スポンサーサイト

--.--.--(--:--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





スポンサー広告 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]

サンプル「永い遠足」@にしすがも創造舎

2013.11.24(01:24)

大きなハードルと小さなハードル (河出文庫)大きなハードルと小さなハードル (河出文庫)
(2011/06/04)
佐藤 泰志

商品詳細を見る


注 スクウェア「ファイナルファンタジーⅩ」
  かなしみホッチキス「タオルケットをもう一度2」
  以上の物語内容に言及しています。

 11月19日(火)

 会社にいった。社長に、きみの本、ちかくの本屋さんに売っていなかったよ、と言われた。ちがうんです、と思った。ちかくの本屋さんの僕の本は僕のこころやさしい同期たちがみんな買いしめたんです…。
「タオルケットをもう一度2」というゲームは、おそらく、21世紀になってはじめて死んでいった無数のマリオたちの死がわたしたちの死のかなしみとなんらかの区別をつける必要はない、という場所から登場したように思う。このゲームで主人公は宇宙人にさらわれ、宇宙船のなかで目を覚ます。主人公はなにもわからないままに宇宙船をさまよい、そして、内臓をぐちゃぐちゃにまきちらしながら惨殺される。けれど、その主人公は宇宙人によって培養されたクローンであって、オリジナルの主人公はべつにいる。わたしたちは最初にプレイヤーとして操作された主人公とはべつの個体(クローン)を操作して、宇宙人の侵略からの逃避行をつづける。逃避行は成功しないで、最終的には主人公たちは惨殺されて終わる。
 宇宙船のなかで目を覚ましたとき、主人公のまわりにはグロテスクな肉塊が散らばっている。それは、わたしたちが操作する主人公以前に目覚めたほかのクローンたちの失敗作の肉塊だ。そして、宇宙船のおくで、わたしたちが操作する主人公のクローンもまた肉塊に変えられてしまう。問題は、わたしたちがそのクローンたちのどの個体を操作するのかという問題じたいがここではまったく問題にされていない、ということなんだと思う。そこに散らばっている無数の肉塊はマップ上のひとつのオブジェであると同時に、かつて死んでいった無数のマリオたちの物語的表現なんだろう。
 グラフィックはスーパーファミコンレベルであり、おそらくは「MOTHER2」をベースにつくられているこのゲームにおけるグロテスクさの現実性は、わたしはほとんどほかのすべてのリアルなグラフィックを持ったゲームの現実性をこえている、と思う。ずっとまえにもまったくおなじことを書いたけれど、わたしたちが感じる「リアルさ」というのは、現実と似ている、というレベルでのみ見られるものではなくて、あらゆる表現の固有のレベルに呼応するものと思う。ここで語られていることは、無数のクローンの肉塊とわたしたちの操作するプレイヤーであるひとつのクローンにそそがれる差違の見えないまなざしのありかただと思う。そして、その肉塊が死骸として、ひとつの表現のレベルにおいてリアルだとすれば、わたしたちはおそらくはそのグロテスク性をきっかけにして泣くことができるだろう。わたしたちはきっとグロテスク性をリアルさと誤解しているように思う。けれど、その誤解はまた圧倒的にただしい。わたしたちが錯覚しているとき、その錯覚を信じるしかないし、その信じるやりかただけが、けっきょくのところわたしたちのリアルさを保証している。


 11月20日(水)

 会社にいった。帰って、ベックスで日記を書いていたら、会社のひとがいた。
 そもそも語るべきことは、テキストの削除かもしれない。きちんと確認したわけではないけれど、「ファイナルファンタジー」でいえば、おそらくは「FF10」は「FF7~9」と比較して、テキストは削られているはずだと思う。当時、スクウェアはフェイシャルモーションということを言っていたけれど、フェイシャルモーションレベルでの表現が可能になったPS2以降、テキストでなにかを説明する必然性はもはやない。そのテキストの減少じたいが「FF10」を恋愛要素を軸とした「FF7~9」と比較すればわりあいたんじゅんな物語構造へと変わっていったように思う。シンはジェクトである、という重要な設定を最初に明かして、物語の進みと同時にそこに関連する謎をすこしずつ明かしていく構造をとっている。その構造によって、たとえば、「FF7」でクラウドがほんとうの自分をとりもどす場面のような、長い台詞と長い演出をからめてのいっぺんに謎を明かす、という方法はもはや削除されている。かわりに、「FF10」であるのはムービーだ。かつて、ゴダールはサイレント映画とトーキー映画のちがいについて、みっつの映像がふたつになっただけだ、と言った。かつてはある場面があり、それから字幕の画面がはいり、そしてまたほかの場面がある、というかたちでおこなわれていたサイレントにおける映画表現は、トーキーへの移行と同時に字幕の画面を削除した。「FF10」がやっていることは、基本的にこの歴史的な流れと同一だと思う。ふたつの映像のあいだにさしこまれえるものはもはやもうひとつの映像であって、映画もゲームも、テキストを削り、そこに映像をさしいれた。おなじように、「FF10」ではシームレスバトルがさわりだけとりいれられている。かつてはフィールドマップ、戦闘マップと分離されていた世界表現がグラフィックの進化によってフィールドマップと戦闘マップの区別をすこしずつ削除していった。ゴダールはほとんどの映画はひとつだけの映像でできている、と言ったけれど、わたしが不思議なのは、なぜグラフィックの進化にともない世界表現が統一されていくのか、ということだ。けれど、わたしはゲームはつくらないので、そのことについてはなにも知らない。
 かつてはゲームにおいてテキストはひとつの表現たりえていた。「ドラゴンクエスト」は戦闘の様子をすべて文章で表現していた。だから「ドラクエ」をプレイするということは、「ドラクエ」を読むということだった。「MOTHER2」のどせいさんの台詞が衝撃的なのはテキストが表現だったからだ。グラフィックの進化はテキストを外部化する。かつてテキストは世界設定解説だけでなく、キャラクターの心情表現すらを書いていた。「FF10」においては表情で感情が表現できるということで、ユウナが唇だけを動かして「ありがとう」と言う場面すらもとりいれている。テキストに一本化されていた諸要素はばらばらにされ、「ゼノサーガ」では複雑な用語を外部的な辞書として登録し、世界設定を辞書に、物語を映像と音声にほとんど分離させている。
 それでは、ゲームにおいて、音声表現、映像表現に耐えられうるのか。ゴダールの「勝手にしやがれ」ではベルモンドがゼバーグの部屋でとぎれることなく話をしながら自由に動きまわっている。その、音声的自由さと身体的自由さが高いレベルで融合しているゲームは、けれど、わたしの知るかぎりほとんどない。「ゼノサーガ」のアルベドが自分の腕や首をきりとりながらモモに話しかける場面ですら、映像の長さを音声の長さにあわせてしまっている。カメラは次々と動くけれど、それはアルベドが長い台詞をしゃべるための時間を確保するための隙間埋めのようになってしまっているように思う。テキスト表現はわたしたちの読みの時間の長さに従うけれど、映像、音声表現はそうでない以上、問題は、わたしたちに流しこむ時間のその流れかただと思う。
 わたしは、「FF12」は映画だと思う。それは、映像、音声表現が映画とおなじ時間の流れかたによって流されているように見えるからだ。けれど、それ以降のゲームをわたしは知らないので、もうなにも言えないし、なにも言わない。


 11月21日(木)

 会社にいった。


 11月22日(金)

 会社にいった。すき焼きは食べなかった。


 11月23日(土)

 おきて、佐藤泰志「大きなハードルと小さなハードル」を読みながら電車にのって、にしすがも創造舎でサンプル「永い遠足」を見た。ここで描かれているのは、ものとひととの境界が現実的にくずされていく現場で、問題なのは、というよりも、わたしがグロテスクだと思うのは、ひとがもの化されてしまうそのことじたいだと思う。「タオルケットをもう一度2」のところでもすこし書いたけれど、わたしが感じてしまうグロテスクさはわたしたちがいっぱんに言うところの現実に直接的にねざしているわけではないとわたしは思う。現実性は非現実的などんな表現にも呼応するし、そうでないのであれば、文字だけで書かれた小説は価値を失う。わたしはその文章を読んでいるときその作者のグロテスクな肉体を同時に読みこんでいるんだろうか。それを否定することはまったくないけれど、そうであるとしたら、ベケットや金井美恵子の文章表現はどう考えられるんだろうか、あるいは、機械化されたにんげんを描き、そして書くことじたいを機械としてしまったような感触すら描いたカフカの文章は。鳥公園「蒸発」という演劇では食肉用に脳味噌がないように育てられたにわとりの話がとつぜんでてくる。それが、奇妙なほどにわたしのこころにのこるのは、脳味噌をぬきとられたにわとりがわたしににんげんを感じさせるからだろう。
 サンプル「永い遠足」がグロテスクなのは、ひとがもの化しているからだ。これは、ひるがえって考えれば、わたしは純粋なにんげんよりもものをとりいれたにんげんのほうによりグロテスクさを感じる、ということだと思う。たとえば、羽場睦子は自分の息子に乳首を噛みちぎられ、そして「乳首が帰ってきたよ」と言って、あんぱんを胸につけて登場する。ここであんぱんがグロテスクなわけではない。このとき、あんぱんを乳首だと言って自分の胸につけてしまう羽場睦子の精神的なグロテスクさ、そしてあんぱんをもふくんだ羽場睦子の肉体的なグロテスクさがうみだされている、ということだと思う。もっといえば、そのグロテスクさを感じるとき、わたしはそのあんぱんが羽場睦子の乳首だと信じている、ということだ。そして、理解することなく信じてしまうわたしのこころもおそらくは、グロテスクなんだろうと思う。
 わたしがわたしをみにくいと思うのは、けっきょくのところ、表現においてそのにんげんがにんげんだと強烈に意識されるのはもの、あるいは機械と化したにんげんがにんげん的に表現されるときで、それは、にんげんはきたない、ということだ。澄んだ表現、というものはにんげん性を希薄し、聖性を付与する。それが美しい言葉だ。美しい言葉を聞いたときわたしたちはにんげんをわすれてしまう、もしもそうであるなら、わたしたちは死ぬのではなく、消えるしかないんだろう。
 サンプル「永い遠足」の最後のカタルシスはすばらしい、と思う。関係ないけれど、わたしが聴きたいと思う音楽はだいたいのところ演劇でつかわれている音楽で、ちらしを見ても、つかわれている音楽がのっていることがなくて、いつもこまってしまう。




コメント
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://kizuki39.blog99.fc2.com/tb.php/1289-18c24590
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。