的であれもっていたとすれば、松野泰己「タクティクスオウガ」というゲームは「ドラマティック」という意味で、すこし異なっているように思う。「タクティクスオウガ」はおそらくは「ドラマを見せる」ということにつよい視点をおいていて、そこではすでに「プレイヤー=主人公キャラクター」という図式はくずされている。このゲームがわたしたちにあたえる感覚は、わたしたちにんげんが彼らの群像劇を「ながめる」という感覚であって、それは、たとえ主人公の選択肢によってルートが分岐されたとしても、その感覚はあまり変わらないように思う。ここで物語はプレイヤーの外部として提示されており、物語のドラマもすでに外部的な事象としてなされている。問題はこの外部性だと思う。このゲームでは、仲間になったキャラクターはいつでも戦闘によって死ぬ可能性があり、そして、死んだらもう2度と生きかえらない。だから、仲間キャラクターは物語のドラマにほとんど参加しない。それはたんじゅんに、「どのキャラクターが死んでいるか」を管理して生死の状況にあわせて物語を何通りも構成していないといけないから、という理由によるものだと思うけれど、それは、かなり奇妙な印象をあたえる。仲間ではないときのみ、彼らはドラマ的人物としてふるまい、仲間になってしまったあとでは、彼らはひとりのキャラクターとふるまうしかほとんど可能性はない。ドラマはプレイヤーたちの外部で展開され、わたしたちはそれを求めるしかない。この方向性は「ファイナルファンタジータクティクス」でさらに深まる。「FFタクティクス」ではプレイヤーにゆだねられるのは、すでにある歴史(=物語)をひもとくだけであって、そこにある悲劇を回避する手段はなにもあたえられていない。わたしたちの目的はすでにこのゲームをクリアすることではなく、ただ物語をながめ、そして見ることでしかない。わたしたちはもう、ゲームをクリアすることがなんらかの目的(世界を救う、とか)を達成するための手段ではないことを、知ってしまっている。
「serial experiments lain」においてはすでにわたしたちが体験する物語すら消失している。くわえて、ここでは「プレイヤー=主人公」という図式じたいがすでに消滅している。これは、主人公が不在のゲームであり、プレイヤーが直接的にかかわるゲームなんだと思う。プレイヤーにできることはただ、少女のかたちをしたブラウザをつかい、ゲーム空間にひろがっている音声や映像の情報を聞いたり見たりするだけで、そして、特定の情報にアクセスするとエンディングになる。音声や映像の情報は断片的なデータとしてあって、その関係性、あるいは真偽についてさえもプレイヤーにゆだねられている。「lain」がやっていることはプレイヤーがゲーム的空間と物語を通過することなくどんなかたちで直接的に結ばれていくか、ということとしてあって、アニメ版とあわせて見れば、ということになるかもしれないけれど、わたしは、このゲームはプレイヤーの脳味噌、あるいはこころに「lain」という存在をインストールするための装置だったと思う。それは、きわめて抽象的だけれど、現実と虚構のあらゆる空間に普遍的に存在する「lain」という存在が、その存在しはじめるやりかたにおいて「ゲームをプレイする」ということがくみこまれている。「serial experiments lain」というソフトウェアがはたして「ゲーム」なのか、ということにはいろいろ意見があるかもしれないけれど、無数のマリオたちの死を悼めないわたしたちがかりにその悼めないことについて傷つくのであれば、「lain」というゲームはおそらくその傷そのものに宿っているように思う。「lain」のなかには、「記憶なんてただのデータにすぎない」という言葉がでてくる。ここで言われることは、他人が死ぬことがなぜかなしいのか、ということの根本的な問いなおしだ。他人が死ぬことがかなしい、ということ、そして、他人が死ぬことがかなしいという状況にある、ということのどこに差違があるというのか、という問いなおしだ。すくなくともわたしはその問いに答えるやりかたをいまだ知らない。
 そして、かなしみホッチキス「タオルケットをもう一度2」は、無数のマリオたちの死はわたしたちの死となんらかの区別をつける必要はない、というかたちを、90年代以前のゲームにたいしてきわめて批評的できわめて残酷なかたちで描きだしたけれど、もう、書きすぎたのでそれについてはいまは書く気がない。
 綿矢りさ「大地のゲーム」を読んだ。


 11月17日(日)

 ようやく荷物をうけとって、いきようようと、池袋芸術劇場までいった。ラビア・ムルエ「ピクセル化された革命」を見ようかと思ったんだけれど、直前で、あれ、俺、予約してないわ、と思った。ほんとうにびっくりした。どうりで予約した記憶がなかったわけだ、と思った。
 びっくりしたので、池袋のジュンク堂にいって「世界泥棒」がならんでいるのをながめてきた。1Fで手にとっているひとがいて、買え、買え、と念をおくったけれど、あえなくもどされていた。三角みづ紀「隣人のいない部屋」と文月悠光「屋根よりも深々と」と小林坩堝「でらしね」を買った。よくよく考えれば、わたしは文藝賞の賞金をもらっているわけだから、50万円ぶんくらいは本を買ってもいいわけだな、と思って、これから半年くらいかけてゆっくり50万円ぶんの本を買っていこうと思った。
 佐藤泰志の本をもらったので、「きみの鳥はうたえる」から読んだ。これはヌーヴェル・バーグだなと思った。


 11月18日(月)

 会社にいった。





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【2013/11/23 00:04】 | # | [edit]
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