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チェルフィッチュ「現在地」@東京芸術劇場

2013.12.31(23:59)

ニュークリア・エイジ (文春文庫)ニュークリア・エイジ (文春文庫)
(1994/05/10)
ティム オブライエン

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 11月24日(日)

 街のかたすみでわるいゾンビをやっつけていた。わるくないゾンビはやっつけなかった。


 11月25日(月)

 会社にいった。あとはなにもしなかった。


 11月26日(火)

 会社にいった。あとはなにもしなかった。


 11月27日(水)

 会社にいった。あとはなにもしなかった。


 11月28日(木)

 会社にいった。あとはなにもしなかった。


 11月29日(金)

 会社にいった。あとはなにもしなかった。

 
 11月30日(土)

 ツァイ・ミンリャンの映画を見にいこうかと思っていたのに、うまくいくことができなかった。部屋の向かいの場所では家が壊されて、いま、あたらしい家がにょきにょきつくられている。わくぐみだけがつくられていた。音がうるさくてねむれもしなかったのにずっとふとんのなかにいた。どうして壊したのにまたあたらしくつくるんだろう。
 佐藤泰志「もうひとつの朝」を読んだ。


 12月1日(日)

 お友達と多摩ベルブホールまで濱口竜介「親密さ」を見にいった。問題は、想像することではなく、想像したことを見ることだとわたしは思っていて、だから、わたしはなにかをうまく想像するよりもわたしが想像したなにかをうまく見るようになりたいと思う。「親密さ」が描いていることは、ある状況下におけるひととひととの関係のことで、わたしがこの映画を、すくなくとも21世紀の日本の映画のなかでいちばん好きなこと、そのありかたのふれあいにおいては、おそらく、この映画が描いていることの真摯さ、あるいは、せつじつさだろうと思う。わたしたちにとってのせつじつではないものが他者にとってのせつじつさとなりえること、そして、そのせつじつさは個々に、ばらばらにのみ存在していて、そのことについてなにを思い、なにを行為することができるんだろうか。ゴダール「アワーミュージック」のなかで、ゴダールは死んでいったテロリストになにも言うことができなかった。この映画を見たとき、わたしは、もしも死んでいったテロリストになにも言うことができないとしたら、わたしはわたしに近しいひとたちにすらなにも言うことができないかもしれないと思った。おなじ言葉が、有事のとき、平時のとき、それぞれで発されるときに意味が変容するということを、たとえばわたしははどの程度信じることができるんだろうか。そして、そもそもそれは求められるべきことなんだろうか。あるいは、わたしたちは平時のときに語ることができないことを有事のときにはたやすく語ることができるようになるだろうか。それは、あるいはわたしたちの思いあがりかもしれない。けれどその問いかけ、状況下と言葉を同時に描くこと、それが、演劇の価値だ。
 友達といっしょにふらふらと街をさまよってしゃぶしゃぶを食べた。これは、鍋ですか、と彼女は言った。だれも、しゃぶしゃぶの食べかたを知らなかった。
 ティム・オブライエン「本当の戦争の話をしよう」をひさしぶりに読みはじめた。


 本当の戦争の話というのは戦争についての話ではない。絶対に。


 何度も書いていることだけれど、「リアルだ」とわたしたちが言うときのその「リアルさ」は現実でおこっているような感情やできごとが描きだされている、というような意味ではない、とわたしは思う。なぜ現実としておこったものが文字で、あるいは文章で描きだされなくてはいけないのか、わたしにはよくわからない。それは文字あるいは文章であって、現実ではない。その文字あるいは文章はただの文字あるいは文章であって、どんなに見つめてみたとしてもそれは場所でも肉体でも空間でも感情でもない。けれど、それは文字あるいは文章というものがたいしたものではないということを言っているわけではない。文字あるいは文章というものは、場所でも肉体でも空間でも感情でもないけれど、それがそういうかたちで現実として存在している、ということなんだと思う。ほんとうのこと、うそのこと、実際におこったこと、おこらなかったこと、というものは、わたしたちがかりに現実と呼んでいるものごとから見ての判断基準でしかなく、そして、ほんとうには、わたしたちがその判定基準にしたがう必然性はない。小説だからうそだ、ドキュメンタリーだからほんとうだ、という基準ではなにもはかれはしないように思う。だから、わたしが書いた「世界泥棒」は戦争文学だ。なぜなら、あの小説には戦争の話はなにひとつ書かれていないからだ。


 12月2日(月)

 会社にいった。いそがしかった。


 12月3日(火)

 会社にいった。いそがしかった。


 12月4日(水)

 会社にいった。いそがしかった。


 12月5日(木)

 会社にいった。いそがしかった。


 12月6日(金)

 会社にいった。いそがしかった。


 12月7日(土)

 東京芸術劇場までいって、チェルフィッチュ「現在地」を見た。誤解をおそれないで言うのであれば、この作品は「親密さ」とおなじ作品だと思う。「現在地」という作品がつきつけているのは、言葉が空間に関与し、同時に、関与された空間が現実に関与している、という、あたりまえの関係性だと思う。だから、「現在地」という作品がやっていることは現実の変容だと思うけれど、そもそも、現実が変容しない無傷な作品は作品たりえているんだろうか。この作品が現実の変容たりえているのは、言葉が肉体であり、肉体が同時に空間であるという、ほとんど狂気的なほどのありかた、だと思う。だからこれは演劇ではないのかもしれない。そして、演劇ではないかもしれない、というひとつのかたちの極限として、これは、圧倒的な演劇なんだと思う。わたしにとって、この作品が生みだしているかたまりみたいなものは普遍的に絵画にも小説にも詩にも音楽にも映画にもあって、だから、わたしはずっとそのかたまりのありかたを問題にしたいと思っているけれど、それは言葉にできないもので、というよりも、言葉にしたとたん、それはもうかたまりのありかたに変容してしまうものだから、むずかしい。


 12月8日(日)

 ねむっていた。


 12月9日(月)

 会社にいった。いそがしかった。


 12月10日(火)

 会社にいった。いそがしかった。


 12月11日(水)

 会社にいった。いそがしかった。


 12月12日(木)

 会社にいった。いそがしかった。


 12月13日(金)

 会社にいった。いそがしかった。


 12月14日(土)

 ねむっていた。


 12月15日(日)

 ねむっていた。


 12月16日(月)

 会社にいった。いそがしかった。


 12月17日(火)

 会社にいった。いそがしかった。


 12月18日(水)

 会社にいった。いそがしかった。


 12月19日(木)

 会社にいった。いそがしかった。


 12月20日(金)

 会社にいった。いそがしかった。


 12月21日(土)

 お酒を飲みにいった。


 12月22日(日)

 ねむっていた。


 12月23日(月)

 ねむっていた。


 12月24日(火)

 会社にいった。いそがしかった。


 12月25日(水)

 会社にいった。いそがしかった。


 12月26日(木)

 会社にいった。いそがしかった。


 12月27日(金)

 会社にいった。いそがしかった。


 12月28日(土)

 新宿までいって、カタリバの今村亮さんといっしょにお酒を飲んだ。「世界泥棒」について、だれもセカイ系だと言ってくれない、とわたしが言ったら、びっくりしていた。セカイ系を文学でやるにはこれしかない、という小説だと思っていた、と言われた。そうかもしれない、と思った。セカイ系というのも、いまさら感がただようのかもしれなくて、たとえば、「まどか☆マギカ」はセカイ系だとわたしは思うけれど、それでも、「まどか☆マギカ」がセカイ系のあたらしいかたち、と言われているわけでもないだろうし、わたしもそう思っているわけではない。「世界泥棒」がセカイ系だとして、だとしたら、セカイ系としてのこの小説のあたらしさはなんだろうか、と言われて、言葉につまった。そんなものは、もしかしたらないのかもしれない。もしもそこにあたらしさがあるとしたら、それは、すべて文学的なものへと回収されてしまうような気がした。わたしが考えていたことは、たとえば、舞城王太郎が「ディスコ探偵水曜日」をなぜあの程度の文体で描いてしまったのか、とか、秋山瑞人「イリヤの空、UFOの夏」がなぜボーイ・ミーツ・ガールでなければらなかったのか、ということだった。そして、そう考え、そうではないありかたをもしもとったとしても、それが文章としてどうなりえるのかにつながりえるわけではないんだろうということだった。むしろ、問題にすべきはチェルフィッチュや鳥公園の現代演劇のありかたであって、劇場のなかで展開される以上、彼らの空間はセカイ系的な空間に接近していって、そして、おそらく、わたしはその空間を埋めたいんだろうと思う。
 べつのお店にいった。わたしはずっと黙って、ほかのひとからもらった牛タンなんかを食べていた。なぜか太田克史さんと会った。


 12月29日(日)

 さいきん、まったくなんにもやっていなかった。やったことといえば、「トルネコの大冒険 不思議なダンジョン」のプレイ日記をひたすら読みつづけていたことと、ティム・オブライエン「ニュークリア・エイジ」をひさしぶりに読みかえしたことくらいだった。
 オブライエン「ニュークリア・エイジ」では、核戦争におびえる主人公が庭にシェルターを掘り、妻と娘を睡眠薬でねむらせてシェルターのなかに閉じこめてしまう。妻と娘は主人公が狂ったと言う。でも、主人公は僕は妻と娘を愛しているだけだ、救おうとしているだけだ、と言う。ここで描かれているせつじつさは、つまり、わたしたちがものごとをまともに考えるとしたら、たとえば、わたしたちがだれかを愛そうとするなら、わたしたちはもはや狂うしかない、というせつじつさだと思う。東日本大震災の直後、渋谷でガスマスクをつけているひとがいた。わたしはそのひとを奇異の目で見たけれど、ほんとうにおかしいのはわたしのほうなのかもしれなかった。
 主人公が悲惨なのは選択をおこなうことができないからで、そして、選択をおこなうことは、かならず選択をまちがうことだとわかっているからだと思う。わたしは、選択にたいしてまちがっている、あるいはただしい、という判断をくだすことじたいに問題があるのかもしれないとずっと思っていて、そうであるなら、その責任として、わたしたちはそのとき愛を問題にするしかないんだろうという気持ちがする。この小説が感動的なのは、愛を問題にするしかないその極限の場所で描かれているからだと思う。そういう小説は、ほかにはない。


 僕らは自分の子供たちのために人を殺すだろう。僕らの子供たちは僕らのために人を殺すだろう。僕らは家族のために人を殺すだろう。そして何よりも、僕らは愛のために人を殺すだろう。人々がこれまでずっとそうしてきたように。激情の犯罪。テロリストが人を殺すように。兵士が名誉と祖国愛のために人を殺すように。そこあるのはただ愛なのだ。


 わたしたちのかなしみは、最終的に愛を問題にしなければならない場所のまえで愛を問題にしてしまうことだ。けれど、最終的に愛を問題にしてしまうこともまた、わたしたちのかなしみなんだろうと思う。


 12月30日(月)

 ひさしぶりにゲームをやりたくなったから、ローゼンクロイツ「さよなら、モナーRPG」をやった。ふつうにおもしろいけれど、ふつうにおもしろい以上のものはなかった。「ニュークリア・エイジ」みたいな小説を読んだあとだからなおさら思ってしまうのかもしれないけれど、この程度のRPGならこの作者はたやすくつくれてしまうんじゃないかなと思った。モナー系RPGというひとつのコンテンツの流行の廃れをもりこんだメタ的な展開になっているけれど、そもそも、モナー系にかぎらず、滅びゆくコンテンツにたいしてわたしたちはどう思うのか、どう行為できるのか、ということにたいしての圧倒的な作品提示として「すでに私たちは地獄のまっただ中でした。」があったんじゃないだろうか。「すでに私たちは地獄のまっただ中でした。」という作品は、「タオルケットをもう一度」とおなじように、RPGというものが表現としてひとまわりしたという歴史的な意識のなかででてきたものだと思っていて、そのあとにつくられた作品としては、ずいぶん意識が低いように思えた。
 モナー系というコンテンツということが内輪的なコンテンツであると理解しているのであれば、それを、下降形の螺旋のように描くべきではないと思う。直接的なメタ表現のメタ的な場所に存在しているものがモナー系のコンテンツそのままでしかありえないという現状において、作品内でモナー系の復活を表現として直接的にあつかうのは、ただの自慰にすぎない。純文学表現として、純文学は最高だ、ひとを救いえるんだ、といくら表現したとしても、それが、純文学表現の価値とはなりえないのとまったくおなじように。
 ゆうやけ「margikarman」をやった。雰囲気重視のRPGでは戦闘をどうするのかという問題があると思う。このゲームの戦闘はほとんどイベント戦闘と化してしまうようなかたちでありえていて、わたしは、後半はきつくなっていた。雰囲気があれば対話は必要ない、ということも、ちがうと思う。
 大森兄弟「まことの人々」を読んだ。おもしろい、と思う。うまい、と思う。ていねいにつくられた純文学だ、と思う。てきせつな描写量、読みやすい文章、できごとと心情を文章で書ききらない距離間、適度なおかしみ、合間にはいりこんでいる不穏当な空気感、わたしは、つくづくうまいと思う。だから、わたしはその「うまさ」になにをどう言ったらいいのかわからない。


 12月31日(火)
 
 実家に帰った。
 ジェフリー・ユージェニデス「ヘビトンボの季節に自殺した5人姉妹」を読んだ。なにがおもしろいのかよくわからなかった。文章が詩的で気持ちがわるかったし、語り手は死んでいく5人姉妹について分析的な見かたをずっとつづけていた。語り手がまるで傷つかない場所で描いているように見えた。




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