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青年団「S高原から」@アゴラ劇場、KARAS「空時計サナトリウム」@シアターΧ

2014.03.30(23:29)

盗まれた遺書盗まれた遺書
(2014/03/18)
仙田 学

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英子の森英子の森
(2014/02/10)
松田 青子

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 3月20日(木)
 
 会社にいかなかった。そのかわりに小説を書いた。


 3月21日(金)

 会社にいかなかった。そのかわりに電車にのってアゴラ劇場にいき、青年団「S高原から」を見た。それから小説を書いた。仙田学「盗まれた遺書」、松田青子「英子の森」も読んだ。
 平田オリザを見たのは、そういえばはじめてだったけれど、「S高原から」はおもしろかったと思う。ただ、なにがどうおもしろいのか、ということになると、わたしにはうまく言えないと思う。この演劇はいかにも演劇らしい演劇だと思う。そして、「演劇らしい演劇」というのはけっきょくのところ「目に見えてだれもが指摘できるその演劇独自の部分を持っていない」ということの言いかえにすぎないように思う。うさぎストライプでもワワフラミンゴでもサンプルでもチェルフィッチュでもいいけれど、わたしたちはそれを見ればおそらくだれだってその演劇の外観としての特性を言葉にして言うことができるはずだと思う。問題は、その言いやすさにあって、それは他者を納得させるとともにわたし自身をも納得させるだろうと思う。けれど、わたしが言いたいのは、演劇の外観の特性を言葉にだすということはかならずしもその演劇のおもしろさについて言うことにならないんじゃないだろうか、ということだと思う。でも、それはその演劇のおもしろさを言葉にするということのほんとうの価値をまずは問題にしなければいけない。すくなくとも、「その作品のおもしろさを他者に説明する」ということは、絶望的に無価値だとわたしは思う。
 仙田学「盗まれた遺書」は読みごこちが奇妙な作品だと思う。たとえば、読みやすい、読みにくい、というかたちでむりやり区分けすれば、これは読みにくい作品だと思うけれど、その読みにくさはたんじゅんな文章の難解さによるものではないし、そもそも、この小説の文章はとくに難解なものではないと思う。たぶん、文章として描かれたひととものと文章それじたいのかかわりかたがいい意味で奇妙にゆがんでいるんだと思う。文章についてなにかを語るとき、「強度」という言葉がつかわれることがたまにある。「文章の強度」というのは、独立性とか単独性のことだとわたしは思っていて、もうすこしだけ言えば、「その文章がただその文章それじたいだけでその場所に存在しその状態についてはかったときの価値の高さ」というようなもので、それをわかりづらく言えば、「文章の強度」は「空白との結びつきとの強度」ということになる気がする。空白との結びつきかたは書くひとによってあたりまえにちがっていて、たとえば、今村友紀「ジャックを殺せ、」は、すでに空白を問題にすらしていない。それはもうすこし言えば、すでに「本」という形態をなにも前提としてはいない、ということだと思っていて、そのてんでとても特異だと思う。仙田学「盗まれた遺書」もその空白の結びつきかたがとてもいびつで、べったりとぬりつけているようでいて、けれどじつはその空白からとてもはなれたところから距離をおいて結びついていると思う。そのとき、すくなくともわたしが問題にしたいと思うのはその距離の遠さであって、けれどそうまで遠くてもずっと結びついたままでいるものにたいする、まなざしだ。
 松田青子「英子の森」は、わたしの印象だと、「スタッキング可能」とはずいぶんちがうように思えた。たとえば、ふつうの小説ではひとびとはなにかをがんばっている、そして、そのがんばっていることについてなんらかのせつじつさを抱いている、それは、そのがんばっていることがたとえば世界や社会や他人にすらとどかない、というかたちになっていて、おおくの小説は、その差違をひたすら問題にしている。そして、「スタッキング可能」も基本的にはその差違のありかたを問題にしていたと思う。ただ、わたしはそれがまちがっていると思っていない。それはただそういうこととしてあって、そもそも、そのことをほんとうに書けるひとなんて何人もいない。わたしは、松田青子「英子の森」が描いているのは、その差違のありかたではないように思った。差違をおしつぶしてでてきたせつなさやせつじつさではないものがここには描かれていると思った。松田青子はその差違をおしつぶすことをやめたんだろうと思った。だから、わたしの印象では、この作品はほとんど貴いほどのあかるさと光を持っているように思う。その光はヴォネガットが描いたものでも、タルコフスキーが描いたものでもないと思う。それは、おそらくは人工物とにんげんがたがいに背反しないことを基調とした、暗部のない光だと思う。なんのてらいもない、きらっとした、貴い光だと思う。


 3月22日(土)

 朝おきて小説を書いて、そのあと両国までいった。シアターΧでKARAS「空時計サナトリウム」を見た。佐東利穂子はなんてかっこういいんだろう、とひとしきり思った。




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