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テレビのまえに座ってそこにうつしだされた戦争の現実性について考える

2014.09.26(00:16)

愛の夢とか愛の夢とか
(2013/03/29)
川上 未映子

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ハルモニアハルモニア
(2013/09/30)
鹿島田 真希

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注 麻耶雄嵩「名探偵木更津悠也」
  麻耶雄嵩「螢」
  イヌハル「箱庭物語2 海の祈り
 「聖戦士ダンバイン」
  以上の物語内容に結末部分をふくめ言及しています。

 8月14日(木)

 会社にいった。
 

 8月15日(金)

 会社にいった。
 

 8月16日(土)

 ゴリッチュ「B.B.ライダー」をやった。


 8月17日(日)

 ゴリッチュ「B.B.ライダー」を終えた。RPGとしてはまるでおもしろくはないこのゲームがとてもおもしろいのは、端的にいって、物語のよさ、キャラクターのよさ、ということになると思うけれど、それは、けっきょくはなんにも言えてはいなくて、だから、わたしはたぶんこのゲームについてはなにも言えないだろうと思う。けっきょくのところ、わたしたちは演出のよさを物語のよさと言いかえているだけで、そして、それをまったくおなじやりかたでャラクターのよさと言いなおしているだけなんじゃないかとときどき思う。問題なのは、キャラクターのよさ、と言ったところで、そもそもキャラクターのよさというものは単独では存在できはしないかもしれないということで、もっといえば、そんなものはそもそも存在すらしていないかもしれない、ということだと思う。それが作品の作品的問題なのか、批評的な問題なのか、わたしにはよくわからないけれど。


 8月18日(月)

 会社にいった。


 8月19日(火)

 会社にいった。


 8月20日(水)

 会社にいった。


 8月21日(木)

 会社にいった。


 8月22日(金)

 会社にいった。


 8月23日(土)

 レナーテ・ドレスタイン「石のハート」を読んだ。描写がここちいい、と思った。
 小説を書いた。「聖戦士ダンバイン」を見はじめた。


 8月24日(日)

 「聖戦士ダンバイン」を見ていた。


 8月25日(月)

 会社にいった。


 8月26日(火)

 会社にいった。


 8月27日(水)

 会社にいった。


 8月28日(木)

 会社にいった。


 8月29日(金)

 会社にいった。


 8月30日(土)

 小説を書いた。「聖戦士ダンバイン」を見た。


 8月31日(日)

 小説を書いた。「聖戦士ダンバイン」を見た。


 9月1日(月)

 会社にいった。


 9月2日(火)

 会社にいった。


 9月3日(水)

 会社にいった。


 9月4日(木)

 会社にいった。


 9月5日(金)

 会社にいった。
 麻耶雄嵩「名探偵木更津悠也」を読んだ。ゆがんだ小説だと思う。木更津は香月にあやつられているだけで、木更津もそのことに気づいているように思えるけれど、そのあやつりから逃れたいと思ったならば、木更津は名探偵でなくなってしまうよりほかにないように思う。そのあやつりをひとつの事件だとするならば、木更津は被害者と名探偵のふたつの役割をうけもっていて、犯人を特定して事件を解決することは木更津自身を被害者からも名探偵からも解放する行為でしかなく、だから、木更津はその事件をけっして解決することはできない。木更津はこの小説のなかでおこっている「どうでもいい事件」をほんとうの意味で解決しているわけではなくて、解決させられているだけのように思う。犯人をあやつっている真犯人がいて、その真犯人が真犯人であるという証拠をあつめきることはできない、というような話が探偵小説にはあるけれど、この小説においては、真犯人があやつっているのは名探偵で、でも、けっきょくのところ、真犯人が犯人をあやつるか名探偵をあやつるかという差違は悲劇性のおおきさの差違でしかないように思う。
 人類最初の殺人はカインによるアベル殺しだけれど、このとき、神は名探偵としてカインを犯人だと決めて、血が流れ悲鳴をあげている大地を証拠とした。名探偵としての役割が神からひとにうつってなお、ひとは神とおなじことをしようとしている。けれど、ひととしての名探偵はもはや悲鳴をあげている大地を証拠としてあげることはできない。
 

 9月6日(土)

 お友達とBATIK「落ち合っている」を見にいった。池袋駅で待っているとお友達がやってきて、お友達は昆布を待っていて、昆布をくれた。わたしのかばんの毛をひきちぎっては、また生えてきますよ、と言ってまたひきちぎっていた。
 BATIK「落ち合っている」は、「おたる鳥を呼ぶ準備」よりも、「おたる鳥を呼ぶ準備」以前のBATIKらしい作品だと思っていて、それはかならずしもいいことではないのかもしれないけれど、わたしはとてもいいと思った。BATIKらしさ、というものについてなにかを言おうとはあんまり思いたくはないけれど、わたしは、「ペンダントイヴ」や「あかりのともるかがみのくず」のような作品がほんとうに好きで、それは、わたしがいままで見てきた舞台のなかでもたんじゅんにいちばん好きで、だから、「おたる鳥を呼ぶ準備」という作品はわたしにはよくわからないでいて、たとえ、それが、わたしの退化でもいいと思えるくらいにはわたしは「ペンダントイヴ」や「あかりのともるかがみのくず」を好きで、そして、それらの作品としっかりとむすびつきあっているように見える「落ち合っている」という作品もわたしはとても好きに思えた。BATIKは、たとえば踊ることで、肉体を、あるいは存在を醜くしようとしているように見える。その醜さは、わたしたちはふつう感覚とか思考とか感情とか、つまり、精神的なめんとしてときどき見るもの、あるいは見ようとしているものだけれど、BATIKのダンスではそれが肉体そのものにやどっているように見える。BATIKはそれを踊っていて、だから、わたしはそれを愛さざるをえないように思う。
 からい鍋を食べた。からい鍋はからかった。


 9月7日(日)

 小説を書いた。


 9月8日(月)

 会社にいった。


 9月9日(火)

 会社にいった。


 9月10日(水)

 会社にいった。それから河出書房新社にいった。
 川上未映子「愛の夢とか」を読んだ。なんの予備知識もなくてきとうなことを書くけれど、ほかの作品ともかく、「三月の毛糸」と「十三月怪談」は村上春樹で、もっといえば、この作品は「神の子どもたちはみな踊る」なんだと思う。けれど、川上未映子はこれらの作品を書きあげるうえで「神の子どもたちはみな踊る」を志向してはいないだろうとも思う。「神の子どもたちはみな踊る」を志向してなにかを書こうとしても「愛の夢とか」を書くことはできないだろうし、同時に、「愛の夢とか」を書いたところでそれが「神の子どもたちはみな踊る」に似ていくこともないだろう。この小説の、というよりも「三月の毛糸」と「十三月怪談」のいちばんの特異さはそこにあるように思う。「神の子どもたちはみな踊る」がなかったとしても「三月の毛糸」と「十三月怪談」は書かれえたかもしれないけれど、わたしが読むそれは、きっと、そうやって書かれた「三月の毛糸」や「十三月怪談」とはちがっているように思う。
 わたしが書いているのは、わたしが読まなかった「三月の毛糸」と「十三月怪談」で、実際に書かれ、そして実際に読んだ「三月の毛糸」と「十三月怪談」とはちがうのかもしれない。でも、ひとはどうやって自分が読んだものについて文章で書きえるんだろうか、とときどき思う。


 9月11日(木)

 会社にいった。
 文章を書くときに「表現を工夫する」ということはだれでもやろうとすることだと思うけれど、そもそも、文章を書くうえではそんなことをしようとすることじたいがまちがっているんじゃないかとなんとなく思った。文章は工夫されたものとしてあるだけで、工夫するものではないように思う。


 9月12日(金)

 会社にいった。「聖戦士ダンバイン」を見おわった。
 たとえば、救われた、救われていない、というふたつで彼らの結末をはかるのであれば、彼らはだれも救われていない。奇妙なのは、彼らが、ショウやマーベルやエレ、あるいはシーラですらも、そのだれもがバイストンウェルという世界を愛しているようには見えないことだと思う。もしも、かりにショウが最後の戦いで戦死しなかったとして、もしも、ショウたちがドレイクたちをうちやぶり、そしてショウにバイストンウェルにいくか、地上にとどまるかの選択肢があたえられたとしたら、わたしはバイストンウェルにいくと思う。けれど、それでもわたしはショウがバイストンウェルを愛していたからだと思えないように思う。ショウははじめて地上にもどったあとに両親や軍からかなり手ひどいしうちをうけているけれど、それはショウにたいするうらぎりですらなかったように思う。ショウは最初から地上を愛してはいなかったし、地上もまた最初からショウを愛してはいなかったように思う。
 たんじゅんに、正義が勝つ、あるいは、ショウのオーラ力がバーンやトッド、ジェリルのものとちがって明確に正義のものだと認識されていればもうすこしちがっていたのかもしれないけれど、結果だけみれば、そうではないように見える。この戦争では、そもそもだれも勝ってすらいない。最後にすべてのオーラマシンをバイストンウェルにもどしたらしいシーラにしても、そうだと思う。結果的に見れば彼らはただ死んでいっただけで、そうだとすれば、バーンだろうとショウだろうと、この物語における価値にちがいはないように思う。彼らはただ戦争をしただけだ。


 9月13日(土)

「機動武闘伝Gガンダム」を見ていた。


 9月14日(日)

 麻耶雄嵩「螢」を読んだ。このなんの意味もない悲劇的なラストはなんなんだろう、と思う。
 むかし、イヌハル「箱庭物語2 海の祈り」をやったときもおなじようなことを思ったけれど、「海の祈り」は救われるかたちのラストをはっきりと明示しておきながら、それをまったく救われないかたちのラストに恣意的に塗りかえていて、問題は「恣意的」という部分だと思っていて、それは物語の必然として導かれているわけではなく、ただたんにそうした、あるいは、作者がそれを快楽として受領してそれをただ表現とした、ということだと思う。だから、そこにはもはや意味と呼ぶべきものはなにもないんだろう。「螢」の人物も「海の祈り」の人物もただたんじゅんに、そして無意味に死んでいく。でも、それは物語的には悲劇ではあっても現実的に悲劇であるわけではないと思っていて、だから、それを悲劇だと呼ばないだけのなにかしらの要素こそがこれらの作品がわたしたちに投げかけてくるものだろうと思う。


 9月15日(月)

 電車のなかで鹿島田真希「ハルモニア」を読んだ。小説において、高級な言葉や表現とか、あるいはそのぎゃくにやすっぽい言葉や表現というものも、そういうものとしてやっぱりふつうにあるんだろうとは思っていて、ふつうに考えれば、高級な言葉や表現をつかって書かれた小説のほうがやすっぽい言葉や表現をつかって書かれた小説よりもより質のたかいものなんだろう、ということになるけれど、鹿島田真希の小説を読むと、やっぱりぜんぜんそういうことじゃないんだな、と思ってうれしくなってしまう。
 アゴラ劇場までいって、うさぎストライプ「デジタル」を見た。こんなことを言ってもどうしようもないとわかっていてもあえて言うけれど、たとえば、戦争というものを考える場合、ふつう、わたしたちがとりえる手段はおおきくわけてふたつあるはずで、ひとつは戦争というものが日常にもたらす閉息感を主題とするもの、もうひとつは海の向こうの戦争にたいしてわたしたちが現実感を持てるかを主題とするもので、もっといえば、前者は古典的な主題で、後者はわりあい近現代的な主題だと思う。そして、「デジタル」がつきつけているのはそのいずれともちがっているもので、彼らは「デジタル」のなかでおこっているらしい戦争の空気に窒息しそうになっているわけでもなく、その戦争に現実感を感じられなくてとまどっているわけではない、とわたしは思う。彼らはその場面におけるただしい言葉を言おうとして言えないでいるだけで、でも、それは、彼らが自分が見ているものと相手が見ているものがちがっているということをほんとうは知っているからで、そして、その場面にふさわしいただしい言葉なんてほんとうにはありもしないことを知っているからだと思う。彼らはいつもなにかを言おうとして、そのすべてに失敗してしまう。彼らは相手の第一声にたいしていつも、「え?」とか、「なにが?」といった疑問文でかえすけれど、彼らはその疑問をほんとうの意味の疑問として放っているわけではなくて、彼らはきっと相手の話を最後まで聞いても相手がなにを言いたいのかわからないだろうということを、おそらくはすでに知ってはいて、それでも、彼らはたがいになにかをしゃべり、なにかを聞きとろうとしているように思う。そこには、ある種のゆるさがあるようにわたしには思う。彼らはそのゆるさによって相手を傷つけてしまって、そして、傷つけてしまったことに傷いてしまうかもしれないけれど、その傷つけてしまったことも、傷ついてしまったことも直接的に戦争とかかわっているわけじゃないんだろう。重要なのは、彼らがそのゆるさをうけいれつつも彼らがかつて思っていたことやいま思っていることにつねに回帰していくその動きのうつくしさと、その回帰によってつねにその場所にまきこまれるようにもどっていく戦争の描かれかただと思う。わたしはそのゆるさを彼らのよわさだとは思わない。問題はそんなふうにしてしか生きていくことができない彼らのありかたで、その彼らが感じているせつじつさだと思う。この演劇をまえにすれば、テレビのまえに座ってそこにうつしだされた戦争の現実性について考えているひとたち、そして、その光景を思いおこされる表現は、それじたいがすでにせつじつさを欠いてるのかもしれないと思った。




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