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見ると見られるという関係の中空で

2014.01.17(22:12)

爪と目爪と目
(2013/07/26)
藤野 可織

商品詳細を見る


 1月4日(土)

 ねむっていた。


 1月5日(日)

 ねむっていた。


 1月6日(月)

 会社にいった。


 1月7日(火)

 会社にいった。


 1月8日(水)

 会社にいった。


 1月9日(木)

 会社にいった。


 1月10日(金)

 会社にいった。


 1月11日(土)

 会社にいった。土曜日だというのに、会社に、いってしまった。


 1月12日(日)

 イスタ展の準備をした。


 1月13日(月)

 イスタ展の準備をするために事務局へいって、せっせと展示品をつくった。帰りにモスバーガーにいって藤野可織「爪と目」を読んだ。読みおわったあとに、その小説についてなにかを書いてみたくなるのがおそらくはいい小説で、だから、この小説はまちがいなくいい小説なんだけれど、この小説にたいして、わたしはなにをどう言ったらいいのかわからない。この小説はわたしの知るかぎりほかのどの小説にも似ていない、けれど、それはわたしの感性のにぶさや小説経験の低さに由来しているだけのような気がする。ほかのなににも似ていない小説を書けるひとなんて、ほんとうにはだれもいないからだ。この小説は2人称と1人称が混在していて、そして、奇妙なことに、そうでありながらも、この小説は3人称よりだと思う。たとえば、わたしは最近たまたまジェイ・マキナニー「ブライト・ライツ、ビッグ・シティ」を読んだ。それは、典型的な2人称小説のかたちをしていて、主人公がすべて「きみ」と呼ばれている。けれど、この小説は「きみ」を「ぼく」と機械的に置きかえたとしてもおそらくはなりたってしまう書きかたをしている。だから、「ブライト・ライツ、ビッグ・シティ」は形式的には2人称だけれど、その内実として、1人称で書かれている。もっと言えば、ほとんどすべての小説の3人称視点はたやすく1人称視点で置きかえることができるし、おおくの小説の入門書では、1人称で置きかえることができる3人称視点を推奨している。小説を書きはじめたばかりのひとは1人称で書くか3人称で書くか、ということでたいてい悩むものだけれど、その3人称が1人称視点で書かれているかぎり、そんなものはどっちだっていいじゃないか、と思う。人称を考える場合、わたしたちがほんとうに問題にするのは形式的なことではなく、そもそも、わたしたちが世界をどう認識するか、ということだとわたしは思う。
 藤野可織「爪と目」は人称的問題だけをとりだしてみれば、かなり複雑だと思う。「あなた」が父親の再婚相手である義理の母、「わたし」がその娘なんだけれど、「わたし」は「あなた」や「父」やほかのにんげんの内面、および、「わたし」が知るはずのないできごとにまで踏みこんで語るくせに「わたし」の内面だけは語らない。


 わたしの証言は、要領を得なかった。ベランダの鍵を閉めたかと聞かれれば閉められる、と返事してクレセント錠のレバーを両手で押したり引いたりしてみせた。お母さんが外にいるときに閉めたかと聞かれても、閉められるし開けられるよ、と返事してレバーを押したり引いたりした。普段とは様子の違うのに興奮して、わたしの頬は赤かった。



 この文章は形式的な意味での1人称ではあるけれど、内実的には3人称的な視点をとっている。「わたし」が「わたしの頬は赤かった。」ということを見ることができるはずがないからだ。これは「わたし」が「母」をあやまってベランダに閉じこめてしまい凍死させてしまったあとの警察の調査の場面だけれど、そのあとに語られる「わたし」が母を閉じこめたときの描写はかなり不気味だと思う。それが不気味なのは、けれど、「わたし」と呼ばれる存在がほんとうには「わたし」ではないからだ。ランボーは「私とはひとつの他者だ」と言った。ここで藤野可織は「あなた」を冷徹なまなざしを向けるとともに、「わたし」にも冷徹なまなざしを向けている。その根底にあるのは、おそらくわたしたちは世界をただしく認識できない、というつよい意志だろう。なぜ世界をただしく認識できないのか、それは、世界というものがほんとうにはただしさを、あるいは、ほんとうの姿を持ってすらいないからだ。わたしの考えでは、すぐれた小説はすべてその場所で描かれている。
 わたしはずっと以前、比喩とは関係性への意志だ、と言った。いまでもそう思っている。けれど、わたしはこの小説を読んで、視点もまた関係性への意志なんじゃないだろうかと思った。「世界泥棒」は、すくなくともわたしは、主人公の女の子の1人称小説ではないと思っている。彼女は彼女が知りもしないことを、彼女が見ていないことを、彼女が体験してすらいないできごとを、語る。彼女が語ることもまた、彼女の関係性への意志からだったんじゃないだろうか。けれど藤野可織がおそろしいのは、関係性への意志が希望の場所からでなく絶望の場所から描きだされていることだ。


 「これでよく見えるようになった?」


 この小説の最後で「わたし」は「あなた」にこう問いかける。けれど、「あなたは答えなかった」。「見る」、「見られる」という関係の中空で、わたしたちは見たくはないものを見るだろう。けれど、ほんとうにわたしたちが見たいと思うものは、もう、それ以外になにもないのかもしれない。
「しょう子さんが忘れていること」、「ちびっこ広場」について、とくに「ちびっこ広場」はすばらしい。けれどわたしは「爪と目」以上になにも言うことができない。わたしは藤野可織がなにを考えてこれを書いたのかまるでわからない。それでも、恐怖小説を純文学で描きだすにはこれ以外のどんなやりかたもないような気だけはやんわりとしていて、こういうものを読んでしまうと、むしろ、藤野可織以外の作家はなぜいままでこういうものを書かなかったんだろうか、とすら思ってしまう。




コメント
藤野可織の「爪と目」よりも
それについて書かれた
この文章の方が凄い、と感じたのは
私だけでしょうか。
なぜこれが書けるのか。
ビックモンスターであると感じます。
以前よくブログを見させて頂いてましたが
その頃よりも更に鋭さを増しています。

Amazonにカスタマーレビューを
書かさせて頂きました。
これこそまさに安全無害なレビューで
あるようにも感じましたが
補足として最後の真っ黒な巡礼の話の部分が
私は一番好きでした。

自らを偽りの詩人と言いながら
優れた詩情を持ち
また優れた批評家(分析家)でもあったのが
三島由紀夫ですが
キャラクター的には違っていても
限りなくそこに近い才能を感じます。
それが多く世間に認められるまでには
もう少し時間がかかるかもしれませんが。
【2014/01/18 11:57】 | coi #MCQq8fME | [edit]
coiさんへ

ありがとうございます。
といっても 僕は ただ
高橋源一郎や保坂和志やジャン=リュック・ゴダールが
言っていたことを べつの作品について
もういちど 言いなおしているだけのことだと
思っています。

僕は藤野可織の「爪と目」のような
作品はおそらく書かないでしょう。
おなじように 藤野可織は
僕が書いているようなことを
わざわざ 書きはしないでしょう。

それを書くのは たぶん
僕がほかのひとよりもずっと
暇だから なんだと 思います。

読んでいただき
ありがとうございました。
【2014/01/19 01:30】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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