スポンサーサイト

--.--.--(--:--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





スポンサー広告 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]

剥離された肉を愛おしく思うことをやめられない

2014.02.05(21:36)

コレラの時代の愛コレラの時代の愛
(2006/10/28)
ガブリエル・ガルシア=マルケス

商品詳細を見る

隣人のいない部屋隣人のいない部屋
(2013/10)
三角 みづ紀

商品詳細を見る

屋根よりも深々と屋根よりも深々と
(2013/08/10)
文月 悠光

商品詳細を見る

 1月19日(日)

 意気揚々とクリーニング屋さんにいったら、消えていた。あずけていたスーツは、どこにいってしまったのか…。しばらく呆然としてからたちさった。
 ドトールで岩波文庫の「創世記」を読んだ。

 
 カインはその兄弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。そして彼らが野にいた時、カインは突然その弟アベルに立ち向かって彼を殺した。ヤハウェがカインに言われるのに、「君の弟のアベルは何処にいるのだ」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人だというのですか」。

 
 アブラハムはハンサイの薪をとってその子イサクに背負わせ、手に火と刀をとり二人一緒に進んで行った。イサクがその父アブラハムに向かって、「お父さん」と言う。アブラハムは、「はい、わが子よ」と答える。イサクはさらに言う、「火と薪の用意はあるのに、燔祭の子羊は何処にあるのです」。アブラハムは答えて言った、「神御自身が燔祭の子羊を備え給うだろう、わが子よ」。かくて二人はともに進んでいった。


 たとえばノヴァーリスと比較したとき、「創世記」の文体はより現代文学に近いように思う。ひとつめの引用は人類最初の殺人、ひとつめの引用は神に言われるがままアブラハムが息子のイサクを生贄として捧げようとしている場面で、できごとそれじたいは劇的であるけれど、文体は静かな温度をたもったままだ。ノヴァーリスでも、あるいはドストエフスキーでも、劇的な場面を劇的に書くことをこころがけていて、「創世記」のそれとはあきらかにちがう。「創世記」は小説ではないからそこには描写と呼ばれるものはほとんどなく、あるのは物語だけだ。問題は、現代において物語を書くときにわたしたちはノヴァーリスのようにはすでに書くことができないというかなしい事実で、それはきっと、わたしたちがすでに物語の劇的な要素をもはや信じることができないからで、もっといえば、物語の劇的な要素によってにんげんの要素が変容するということを数百年まえとおなじようには信じることができないから、だと思う。レイモンド・カーヴァーやサリンジャーはあきらかにその立ち位置で書き、そのおもむきは、おおきな流れとしてはいまなお変わっていないように思う。村上春樹「海辺のカフカ」を2回めに読んだとき、わたしは「村上春樹はたったひとりで神話を書いている」と言った。問題は、いまなお物語だけを書こうとしたときに、神話としてしかわたしたちが書けないかもしれない、ということで、そのとき、にんげんの内面を劇的に書くことはあたりまえにできない。けっきょく、すでにわたしたちは物語と描写をほんとうに同時に書くことはできなくなっていて、劇的ではないにんげんをせっせと書いて、これがにんげんだよ、と言いつづけているだけだ。わたしは、それを否定しようとは思わないけれど、そのにんげんを信じるにはおそらく、やさしさが必要だ。


 1月20日(月)

 会社にいった。


 1月21日(火)

 会社にいった。


 1月22日(水)

 会社にいった。


 1月23日(木)

 会社にいった。


 1月24日(金)

 会社にいった。


 1月25日(土)

 イスタ展にいった。戦争の話を聞いた。
 ガルシア=マルケス「コレラの時代の愛」を読みはじめた。

 1月26日(日)

 イスタ展にいった。ふらふらしていた。
 ガルシア=マルケス「コレラの時代の愛」を読んだ。

 1月27日(月)

 会社にいった。


 1月28日(火)

 会社にいった。


 1月29日(水)

 会社にいった。風邪をひいた。


 1月30日(木)

 会社にいった。風邪をひきつづけていた。


 1月31日(金)

 会社にいった。風邪をひきつづけていた。


 2月1日(土)

 風邪をひきつづけていた。マルケス「コレラの時代の愛」を読みおえた。とてもおもしろかった。


 2月2日(日)

 風邪をひきつづけていた。ねむっていた。


 2月3日(月)

 風邪をひきつづけていた。振替休日だったから会社にはいかなかった。お昼すぎにおきて、病院へいった。待っているあいだ、ずっとヴォネガット「デッドアイ・ディック」を読んでいた。友達から宇多田ヒカルがイタリア人と結婚したんだって、というメールがきた。


 2月4日(火)

 風邪をひきつづけていたから会社にいかなかった。ずっとねむっていた。ずっとねむったあとにはおきて、ヴォネガット「デッドアイ・ディック」をすこしだけ読んで、三角みづ紀「隣人のいない部屋」を読んだ。


 2月5日(水)

 風邪をひいていない状態になったような気持ちになったからとてもひさしぶりに会社にいった。こんなにもつらいものだとは知らなかった。5時すぎには帰ってドトールにいって文月悠光「屋根よりも深々と」を読んだ。
 三角みづ紀の詩は切断された詩だ、と、きのう、三角みづ紀を読んだときに思った。それは、言葉が、あるいは、言葉というものが肉の一部として肉体から痛々しく剥離していく、ということだと思う。言葉をつむぐ、ということが痛々しいことだと、たとえばわたしは知っているふりをしながらずっと書いてきたように思うけれど、そうであるとき、言葉は言葉でありつづけてしまうのかもしれない。三角みづ紀の言葉が美しいのは、きっと、剥離された言葉が言葉ではなくて肉としてあって、同時に三角みづ紀の言葉が痛々しいのは、その剥離された肉を愛おしく思うことをやめられないから、だと思う。血や肉は言葉ではない。そして血や肉をつかって言葉を書くのではなく、血や肉そのものを言葉だとしてしまうこと、そのことに、わたしはいったいなにを思えばいいんだろう。わたしはきっと底辺の希望しか信じていない。
 文月悠光「屋根よりも深々と」の特異さはあらゆる言葉にしみついた「わたし」の過剰さだと思う。それは、たんじゅんに主語としての「私」のおおさからくる感覚だけではなくて、彼女の文章がかたちづくる印象だと思う。彼女の文章はだいぶつよい調子が書かれていて、それは、あるいは彼女が彼女であるという拭いきれない違和感からくるものかもしれないけれど、わたしは、彼女がつよい調子で語れば語るほどに彼女が彼女のなかにとらわれてしまうような気持ちがした。彼女が背伸びをすればするほど、彼女が彼女の輪郭を破壊しようとすればするほど、彼女が持っている彼女のたしからしさをより鮮明にしてしまうような気がした。でも、それが、わたしにとっていいことなのかわるいことなのか、あるいは彼女にとっていいことなのかわるいことなのか、わたしにもわからない。たんじゅんな言いかたをすれば、すべての小説と「わたし」についての小説であってすべての詩は「わたし」についての詩だ。それは「わたし」が「にんげん」だから、というだけの些細でいながらも圧倒的な理由にきっとよっていて、だから、わたしがときどきフランツ・カフカの小説をとても美しいと思うのは、彼の小説においてはKやほかのにんげんたちがにんげんではなく機械だからだ。彼の小説の特性はきっとつきつめればひとつしかなくて、Kやほかのにんげんがほんとうにはにんげんではないのににんげんらしく動作し会話を交わしているということだと思う。彼の小説がグロテスクなのは機械でしかないにんげんたちがにんげんらしさを発露して、そして、その発露したにんげんらしさにたいしてわたしたちがにんげんをどうしようもなく感じてしまうからだと思う。だから、彼の小説において「わたし」は発現しない。「わたし」そのものが機械でしかないのであれば「わたし」はそこに横たわった「もの」でしかなく、「わたし」とわたしの対話可能性は絶望的であって、そして、わたしはそれを希望と名づけた。わたしたちはいつでも名づけたいんだと思う。名づけおえられてしまったものにたいしてすら、なお。けれど名づけることすらも拒否されるような名づけかたを露わにされたとき、わたしはそれを見て、なにを思い、どんな言葉をかければいいんだろう。




コメント
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://kizuki39.blog99.fc2.com/tb.php/1294-4c90be76
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。