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20歳の国「Don't Be a Stranger!」、うさぎストライプ「学級崩壊」@アトリエ春風舎

2014.05.05(23:16)

イエロー・バードイエロー・バード
(2013/11/08)
ケヴィン パワーズ

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ぼくが電話をかけている場所 (中公文庫)ぼくが電話をかけている場所 (中公文庫)
(1986/01)
レイモンド・カーヴァー

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 3月31日(月)

 会社にいった。


 4月1日(火)

 会社にいった。


 4月2日(水)

 会社にいった。


 4月3日(木)

 会社にいった。


 4月4日(金)

 会社にいった。

 
 4月5日(土)

 小説を書いた。


 4月6日(日)

「スピラレ Vol.2」にのせてくれるというのでいそいそと池袋まででかけてCui?の綾門優季くんと対談をした。いっぱいしゃべったような気がしたけれど、あらためて対談の原稿を読んでみるとぜんぜんちっともしゃべっていなかった。もうしわけない。


 4月7日(月)

 会社にいった。


 4月8日(火)

 会社にいった。 

 
 4月9日(水)

 会社にいった。


 4月10日(木)

 会社にいった。


 4月11日(金)

 会社にいった。


 4月12日(土)

 小説を書いた。


 4月13日(日)

 小説を書いた。


 4月14日(月)

 会社にいった。


 4月15日(火)

 会社にいった。


 4月16日(水)

 会社にいった。


 4月17日(木)

 会社にいった。


 4月18日(金)

 会社にいった。


 4月19日(土)

 小説を書いた。


 4月20日(日)

 小説を書いた。

 
 4月21日(月)

 会社にいった。


 4月22日(火)

 会社にいった。


 4月23日(水)

 会社にいった。


 4月24日(木)

 会社にいった。


 4月25日(金)

 会社にいった。


 4月26日(土)
 
 小説を書いた。


 4月27日(日)

 お友達が、三角みづ紀さんの個展にいきましょう、と言うので東京までいってみた。けれど、三角みづ紀さんの個展は前橋でやっているという話を聞いて唖然とした。そのまま恵比寿までいって前橋からもどってくるお友達と待ちあわせをしてお寿司を食べた。この世界にあるお寿司はすべてまわっているものだと思っていたけれど、その日に見たお寿司はまわっていなくて唖然とした。それがお寿司というものなのかどうかすらわたしには確信が持てなかった。お寿司の話をした。おいしかった。


 4月28日(月)

 会社にいった。今週からゴールデンウィークだよという話を聞いて唖然とした。ケヴィン・パワーズ「イエロー・バード」を読んだ。おもしろかった。


 4月29日(火)

 小説を書いた。


 4月30日(水)

 会社にいった。


 5月1日(木)

 会社にいった。


 5月2日(金)

 会社にいった。


 5月3日(土)

 アトリエ春風舎まででかけて「うさぎストライプと20歳の国」を見た。最初にやっていたのは20歳の国「Don't Be a Stranger!」だった。でも、わたしは、たぶん亀山浩史がでていたからだと思うけれど、うさぎストライプの作品だと思っていて、作品が終わって「つぎはうさぎストライプ『学級崩壊』をやります」と宣言されたときにはじめて気がついた。ゴダールは、脚本というものは映画をつくっているひとたちにこれこれという題名のだれだれが出演してだれだれが監督している作品をいま撮っているんだということを意識させるためのものでしかない、と言っていたけれど、それはきっとほんとうにそうなんだろうとあらためて思った。たとえば批評という行為はつねに過去作品を参照するというありかたをふつうは前提としていて、「あたらしさ」というものを批評はつねにさしだす。けれど、その「あたらしさ」というものも過去を参照してでてくるものでしかない。わたしはそれがだめだとか、そういうものから脱却したいとか、そういうことはいっさい思わない。でも、それは同時に、批評というものはその劇団や演出家やその手法や名声をふくんだ相対的なものにたいして名づけなおされるその名前でしかない、というかなしい可能性をもふくんでしまうんだろうと思う。そしてそのいっぽうでまちがえた過去への接続とともにたちあらわれてくるものも、たとえかんぜんにまちがえたかたちであっても、ありえるんだろうと思う。でも、わたしはほんとうにはまちがえた接続というものを信じていなくて、名づけなおしのかなしみに耐えるまでもなく耐えていくんだろうと思う。
 20歳の国「Don't Be a Stranger!」はいろいろな作品を思いおこした。それは、たとえば岩井俊二「リリイ・シュシュのすべて」だったり、新海誠のいちれんの作品だったり、マームとジプシーのいちれんの作品だったり、「うる星やつら」だったりした。青春というものをいま描くとしたら、せつなさとばかばかしさとどろどろしたものをいっしょくたにつめこんで描く、というやりかたはとてもまっとうだと思う。見ていておもしろい演劇だったと思う。「Don't Be a Stranger!」はうえにあげたどの作品にもすこしずつ似ている。だから、わたしたちはそのせつなさもばかばかしさもどろどろしたものも安心して見て、安心して笑うことができる。そして、そこにもはや手法というものがのこされていないような気も、おなじだけした。
 うさぎストライプ「学級崩壊」は、20歳の国と比較してまっとうなものではない。すくなくとも、わたしにはなにが学級崩壊なのか、なにがおきていて、だれとだれがどういう関係にあったのか、ということもろくに理解することができなかった。彼らはとくに意味もなく紙をまるめ、それをたがいに投げあい、その紙をときにはうけとめ、ときにはふせぐ。それは舞台上で演じられている役者が実際に紙をまるめて投げあうという場面を演じているというわけでもなく、舞台上でおこなわれている物語・場面はその紙の投げあいとは無関係に進行している。問題は、というよりも、わたしが問題にしたいのは、その紙の投げあいに意味がないということではなく、その紙の投げあいによって、とくに投げられているほうのにんげんがたとえようもなく深く傷ついているように見えたことだった。わたしは最初その紙の投げあいをただの舞台上におけるノイズ、雑音でしかないと思った。けれど、舞台が進行とともにくりかえされるその雑音は舞台が進行するにつれとりかえしがつかない傷のように思えてきた。役者たちはその雑音から逃れるためにはやく舞台が終わってほしいと思っているようにすら見えた。わたしは彼らが意味もなく傷つけ、意味もなく傷つけられているように思えた。でも、わたしがそう感じたとすれば、それはおそらくとても現実的なことだった。斉藤マッチュは井上みなみに「愛することができなくても、大事にはできるよ」と言う。それは、たとえばわたしが「世界泥棒」のなかでもくりかえし書いてきたこととおなじことだけれど、問題は、どうにもならないかもしれないにんげんがどうにもならないままで生きていくためのありかたとはどういうことなのか、ということだと思う。救いなんてない。けれど、救われないままでもたのしく生きていくことぐらい、あんがいかんたんにできるような気がする。
 レイモンド・カーヴァー「ぼくが電話をかけている場所」をひさしぶりに読みかえした。カーヴァーはとても孤独な小説を書いていると思うけれど、孤独な、という言葉が安易ににあいすぎてしまいそうな気がして、いつも、なにを言っていいのかよくわからなくなってしまう。この場合の、孤独な、というのはたやすく、やさしさ、というものと結びついてしまう。けれど、それは小説について語るときにそのやりかたはおそらくはよくないと思う。小説のなかににじみだしている孤独について語るなら、わたしは普遍的な孤独ではなく、その小説固有の孤独について語りたいと思う。たとえ表面的には「孤独」というひとつの単語に収束するとしても、その孤独がどういうものなのかを書くことができないのなら、それはなにも書いていないのとおなじはずだ。たとえ、極論としてあらゆる小説やあらゆる詩がほかのなにかの感情や気持ちの思いきった言いかえにすぎないということをみとめるとしても、その言いかえにずっとせつじつさを感じてきたのであれば、それはひとつの価値だろう。
 これらの小説で重要なところは、たとえば、「出かけるって女たちに言ってくるよ」の主人公ふたり、あるいは「足もとに流れる深い川」の主人公にたいし、わたしがなにも言うことができない、ということだと思う。わたしは、彼らに、よかったね、と言うことも、元気だしてね、と言うことも、なんでそんなことをしたんだよ、と言うこともできない。そして、カーヴァー自身も彼らになにも言うことができないように思う。わたしが思う孤独とはわたしが彼らになにも言うことができないということで、そしてわたしが思うやさしさとはカーヴァーが彼らになにも言うことができないということだ。


 5月4日(日)

 母親から、生きていますか、というメールがきた。まだ生きていた。


 5月5日(月)

 カタリバの今村亮さんが、とれたてのほたてがあるので我が家まで食べにきませんか、と漁師のようなことを言うので食べにいった。ほたてを焼いてもらい、ごはんを食べさせてもらい、ビールを飲ませてもらい、コーヒーを飲ませてもらい、帰った。俺は疫病神か、と思った。
 ガルシア=マルケス「族長の秋」、「悪い時」を買った。そのくせ、「百年の孤独」をとてもひさしぶりに読みかえしはじめた。とてもおもしろいと思う。
 小説を買いた。




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【2014/06/11 23:05】 | # | [edit]
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