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へだてられたものと場所と時間への祝祭

2014.09.29(00:52)

寝相寝相
(2014/03/28)
滝口 悠生

商品詳細を見る


 
 9月16日(火)

 会社にいった。
 「機動武闘伝Gガンダム」を見た。


 9月17日(水)

 会社にいった。
 「機動武闘伝Gガンダム」を見た。


 9月18日(木)

 会社にいった。
 「機動武闘伝Gガンダム」を見た。


 9月19日(金)

 会社にいった。
 「機動武闘伝Gガンダム」を見た。


 9月20日(土)

 麻耶雄嵩「貴族探偵」を読んで、滝口悠生「寝相」を読みはじめた。


 9月21日(日)

「Gガンダム」を見おえた。13回くらい泣いた。
 

 9月22日(月)

 会社にいった。モスバーガーにいって小説を書いたり、小川洋子「人質の朗読会」を読んだりしていた。



 9月23日(火)

 会社にいった。モスバーガーにいって小説を書いたり、小川洋子「人質の朗読会」を読んだりしていた。


 9月24日(水)

 会社にいった。モスバーガーにいって小説を書いたり、小川洋子「人質の朗読会」を読んだりしていた。


 9月25日(木)

 会社にいった。
 家に帰って、小川洋子「人質の朗読会」を読みおえた。小説を書くことがうまいひとが小説をうまく書くと、なるほど、つまり、こんなふうなことが書けるんだな、と、きみょうなかたちで感心した。


 9月26日(金)

 会社にいった。モスバーガーにいって小説を書いたり、滝口悠生「寝相」を読んだりしていた。


 9月27日(土)

「FF用語辞典Wiki」を読みあさっていたらいちにちがすぎさっていて、愕然とした。ひとはいったいどうしてそんなふうな休日をすごすことに耐えてしまえるんだろうか。ハリカルナッソスがハルカリナッソスではないことをたとえ知ることができたとしても、それだけでそのひとのこころはゆたかになりえるんだろうか。


 9月28日(日)

 ドトールにいって麻耶雄嵩「メルカトルと美袋のための殺人」を読みおえて、それから、滝口悠生「寝相」を読みおえた。 


 竹春の背中は、いろんな濃さの染みが重なり合い、混じり合っていた。その場所場所で全然違う色をしながら、背中全体の質感はつるりとなめらかだった。実際に手を置いてみると、表面的には平らでありながら、肌理や温度はやっぱりどこも違っていて、縦横にすべらせると有機的な凹凸があった。驚くほど固い部分もあれば、崩れそうにやわからい部分もあり、手のひらの先にあるのはたしかに骨と肉と皮、人間の体なのだけれど、そこからなつめの体に流れこんでくるのは、長さでも、記憶でもない、なにか物と化し、脈打つような竹春の時間だった。なつめの知らない、幼い頃や若い頃の竹春が体のなかに入りこんでくるように思え、なつめは嫌悪ではなく物理的な抵抗として、吐き気を覚えた。


 滝口悠生「寝相」におさめられたみっつの小説の根底にあるのは、きっと、その小説のなかでそのひとが見ているものとその小説のなかにある実際にそうであるようにあるものはちがっている、という積極的でいてあたたかな認識だと思う。でも、それは、小説、あるいは文学と呼ばれるものであれば、ごくごく基本的な、けれど重要な要素で、小説と呼ばれているものを開けば、そこに存在しているひとたちは、自分が見ているものがたいていの場合なんなのかわかっていなくて、そして、自分が会話をしている相手がなにを言っているかもわかっていない。それを気にしないまま生きているひとたちがいて、いっぽうで、それを気にするあまり孤独を感じてしまうひとたちがいて、わたしが小説について現実的だと思えるのも、彼らがなにを見ているのか、なにを話してなにを聞いているのか、彼ら自身でさえわかっていないように思えるところだと思う。小説はどんなに描写をかさねてもそれが本来描こうとしていたものに似ていくことはきっとあまりなくて、そのぎゃくに、本来描こうとしていたものとはまったくべつなものを現実的なものとしてそこに発生させてしまうかもしれなくて、そして、小説のなかのひとたちは、それを、そこにあるものとして理解して、そしてふれて、もともと彼らの目のまえにあったはずのものから遠くへだてられてしまうのかもしれない。わたしは、それがあわれだとか、そんなふうに思うことはなくて、現実、とわたしたちが呼んでいる場所と時間のなかでもそれはそうなっているんだから、そのことをぜんぶひっくるめて、現実的だと思っているような気がする。
 ふつう、小説家はそんなふうにへだてられてしまうということをちゃんと認識していて、そして、それは危機的なことなんだよという顔をして、そのへだてられてしまうことを孤独やせつなさの到来として描きだすことをずっとやりつづけていて、わたしは、それがほんとうに好きだったんだけれど、滝口悠生の小説が特徴的なのは、きっと、そういう、目のまえにあるへだたりを空間の一部としてそのなかに埋めこんでいて、それが、隠されたものではなくふつうに目のまえにあるものとして提示しているところで、そして、孤独やせつなさではなくて、祝祭めいた幸福の感覚をもたらそうとしているところだと思う。




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