スポンサーサイト

--.--.--(--:--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





スポンサー広告 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]

KARAS「ドドと気違いたち」@シアターΧ、鳥公園「緑子の部屋」@3331 Arts Chiyoda

2014.03.31(00:59)

火葬人 (東欧の想像力)火葬人 (東欧の想像力)
(2013/01/23)
ラジスラフ・フクス

商品詳細を見る


 3月30日(日)

 朝おきて、両国までいってシアターΧでKARAS「ドドと気違いたち」を見た。今日は、おきた直後からねむく、電車のなかでラジスラフ・フクス「火葬人」を読んでいるあいだもまだねむく、シアターΧについてからもまだまだねむく、これはねむってしまうな、まちがいなくねむってしまうなと思っていたら、あんのじょう、ねむっていた。ほらね、と思った。佐東利穂子はなんてかっこういいんだろう、とひとしきり思った。そのあとドトールにいって日記を書いた。
 ラジスラフ・フクス「火葬人」は、まだ途中までしか読んでいないけれど、かなり奇妙な小説だと思う。問題になるのは、主人公の男が基本的にだれとも対話をなそうとしないところだと思う。そして、それにもかかわらず男は自分は他者とじゅうぶんに対話をなしていると思っているように見える。彼は、妻に、子供たちに、友人に、職場の同僚に、彼の哲学を、彼の美学を、にんげんの死生観を執拗にくりかえすように語る。けれど、彼のその諸価値観に明確に反対するひとはいない。そして、ほんとうのところではだれもかれもが彼の諸価値観を肯定しているわけではない。彼は彼の諸価値観を彼自身で肯定するかのようにくりかえし語る。けれど、他者がいない場所でおこなわれる彼自身による彼自身の諸価値観の肯定は、けっきょくのところ肯定ではない。たとえば、それは世界と呼ばれる。物語の中盤から、彼は彼の諸価値観にまったく変更をくわえないままナチスに加担し、ユダヤ人を排斥していく。この小説は、たぶんこわい小説だと思う。わたしはわたし自身をなにも変えないまま、あるいは、変えるという実践的で苦痛をともなう過程をへることなく、だれかを殺すことができるだろうか。できる、とこの小説は語っている。たぶん、そうなんだろうと思う。
 秋葉原までいき、3331 Arts Chiyodaで鳥公園「緑子の部屋」を見た。とてもしばらくぶりに、うちのめされたような気がしていた。秋葉原の空は雷がすこしずつ鳴っていて、雨がぱらぱらと降ってはやんでをくりかえしていた。高いビルからあふれだす陽の光よりもあかるい光が夜道に染みだしていて、にんげんのゆがんだ部分を照らしだしていた。グロテスクさ、と呼ばれるものは思いきった言いかたをすればリアルさの言いかえにすぎない。何度も書いていることだけれど、リアルさというのは現実のあらゆるレベルに呼応する。現実がそうであるような表現をしたところでそれがリアルだというわけではないし、同様に、現実ではありえないような表現をしたところでそれがリアルではないというわけではない。現実、と呼ばれているものが実際にどこかにある、ということをわたしは信じていない。現実、虚構という2項対立的な価値観も信じていない。肉体の有無や物質の有無でそれらが現実か虚構かどうかを判定するのはばかばかしいと思う。たとえば、小説と呼ばれているものは虚構だろうか。そして、小説とはどこにあるだろうか。そのひとがそのとき読んでいる小説はそのひとの頭のなかに発生しているものだ、ということを仮定したとしたら、そのとき、そのひとが読んでいる本に描かれた文章はただの文字の羅列であってけっして小説ではない。その文字の羅列とそのひとの頭のなかで発生しているものの相互参照的な運動のことを小説と呼んでもかまわない。これは映画におきかえても演劇におきかえてもいい。スクリーンにうつしだされた光や舞台のうえでにんげんが動いたりしゃべったりしている現象をわたしたちは映画と呼んだり演劇と呼んだりしているけれど、それがそれだけで映画であり演劇であるのであれば、わたしたちがそれをもはや見る必要はない。だれからも見られていない、だれからも告発されない殺人事件はすでに殺人事件ではない。物語と呼ばれるものも同様で、それを虚構だということにわたしはほとんど価値を見出さない。すくなくとも、物語が虚構であればわたしたちが日常的におこなっている、学校にいく、とか、会社にいく、とか、それらいちれんの行動もひとつの物語と規定される。おなじように、それらが虚構であるかぎりわたしたちの恋愛もわたしたちの友情もすべてが虚構としてあるだろう。けれど、もちろんこういった話にほとんど意味はない。けっきょくのところ、そうであるならばすべてが現実として規定するか、あるいは、すべての現実から主観的に拾いあげたものを虚構と名づけていくか、という結論にいきついてしまうような気がする。そしてそれは、もはやわたしの話ではない。わたしはせいぜい、わたしが好きなものやわたしが愛するものだけを現実的だと呼ぶくらいしかできない。
 鳥公園「緑子の部屋」という演劇のグロテスクさを、わたしはこわいと思う。それは、ふつうのにんげんがただの日常のなかでこころのなかにかたちづくってしまうものが奇形として露出してしまっているから、ではない。そうではなく、この演劇のなかで発露されているグロテスクさが、それをグロテスクだと思うわたしというにんげんのグロテスクさまでをふくんだかたちで存在してしまっているからだと思う。それは、生理的な皮膚的なグロテスクな感覚をうける、ということとはまるでちがうありかただ。鳥公園のグロテスクさはものやこころの表面において発生しているのではなく、その内部において発生してしまっている。そういう演劇を、すくなくともわたしはほかに知らない。




コメント
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://kizuki39.blog99.fc2.com/tb.php/1302-d60cf86d
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。