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先行してやってきてしまう不理解

2014.03.03(00:38)

スタッキング可能スタッキング可能
(2013/01/18)
松田 青子

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(2010/05/29)
紀伊國屋書店

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 2月25日(火)

 会社にいった。


 2月26日(水)

 会社にいった。


 2月27日(木)

 会社にいかなかった。会社を休んで確定申告にいった。9時からはじまるというので、ひとがいっぱいきてたいへん混雑するというので、8時30分にいこう、と思っていたけれどおきたら9時30分だった。ぐずぐず支度をして家からでて、途中まで歩いたところで印鑑をわすれたと思った。印鑑をとりにもどった。もう終わったな、と思った。でもぜんぜん終わってはいなくて、確定申告はわりあいすぐに終わった。それから紀伊国屋書店にいって奥田亜希子「左目に映る星」、松田青子「スタッキング可能」を買って、ドトールにいって小説を書いた。あきたのでてきとうに歩いて、1ヶ月以上まえに更新期限がきれた部屋の更新料をはらいに郵便局にいった。そのあとべつのドトールにいって小説を書いたり、村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」、「回転木馬のデッド・ヒート」を読んだりしていた。
 ほんとうは「キック・アス/ジャスティス・フォーエバー」を見にいくつもりだったけれど、明日にしよう、と思って家に帰って奥田亜希子「左目に映る星」を読んだ。そのあと松田青子「スタッキング可能」の表題作を読んだ。
「スタッキング可能」という小説を読んで、わたしはすぐにこれは演劇だなと思った。けれどそれは地の文が本谷有希子に似ているだけということでなのかもしれなかった。それでも奇妙なのは、わたしは本谷有希子を読んでいるときに演劇を感じたことはほとんどないにもかかわらず、松田青子を読んだときにはそう感じた、という事実だった。特徴的なのは、ものともの、ひととひととの配置のあいだが空白としてぽっかりあいてしまっているということで、そこを埋めるものは基本的に語り手の自意識とつっこみでしかない。この作品のおもしろさは、端的にいえば語り手の自意識とつっこみがおもしろい、ということになるけれど、わたしが気になってしまうのは、どうしてそうまで自意識とつっこみを積みかさねなくてはならないのかということ、あるいはそのときに生まれてくる奇妙にゆがんだせつじつさのようなものだと思う。小説には、とくに純文学には深い意味がある、ということが一般的に想定されている。だからわたしたちは小説に深い意味を、思想を読みとろうとする。けれどそれはまちがっているわけではない。それはまちがっているわけではない、ということをなんとなく気にいらないわたしたちがただいるだけだ。問題は、この小説で語られていることのほとんどすべてがどうでもいいということだと思う。『わたし』が積みかさねているものはあらゆるどうでもいいことであって、しかもそれは小説の用語でつかわれる「細部」ですらない。ここには「細部」なんていうものは存在すらしていない。だから、「細部」のようなものをどんなにかさねていってもそれが小説的な「描写」にはなりえない。『わたし』に見えているのはただ目のまえにあるものだけで、しかもそれは現実的諸要素を持っているわけではない。だから、ここでおこなわれていることに意味があるとか、意味がないとか、そういうことは問われていない。問題にされるのは積みかさねるということだけで、その無意味性を意味づけるという無意味さに、わたしたちはただ絶望するしかないのかもしれない。
 交換可能性について、松田青子はたぶん明確に嘆いているわけではないように思う。たとえば、だれかとだれかは交換可能なんじゃないか、ということはすくなくともわたしにとってはどうでもいい。自分にとってたいせつなだれかがそのひとである必然性はなく、ほかのひとであってもいい。問題は、その交換可能なだれかにたいしてすらわたしはせつじつさや愛をそそぐことができるかどうかということで、わたしはもう、そんなふうにしか思えない。


 2月28日(金)

 会社にいった。終わって、近くのMOVIXまで歩いていって「キック・アス/ジャスティス・フォーエバー」を見ようと思っていたけれど、なんと売りきれていた。無意味性を意味づけるという無意味さに絶望して帰った。


 3月1日(土)

 気がついたらいちにちが終わっていた。どういうことなのかまるでわからなかった。わにが時間を食べているんだろうと思った。
 しかたがないので村上春樹「東京奇譚集」を読んで、「国境の南、太陽の西」を読んだ。「国境の南、太陽の西」はむかし好きだった女の子と中年になったときに再会して、不倫をしようかどうしようかうじうじ悩む、というだけのどうしようもない小説で、放たれる数々のせりふもそれ以上にどうしようもないんだけれど、問題はなぜこんな程度の小説がこんなにおもしろいんだろうか、ということだと思う。妻は「僕」にあなたはなにもわかっていないのよ、と言う。「僕」もまた妻のことはなにも理解していない、と思う。それは、そうだろう、とわたしは思う。ひとはたがいに誤解しあう程度に理解しあえていればじゅうぶんだ、とヴァレリーだったかだれかが言っていたけれど、そもそも、たぶん村上春樹の小説がこわいのは、理解するという要素がほとんどなにもあたえられないうちに不理解だけが投げかけられるということだと思う。それにだれもかれもが深く傷つき、救いは留保されてしまう。それはたぶん現実的なことなんだろうと思う。先行してやってきてしまう不理解にたいして、彼らは理解について思いなやんでしまう。たぶん彼らが根本的に絶望してしまうのはそのてんで、しかも、それは、たとえば言葉として明確なかたちをとらない。彼らは明確なかたちをとらない言葉をたよりにそれを理解しようとつとめ、その成果によってそれは彼らのなかでたしかに一定のかたちをとるものの、それが現実的な不理解のなかでなにか役にたつものとしてたちあらわれてはこない。現実をとるか、夢をとるか、というふたつの選択のなかにあってすらなお、彼らは現実をとるための不理解あるいは理解を手段として実践的に選択することすらできない。たぶん彼らがあわれなのはそこだろうと思う。


 3月2日(日)

 とりあえずおきてドトールにいって、日記を書いたり小説を書いたりしていた。そのあと、村上春樹「スプートニクの恋人」を読みながら電車にのって、早稲田松竹までいった。エルマンノ・オルミ「ポー川のひかり」、「楽園からの旅人」を見た。
 とてもひさしぶりに、言いかたはわるいけれど、芸術的な映画を見てとてもゆたかな気持ちになることができた。にんげんの顔とか、川の光の照りかえしとか、暗闇のなかに浮かぶろうそくのあかりとか、草のなかを舞うちいさな虫とか、夜の雨降りとか、たとえばそういうものがこくめいにうつしだされていた。わたしは映画についてはなにも知らないけれど、たとえば、オルミとそれ以外のひとで、映像の撮りかたがどうちがうのか、そういうことはなにもわからない。だからなにも言わない。けれど、オルミのこの映画にはっきりと描かれているものは被写体に向けられたあたたかみのあるやさしさだと思う。それは、映像をとおしてつたわってくる、というようなものですらなく、ひとつの映像としてあたたかみのあるやさしさがその部分としてはっきりとらえられているように感じられた。「ポー川のひかり」の主人公は世界中の本よりも友と飲むコーヒーのほうがいいと言い、「楽園からの旅人」の司祭は善行は信仰に勝ると言った。それはけれどせりふではない。それは映像の一部としてあって、あたたかみのあるやさしさの部分としてある。わたしはそのやさしさはとてもとても美しいもののように思う。




コメント
村上春樹さんは優れた作家である、とは確かに思いますが、あの「国境の南、太陽の西」を読んで思うのは、今の日本人には大義のようなものがなさ過ぎる(無くなってしまった)という事です。人間は自由になり過ぎると自由になれないのではないでしょうか。突き詰めたその先にあるのは、結局は破綻でしかないような気がします。

いざ目上の人間(上司、自分の夫等)と接した時に正しい答えが見えてこず、理不尽と不理解が現実化して固定してしまう、それでも人間は何らかの形で「現実」というものを掴み取るのです。よい意味でもたとえ悪い形であったにしても。

自分なんかは現実的な問題として、それではいけないのではないか、といったようにモラル的な観点から捉えてしまいますが、桜井さんはより一つの現象、傾向的な視点から捉えていらっしゃるのかもしれません。
【2014/03/04 05:04】 | coi #MCQq8fME | [edit]
coiさんへ

それについて 僕が言えることはほとんどありません。
問題は そもそも僕が「むかしの日本人」がどうであったかについて
なにも知らない ということだと思います。

僕が興味があるのは というより 考えたいのは
個人的な問題であったり 個人的な問題以前の問題であったり して
そして 僕は 僕の個人的に親しいひと以外に
モラルの問題を持ちだす方法を知ってはいないと 思っています。
【2014/03/18 23:42】 | 桜井晴也 #- | [edit]
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