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現実の別名

2014.02.25(00:34)

でらしねでらしね
(2013/11)
小林 坩堝

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注 幾原邦彦「輪るピングドラム」
  かなしみホッチキス「タオルケットをもう一度2」
  以上の物語内容に言及しています。


 2月6日(木)

 会社にいった。


 2月7日(金)

 会社にいった。すいません、帰ります、なぜか僕、ひまなんです、と言ってすたこら帰った。ドトールにいって小説を書いた。


 2月8日(土)

 雪がたくさん降っているような気がして、部屋からいっぽもでないで「輪るピングドラム」を見ていた。


 2月9日(日)

 雪がたくさん降りつもっているような気がして、部屋からいっぽもでないで「輪るピングドラム」を見ていた。
「輪るピングドラム」は、わたしは、とても奇妙なアニメだと思うけれど、その奇妙さは、その奇妙さゆえに、とても言いづらい。端的に言うと、このアニメには物語がない、ということだと思う。わたしが最初に、なにかへんだな、と思ったのは、初期に晶馬と冠葉が苹果を追跡しはじめ、そして、その話が1話、2話という枠のなかにおさまらなかったときだった。けれど、そのときわたしが感じた奇妙さは、苹果を追いかける話がそもそもメインストーリーではないと考えていたことに由来するんだと思う。安易な区分けをあえて持ちだせば、物語にはメインストーリーとサブストーリーというものがあって、たとえば、「名探偵コナン」では黒の組織を追う、というメインストーリーがあるいっぽうで、日常的におこる殺人事件をコナンが解決していく。その「日常的な殺人事件」のおおくは、メインストーリーにはいっさい関係ない。それにもかかわらず、わたしたちは「日常的な殺人事件」をメインストーリーに関係ないという理由だけできりすてることができない。それは、その作品の物語構造のありかたを、そういうものとしてわたしたちが無意識のうちにうけいれているからだと思う。あるいは「魔法少女まどか☆マギカ」にはメインストーリーしか存在していない。この物語では彼女たちの体験すること、そして彼女たちがおこなうすべての動作が物語と関連するものとしてあって、だからこそ、彼女たちは物語的な登場人物として過不足なく物語を生きることができている。それで、「輪るピングドラム」だけれど、この物語のメインストーリーは、陽毬の生命を救うために晶馬と冠葉がピングドラムを手にいれる、というものだけれど、あるいはすくなくともわたしはそう思ったんだけれど、そもそも、これがメインストーリーとして機能していないように思う。ぺんぎん帽子の彼女はピングドラムを手にいれないと陽毬が死ぬと言う。けれど、その時間的制限にはふれないうえに、眞悧がでてきて薬をあたえるようになってから、ピングドラムを手にいれる、という目的じたいがかなり曖昧になってきていて、そのいっぽうで、メインに浮上してくるのは彼らの両親がひきおこした地下鉄サリン事件を思わせる地下鉄のテロ事件で、そして、そのテロ事件においても……やっぱり、このことはこれ以上書かない。
 おそらく、うえにわたしが書いたことはすべてまちがっている。わたしのやりかたはきっとまちがっている。「輪るピングドラム」というアニメについて語るには、ほかの物語構造を参照しそれと比較することで「輪るピングドラム」の物語構造を明るみにする、というやりかたではなしえないことなんだと思う。もしかしたら、印象だけ語ったほうがいいのかもしれない。おそらく、「輪るピングドラム」という作品は、本来であれば1話完結型のほうが適切だろうと思わせる副次的な物語をねじりあげてひとつの貫徹した物語に奇形としてつくりあげた作品、のように思う。それ以上のことは、いまのわたしにはなにも書けない。ただし、それは物語を描くということのやりかたじたいに無自覚ではきっとなしえないことで、しかも、できあがった作品がこれだけすばらしいのであれば、なおさらだと思う。背景として感じるのは、ほのぼの系の日常性への吸引力のようなものだと思う。物語が日常性にかきみだされ、ねじられている。だから「輪るピングドラム」で展開されているものを、わたしは、物語とは呼べない。それは、わたしたちにもっと近く、わたしたちとおなじ程度にはゆがんだ、それほど美しくはないけれど美しく思わざるをえないような、なにかなんだと思う。


 2月10日(月)

 会社にいった。会社の先輩と、なんすかね、これ、さあ、なんすかね、と言いあっていたいたら、10時だった。
「輪るピングドラム」もまた他者性を排除した作品だと思う。いちばん不気味で徹底しているのは、晶馬の男友達で、彼は登場人物として確立されているにもかかわらず、彼の顔が描かれることなく、実質、彼は「友達A」としてしか機能していない。ここで発生している不気味さは、おそらくはたんじゅんで、「友達B」や「友達C」が登場しないことに由来しているように感じられる。わたしは、たぶん、「友達B」や「友達C」が登場していれば、彼の顔もふつうに描かれただろうと思う。冠葉のもと彼女たち、あるいは苹果の友達たちは、物語においてとくべつ重要ではないのに顔が描かれている。それは、真砂子についているメイドのようにギャグ的な要素のために顔が描かれているわけではないと思う。彼女たちはただたんじゅんに「冠葉のもと彼女たち」や「苹果の友達たち」という役割の象徴として顔をあたえられているにすぎない。ぎゃくにいえば、その役割の重要度の低さと彼女たち自身が持つ複数性から、「安心して」顔を描かれているだけにすぎない。いっぽうで、すくなくとも物語においても晶馬においても重要な存在ですらない晶馬の男友達は、おそらくはその単一性ゆえに顔を消されている。彼はにんげんとして成立させられたがゆえに、にんげん性を排除するために、顔を消された。
 わたしは、以前、「まどか☆マギカ」の街が美しいのはにんげんが存在しないからだ、と言った。まどかはワルプルギスの夜がやってきたときに、この街を守りたい、と言った(ような気がする)けれど、彼女が守りたいのはその街で暮らしているにんげんではなく、そのにんげんがにんげん性を排除されて極度に象徴化・美化された背景としての街だとわたしは思う。それでも、きっとわたしたちは彼女をそのことで責めることはできない。わたしたちはきっと、個々のにんげんを愛するよりもその個々のにんげんを抽象化して溶けこませた都市を愛するほうがたやすくできるだろうから。


 銀色の街を往く、中心に暗い公園がある。影のような人びとが、それぞれに、おのおののなすべきことをしている。大抵眠っている。そこへ男たちがやってくる。減菌するための紙切れをばら撒き、静かな口調で語りかける。ガスマスクを被った顔は、表情ひとつ変えることなく通知する、紳士的な、きわめて紳士的な、暴力をふるう。武装した男たちの重装備を見て、誰かが嘲笑った。笑いは伝播して、男たちを取り囲んだ。男たちは、静かに佇んでいる、ガスマスクのガラスの向こうで、かれらの瞳は、蔑みの暗いひかりを放っている。
        ――小林坩堝/パースペクティヴ・パラノイア


 小林坩堝のこの詩は、すくなくともにんげんを愛せないからといってにんげんを排除しようとしてはいない。ここではにんげんたちが街の風景として描かれているけれど、それは、風景的な美しさがそれをながめる登場人物の心象へのただの賛歌になりえていない。風景が自分の心象とは無関係だったとしても、その風景は実在している、という現実がここでは問題にされている。けれど、それは、どちらがただしいとか、どちらがまちがっている、という話ではない。
「まどか☆マギカ」の世界においては、他者性は魔女というかたちで具現化されている。それ以外のにんげんと数人の仲間、および家族たちをのぞけば、彼女たちにとってにんげんはにんげんではなく、ひとつの風景、あるいは都市として観測される。そのとき彼女たち自身ですらひとつの風景、あるいは都市として象徴化されてしまう。けれど「輪るピングドラム」は「まどか☆マギカ」ほど極端ではないように思う。象徴化されたものをひとつの象徴として正面から描いているこそ、すべてが象徴化されるなかにひとつのきしみが生まれているように思う。それは、2月9日(日)に書いた物語のゆがみのなかから生まれてくるようにも思うし、同時に、地下鉄サリン事件を思わせる現実の事件がかなりの不具合をのこしたまま挿入されているそのゆがみのなかから生まれてくるようにも思う。


 2月11日(火)

「LAST EXILE」をひさしぶりに見なおした。正直、なんで見はじめたんだろうと思った。このアニメのすばらしいところは、おたがいの人間関係がどろどろしていくところで、けれど、「バハムートラグーン」におよばないのがおしい、と思う。


 2月12日(水)

 会社にいった。


 2月13日(木)

 会社にいった。


 2月14日(金)

 会社にいった。会社にいったら机のうえに金目鯛がおいてあった。


 2月15日(土)

 もち「おばけと魔法と」をやりはじめた。


 2月16日(日)

 もち「おばけと魔法と」をやった。


 2月17日(月)

 会社にいった。帰って、もち「おばけと魔法と」をやった。


 2月18日(火)

 会社にいった。帰って、もち「おばけと魔法と」をやった。


 2月19日(水)

 会社にいった。帰って、もち「おばけと魔法と」をやった。


 2月20日(木)

 会社にいった。帰って、もち「おばけと魔法と」をやった。


 2月21日(金)

 会社にいった。帰って、もち「おばけと魔法と」をやった。


 2月22日(土)

 もち「おばけと魔法と」をやった。


 2月23日(日)

 もち「おばけと魔法と」を終えた。前作「天使のうつわ」もすばらしかったけれど、この作品は、とくに物語的には前作よりもすばらしかったと思う。それは、とてもすばらしい作品だということだ。
 キャラクターをゆたかに描く、という意味あいにおいては、この作品ほどうまくできている作品は、ほとんどないように思う。ドット絵のキャラクターの表現が、ほんとうにほんとうに、すばらしくよくできていて、感動してしまう。村上春樹がティム・オブライエン「ニュークリア・エイジ」のあとがきで、僕はこの小説の登場人物のだれにも感情移入できない、けれど僕はこの小説の登場人物全員が好きだ、と書いていて、それは、わたしは作品のひとつの達成だと思う。
「おばけと魔法と」というこの作品は、思いきった言いかたをすれば、「タオルケットをもう一度2」とおなじ物語をしている。そして、問題は、というよりも、わたしが問題にしたいと思うことは、「タオルケットをもう一度2」という作品がセカイ系的な部分を持った作品としてあって、そのいっぽうで、「おばけと魔法と」はそんなふうには感じられない、という差異だと思う。
 RPGの世界は基本的に主人公が魔王を倒さないと世界は救われない。主人公が魔王を倒すことは約束されたことで、ゲームオーバーとはその約束をうらぎるということにすぎない。主人公、あるいはプレイヤーに許されうる権利というのは無限の遅延だけで、その遅延はレベルアップからゲームの放棄、つまりは永遠の遅延までふくまれている。けっきょくのところ、主人公にただひとつ許された特権というのは約束をはたすことではなく、その遅延だけにすぎないように思う。「タオルケットをもう一度2」が描いている物語はその遅延を無効化している。「タオルケットをもう一度2」は宇宙人に人類が侵略される物語としてあって、物語を進めれば進めるほど、人類も、仲間も、宇宙人に惨殺されてこまぎれの肉塊と化していく。それを防ぐ手段は、ない。問題は「タオルケットをもう一度2」では遅延がほとんど意味をなさない位置にまでおしやられているということで、遅延が許されない、あるいは、主人公がなにもしない、なにをすればいいのかわからない、という問題が、おそらくはセカイ系的な感触をひきよせている。けれど、ここで呼んでいる、遅延が許されないという状況というのは、ただたんに現実の別名にすぎない。問題は、いっぽうであまりにつらくあまりに救われない現実があるという認識で、だからこそ、セカイ系の物語はそのなかで夢を見る。「タオルケットをもう一度2」の最後の場面では現実と夢が残酷なかたちで対比されている。夢のなか、ここでは主人公はヒロインのこころのなかにはいりこんでいき、彼女とこころをかよわせ、やさしく抱きあう。場面はけれどその直後に暗転し、現実のふたりをうつす。現実では主人公とヒロインは宇宙人に惨殺され血だまりのなかで抱きあったまま死んでいる。願いがかなうかかなわないかは問わない、セカイ系の感触とは現実のなかの夢のこと、あるいは、ゲームというもうひとつメタな媒体を考慮すれば夢のなかの現実のなかの夢、ということになるように思う。
 もち「おばけと魔法と」という物語について、わたしはここでは書かない。同時に、「おばけと魔法と」という作品が、「タオルケットをもう一度」や、あるいは「虚構に咲くユリ」のような作品の影響をうけているだろう、とも思わない。おそらく彼らの問題意識は20世紀の夢をもはや信じることはできないということで、そして、彼らのすばらしさはそれを20世紀の夢をとおしてせつじつに語りなおしているということだと思う。わたしが知っているものは小説や映画や演劇だけだけれど、でも、それでも、わたしはそのどの分野でも彼ら以上のことをやっているとは思っていない。


 2月24日(月)

 会社にいった。帰ってモスバーガーで日記を書いた。




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