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愛情についての話

2014.08.13(22:08)

人間不平等起原論 (岩波文庫)人間不平等起原論 (岩波文庫)
(1972/01)
J.J. ルソー

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 8月11日(月)

 会社にいった。


 ロック氏は、女が子供を生んだとき、男が女のそばを離れない一つの動機が、男にとって存在しうるということをせいぜい証明しているにすぎない。しかし、彼は分娩の前や妊娠の九ヶ月の間に、男が女から離れないでいなければならなかったことを少しも証明していない。もし、そういう女がこの九ヶ月の間に男にとってどうでもよいものであり、その上、知られない女となったとするならば、どうして分娩後に彼がその女を助けるだろうか。自分の子供とも知らず、その誕生を自分が決定しも予想しもしなかった子供を育てるのに、彼がどうして彼女を助けるだろうか。ロック氏は、明らかに、疑問になっていることを仮定している。なぜなら、問題は、男がなぜ分娩の後に女から離れないでいるのではなく、彼がなぜ妊娠のあとに女から離れないでいるのかだからである。欲望が満たされてしまうと、もはや男はそのような女を必要としないし、女もそのような男を必要としない。男は自分の行為の結果については、少しも気にかけていないし、おそらくなんの観念ももっていない。一人は一方へ、もう一人は他方へと立ち去り、九ヶ月の後に彼らがたがいに知り合っていたという記憶をもっている様子はない。
             ――ルソー「不平等起源論」


 これは愛情についての話ではない、とすくなくともわたしは思う。


 8月12日(火)

 会社にいった。


 三十年ばかり前にイギリスの宮廷につれてこられた幾人かの北アメリカ人のなかの一人の酋長の話を思い出す。人々はなにか彼の気に入るような贈り物をしようと、彼の目の前へいろいろなものをさし出してみたが、彼の心をひいたらしいものはなにもなかった。われわれの武器は彼には重くて不便なように思われ、われわれの靴は彼の足を傷つけ、われわれの服は彼には窮屈であって、彼はすべてをはねつけた。最後に人々は、彼が、一枚の毛布を取って、それで肩を包んでよろこんでいるらしいことに気づいた。「少くともあなたはこの品物が役に立つことは認めるでしょうね?」とすぐに人々が彼に言った。――「はい」と彼は答えた。「これはけものの皮とほとんど同じぐらいに良さそうに思えます。」それでも、もしも彼が雨の時にその両方を着てみたとしたら、そうは言わなかったであろう。
    ――ルソー「不平等起源論」


 これは愛情についての話だけれど、それはどうでもよくて、かりに、この話を比喩とした場合、小説家の夢は酋長に西洋諸国文明の繁栄をうつしだした贈りものでも毛布でもないものを贈るということだと思う。けれど、現実として、わたしたちはせいぜい毛布程度のものしか贈ることができない。でもそれは価値観の相違という問題じゃない。相手の価値観を思いやることができなかったあわれな西洋諸国の問題でも、西洋諸国文明の価値を理解できなかったあわれな未開の部族の問題でも、もちろんない。小説家の夢は諸価値観を統合させ統合された場所とひとになにかを贈るということではなく、統合されないままの諸価値観を前提として現実に耐えるものをその場所、そのひとびとに現実的に贈る、ということだけれど、サリンジャー「テディ」で、テディが、自分の両親たちについて、彼らは僕たちを変えないことには僕たちを愛することはできない、彼らは僕たちをありのままに愛することはできない、と言っているとおり、わたしたちはたいていの場合、なにかを贈るまえにその贈りさきを変えようとばかりしている。


 8月13日(水)

 会社にいった。
「世界泥棒」という小説について、わたしが思う重要なことは、けっきょくは百瀬も世界の美しさを信じたということだと思う。妹は世界のすべてのにんげんを内部からあやつって世界の美しさをたもとうとしたけれど、それは倫理的に考えてまともじゃない、とわたしは思う。妹がやろうとしたことは端的にいってあや以外のすべての人類を犠牲にしていて、それにたいして唯一批難できる存在であったあやもそのことに気づくことすらできていない。問題はあやが妹のしていることに気づくことすらできていない、というてんで、気づいてさえいれば、もっとべつの可能性があったのかもしれないと思う。妹のしたことは自分勝手な欲望にすぎないでいて、いっぽうで百瀬が見いだした美しさというものもまた妹の自分勝手な欲望にすぎなったように思う。かりに、妹が人類をあやつったあとの世界が妹が見た夢の世界だとして、百瀬はすくなくともその夢の世界を美しいと認識したわけじゃないと思う。百瀬が美しいと思ったのは、あるいは、美しいと思おうとしたのは妹によって構築された夢の世界ではなく、ただすべての人類をあやつってまで美しいものに憧れた妹のそのありかたそのもの、言いかえれば、夢の世界をつくりだすその土台としての局所的な現実性でしかない。「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」であたるが夢の世界からぬけだしたのは、彼が最終回でそうしたように、ラムにたいして「好きだ」ということをうそではなく言うための言いかたを求めた結果としてあって、だから、「うる星やつら」という物語を俯瞰して見たときに重要なのは、「好きだ」ということを言ったという事実ではなく、言うための言いかたを求めている、ということで、そのための手段として「言わない」ということも現実的な手段としてあらわれている。世界、とこの小説のなかで呼ばれているものは百瀬に盗まれるずっとまえに妹に盗まれていたとすれば、百瀬がしたことはなんだったんだろうか。それがつまり、「好きだ」ということの言いかた、ということになるけれど、けっきょくのところ、言いかたについてなにかを言うための言いかたなんてはじめから存在してはいないんだろう。




コメント
 世の中の多くの人々は言い方(またはやり方)、までしか考えていない気がします。それがその後一体どういう効果を及ぼすのか、ということまで思いを馳せていない、それ以前で尻切れトンボで終わってしまっている、と感じます。なので第三者が見た時、えてして違和感を覚えることが多いのではないか、と思います。
 小説の中の各々の登場人物の発している問いは、それとはちょっと違って、それぞれとても純な問いから発せられる美しいもので、私の解釈が正しいか甚だ疑問なのですが、あえて言いますと、おそらく「包み込みたい」感情に近いのではないのかと思えます。そのもの(世界そのもの)に変化はないわけですから、あとは観る人の解釈の相違で「汚く汚れている」、「美しい」ということになるのでしょう。
 物語のエンディングはハッピーエンドか、ジエンドか、と言われれば後者でありましょうが、事実関係そのものだけのエンディングではなく、もっと深層心理内に内在する意識の濁流と破壊、輪廻と再生のようなもので、それが復活、復帰為されたとしても結局は世界のあり方そのものは変わらないということのような気がします。世界がまた新たな美しい息吹を取り戻したとしても。
 朝吹真理子さんの「流跡」も「世界泥棒」も世の中の表面上で起こっていることに対してはもうさほど関心がなく、人間の深層心理深くの出来事や認識の問題、または認識のずれ、差異ということに焦点が移ってきている気がします。時代がそのように変わってきたのでしょうか。自分はもう新しい人間ではないので、そのようなことにはもうついていっていけないような気もしますが、あと蛇足ですが最近太宰治をずっと読み込んでいるのですが、女生徒とはまるで違うだろう、馬鹿親父が、と思いました。長くなりましたがこれで終わりにします。
【2014/08/17 11:52】 | coi #MCQq8fME | [edit]
coiさんへ

コメントありがとうございます。
僕が思っていることは、きっと、大事なのは言いかたであって、小説というものもまた言いかたというものを求めつづけてきた結果としてただあるだけ、のように思います。
よく知らないですけれど、明治の作家のひとたちはただなにかを言うために、いま僕たちがつかっているような言葉をつくりだしたり、あるいはつかいだしたりして、そして、その言葉で僕たちは会話をしたり、仕事をしたり、歌をうたったり、そういうことをしているんだと思います。けれど、そういう言葉をつかいはじめてしまった僕たちは、もう、明治のひとたちがなにを言いたいがためにそういう言葉をつくりだしたり、つかいはじめたりしたのかをなにも知らないでいて、でも、それは、僕たちがつかっている言葉のうちに自然に表現されてしまっているからで、それは、ほんとうにはとうといことかもしれないのに、僕たちはいつもなにかを表現できないとか、言いたいことを言えないとか、そんなようなことばかり言っているように、ときどき思います。
【2014/09/25 23:41】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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