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綾門優季「天啓を浴びながら卒倒せよ」@アトリエ春風舎

2014.01.19(19:14)

青い花 (岩波文庫)青い花 (岩波文庫)
(1989/08/16)
ノヴァーリス

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 1月14日(火)

 会社にいった。


 1月15日(水)

 会社にいった。


 1月16日(木)

 会社にいった。


 1月17日(金)

 会社にいった。


 1月18日(土)

 ノヴァーリス「青い花」を読みながら、電車にのってアトリエ春風舎で綾門優季「天啓を浴びながら卒倒せよ」を見た。「青い花」は、ふつうに読んでいるところでは、ノヴァーリスの頭のなかはお花畑なんだろうか、というところだけれど、ふつうに読まなくても、おそらくノヴァーリスの頭のなかはお花畑なんだろう。


「ねえ、マティルデ、永遠の存在とは何かやっと分かってきそうだ」
「ああ、ハインリヒ。あなたはなんて良い方なんでしょう。なんてりっぱなお心が語りかけているのでしょう。わたしはほんのとるにたらない女の子ですのに」
「ぼくのほうこそ恥ずかしいよ。きみがいてくれるからこそ、ぼくというものがあるのに。きみがいなければ、ぼくは無でしかない。天国があってはじめて、精霊が存在する。きみはぼくをしっかりと支え守ってくれる天国だ」



 この会話を、けれどわたしたちは書くことができない。それは、この会話を書くということを支えているものが、詩や良心、あるいは道徳への圧倒的な信頼だからだ。にんげんは自己を高めることによって黄金の世界を築きあげることができる、というにんげんへの信頼だと思う。でも、わたしノヴァーリスがばかだと言いいたいんじゃなくて、問題は、思索を重ねた結果としてこの会話を書くことができるその場所にたどりついてしまう、そのありかたなんだと思う。デカルトは自分が永遠に生きることができればやがて真理に到達するだろう、と思っていた。彼は論理的な手続きの無限の積みかさねで真理に到達できるはずで、にんげんが真理に到達することができないのは、ただたんに、論理的手続きを積みかさねるその時間が圧倒的に不足しているからだ、と考えた。いまのわたしたちはデカルトの考えをあたりまえに支持することができない。わたしたちが疑ってしまったのは真理の存在そのもので、それに至るための手続きではないからだろう。もっと言えば、おそらく、デカルトの考えを支持できないわたしたちはおなじようにノヴァーリスの考えを支持できない。ノヴァーリスの考えを否定することは、わたしの考えでは、デカルトの考えを否定することよりも直感的にはむずかしい。けれど、それはただたんに詩と呼ばれるものをわたしたちが理解していないからだ。詩と呼ばれるものがいまもなお書かれているのはわたしたちがそれを理解していないからだ。
 綾門優季「天啓を浴びながら卒倒せよ」は、前作とくらべて、全体としての作品はうまくいってはいないように思えた。SNSや携帯電話みたいな身近な道具を主題にそえて、だからこそ、それにたいする俗的な言葉を過剰にならべるんだけれど、その身近さが物語、あるいは物語の断片と有機的に結びついていかなかったように思う。それは、たんじゅんにいえば、この演劇の具体性と抽象性の平衡感覚の欠如からくるように見えていて、アフタートークを聞くかぎり綾門優季は意図的におこなっていたらしいけれど、わたしは、抽象性にかたよりすぎているように思えた。ピエロの話はおそらくは余計で、やるならば、ピエロ自体をおそらくは実際に登場させなくてはいけなくて、そうでないなら、それは詩として機能するしかなく、かといって、この演劇は演劇だから詩ではない。綾門優季のつかう言葉は劇的ではなく、文学的だとわたしは思う。それは、けれど、いまの現代文学でつかわれるような言葉をつかっている、ということではなく、彼のつかう言葉はいまの現代文学でつかわれる言葉よりも1772年に生まれたノヴァーリスに近い。彼がノヴァーリスとちがうのは詩がにんげんをより良質にしあたらしい世界を築きあげる、という思想をおそらくはまるで信じていないことだと思う。だから、重要なことは、ノヴァーリスが書いた言葉のような言葉を、ノヴァーリスを信じることなくまだつかうことができる空間が存在している、あるいは、存在させることができる、ということだ。たとえばわたしがやっていることは文学的には後退ではあるけれど、それは、ジョイス以降もう文学的前進に価値がほとんどなくなったからのように思う。中原昌也も綿矢りさも柴崎友香も、書かれる意味はなく、意味に回帰しようとした舞城王太郎をべつとして、おそらくおおくの小説家は意味とはべつの場所、もっと言えば、にんげんの存在の進歩としては無関係の場所で書いているように思う。だから、そこでは古いというありかたが古いというありかたそれだけで否定することはもはやできない。綾門優季の今回の作品でいちばん興味ぶかかったところは、SNS的な進歩の果てに情報を拒絶したくなった登場人物たちがひとつのこたつ(のようなもの)のまわりに集い、対話をなそうとする場面だった。それは、おそらくたがいに携帯電話やLINEでつながりあっていた彼らがはじめて向かいあってにんげん的な対話をなそうとした場面だろうとわたしには感じられた。けれど、決定的なのは、けっきょくのところ彼らはそこでも対話をすることができないということだった。すくなくとも、わたしはあれを対話だとは思えない。彼らはそれぞれひとことずつのせりふを「じゅんばんに」語っていく。しゃべるひとはたしかにまえのひとのせりふをうけてはいるんだけれど、せりふは独白めいていて、言葉は抽象的に拡散していく。そして、最後の場面で再び携帯電話やSNSを使用していたころの日常に回帰していく。あの場面は、90年代的なアニメの手法に酷似していて、「ありえたかもしれないもうひとつの現実」というものを想起させる。あれはほんとうは夢なのかもしれない。問題は、徹底的な対話をへることなく日常へ、あるいは夢としての日常へ彼らが回帰していってしまうことで、けっきょくのところ、ノヴァーリスを信じることがすでにできない彼らも、あるいは彼らを見ているわたしも、それを希望、あるいは継続的な希望だとうけとることはできないと思う。




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