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あの場所に響いていた音楽のその響きかたとか、彼女たちがさけんでいるその声とか、ずっと壁にたいあたりをつづけていたあの女のひとの気持ちとか

2014.10.20(23:34)

論理哲学論考 (岩波文庫)論理哲学論考 (岩波文庫)
(2003/08/20)
ウィトゲンシュタイン

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大好きが虫はタダシくんの―阿部共実作品集 (少年チャンピオン・コミックス)大好きが虫はタダシくんの―阿部共実作品集 (少年チャンピオン・コミックス)
(2013/01/08)
阿部 共実

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 9月29日(月)

 会社にいった。


 9月30日(火)

 会社にいった。


 10月1日(水)

 会社にいった。
 モスバーガーにいって小説を書きはじめてやめて、松田青子「英子の森」を読みかえした。おもしろかった。

 
 10月2日(木)

 会社にいった。


 10月3日(金)

 会社にいった。


 10月4日(土)

 時間が飛躍した。


 10月5日(日)

 素粒子が回転をはじめた。
 川上未映子「すべて真夜中の恋人たち」を読みおえた。おもしろかった。


 10月6日(月)

 つよい風が吹いていたので、会社にいった。
 ソローキン「親衛隊の日」を読みはじめたけれど、最初のほうからさっぱりわからないから読むのをやめた。


 10月7日(火)

 会社にいった。
 阿部共実「空が灰色だから」がどうしても読みたくて、てくてくてくてく歩いて本屋さんにいったけれど、どうしてか売っていなくて、かわりに最果タヒの「死んでしまう系のぼくらに」を買って、それからドトールにいって小説を書いた。
 関係ないけれど、暁方ミセイの「ウィルスちゃん」をいつか買おういつか買おうと思って3年くらいがたっていて、もうぜんぜん売っていなくてとても後悔している。

 10月8日(水)

 会社にいった。


 10月9日(木)

 会社にいった。


 10月10日(金)

 会社にいった。そして家に帰ったら夜があけていた。


 10月11日(土)

 森下スタジオまでいってBATIK「ペンダントイヴ」を見た。「ペンダントイヴ」で彼女たちは泣きながらおどっていて、すくなくとも、いちばんまえで見ていたわたしは彼女たちの目が泣いていると言えるくらいに濡れているのを見ることができていて、だから、わたしはBATIKを見るといつもどうして彼女たちはこんなになってまでおどろうとするんだろうと思ってしまう。「こんなになってまで」といういまわたしがつかった言葉が彼女たちのおどる踊りのそのくるしさをあらわすとは思わないけれど、「こんなになってまで」というわたしがつかっているという言葉の意味がわかればBATIKについてなにかがわかるようになるのかもしれないとも思う。でも、「こんなになってまで」という言葉を多様な言葉をつかって言いかえたりあるいはぴったりとした比喩をつかってそれを表現したり、ということができたとしても、わたしは「こんなになってまで」というわたしが思ったそのことを言いあらわしえたとは思わないだろうし、まして、それが他者に共有されるなんて思わないような気がする。わたしは文章を書くことがそういうことだとは思ったことはきっといちどもない。あの場所に響いていた音楽のその響きかたとか、彼女たちがさけんでいるその声とか、ずっと壁にたいあたりをつづけていたあの女のひとの気持ちとか、たとえばそういうものを言葉をつかって言いあらわしたとしても、そうやってつくりだされた言葉とか文章とか、あるいは詩とか小説とか、そういうものはあの時間にあの場所でおこりえたものとかまるでちがってしまうはずで、そうやってちがってしまうことはBATIKにとってではなくわたしにとって、あるいはわたしの文章にとって絶望なのかもしれないけれど、その絶望を絶望ではなくする方法があるはずなんだと思うことくらいはそれでもできるのかもしれない。

 
 10月12日(日)

 会社にいった。会社にいってしまった。


 10月13日(月)

 会社にいかなかった。


 10月14日(火)

 会社にいった。


 10月15日(水)

 会社にいった。


 10月16日(木)

 会社にいった。


 10月17日(金)

 阿部共実「大好きが虫はタダシくんの」を読んだ。「空が灰色だから」はまだ読んでいなくてこれから読むつもりだけれど、「大好きが」を読むかぎり阿部共実にとって重要なことはたぶんそれがどんな感情であれ短いページのなかで感情を表出させていること、あるいは、それとほとんどおなじことなのかもしれないけれど文学的じゃないこと、だと思う。「あつい冬」がわたしはいちばん気になっていて、学校にうまくなじめていない女の子ふたりが道ばたで漫才の練習をしているとかたほうの女の子が暑さで溶けて消えてしまって、のこされた女の子がなんでやねんとその現象じたいにつっこみをつづけて、つっこみをつづけているうちにその女の子が溶けて消えてしまったことをすこしずつうけいれていって最後には道にうずくまって泣いてしまう、という、わたしとしては文学的に見えるお話なんだけれど、阿部共実は泣くのをこらえながらつっこみをつづける女の子をとおして文学的なものをほとんど無効化しているような気がする。直接的な感情表出表現は避けるということが文学的だ、ということはなんとなく共有されているだろうとは思っていて、けれど、直接的な表現を避けたところでそれが文学かどうかはぜんぜんべつの問題だからそれならどうしたらいいんだろうということから小説でもマンガでも書きはじめないといけないとわたしは思っていて、このマンガのすくなくとも最後の3篇はそういう地点で書かれている、というより、いったん文学的になされたものを無効化するという運動みたいなものがこの3篇にはあって、たのしい。
 麻耶雄嵩「翼ある闇」をひさしぶりに読みかえして、「夏と冬の奏鳴曲」よりもずいぶんまっとうな小説じゃないかと思った。


 10月18日(土)

 ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」を読んで、ラッセル「哲学入門」を読んだ。
 わたしはこれらの本を読んでもほとんどなにもわからなかったけれど、読んですぐにわかるだろうと思って読んだわけでもないからそれはよくて、だからいまわたしが問題としたいのは、わたしがわからないと思っているそのことはいったいどういうことなんだろう、ということなのかもしれない、ような気がする。
 たとえば、「哲学入門」でラッセルはヘーゲルについて以下のとおり書いている。


 ヘーゲルの中心的テーゼは次のものである。すなわち、唯一無二の全体に達しないものはいずれも断片的であり、そしてまた世界全体の残りの部分によって補われないかぎり存在しえないのは明らかだ、ということである。(中略)実在の断片は一見、互いに切り離されてあるように見えるが、いわばいくつもの鉤を持っていて、それをとなりの断片にひっかけている。そしてひっかけられた断片が今度はそのとなりの断片に、という具合にどんどんつながっていき、宇宙全体が復元されるのである。断片が本質的に持つこの不完全性は、思考の世界と事物の世界の双方に等しく見られるとヘーゲルは言う。思考の世界については、抽象的であったり不完全だったりする観念はいずれも、その不完全性を忘れるなら、私たちを矛盾に巻き込むものだということが分かる。そしてこの矛盾は、元の観念をそれと対立する観念――あるいはアンチテーゼ――に変えてしまう。この矛盾から逃れるためには、元の観念とそのアンチテーゼを統合する、不完全さの少ない新たな観念を見つけ出さなければならない。だがこのあたらしい観念は、元の観念よりは不完全さは少ないとはいえ、依然としてまったく完全というわけではなく、そのアンチテーゼへと変えられてしまうことが判明する。そこでさらに新たな統合がなされなければならなくなり、そしてそこからまた、というようヘーゲルはどんどん突き進み、最後には「絶対観念」に到達する。ヘーゲルによれば「絶対観念」にはいかなる不完全性も対立物も、さらなる発展の必要もない。それゆえ絶対観念は、絶対的な実在を記述するのに適切な観念である。しかしそれより下位のすべての観念は、限られた視点から見た実在を記述するに過ぎず、唯一無二の全体を一望の下に収めるものにとって実在とはどのようなものかを記述していない。ここからヘーゲルは、次の結論に到達する。絶対的な実在は一つの調和した体系を形成し、それは時間の中にも空間の中にもない。そしてわずかな悪もそこにはなく、完全に合理的で精神的である。私たちが知っている世界はこの正反対であるように見えるが、それはひとえに私たちが宇宙を断片的に、その部分をばらばらに見ているためであることを、論理的に証明できるとヘーゲルは信じていた。神ならばそうするであろうように宇宙を全体として見るならば、空間、時間、物質、悪、そしてあらゆる努力や闘争が消え、かわりに永遠で完全な、変化のない精神的な全体が見えるはずだ。


 たぶんだけれど、わたしはこの文章を読んで、そして理解していると思う。わたしが理解できない単語はここにはひとつもないし、ここで書かれていることを頭のなかにイメージもできていると思う。でも、わたしはここに書かれていることをわかったとはちっとも思わなくて、けれど、それは原典にあたっていないからだとか用語の意味を理解できていないからだともうまく思えてはいないような気がする。


 二     成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である。

 二・〇一  事態とは諸対象(もの)の結合である。



 わたしにはウィトゲンシュタインのこの文章もわからない。この文章は、たとえば、ラッセルがヘーゲルについて書いたことをわたしが理解したと感じたのとおなじやりかたで理解したと感じることはきっとすぐにはむりだろうとわたしには思えていて、それは、けれどたんじゅんにここで言われている「事態」とか「対象」とかあるいは「事実」という言葉をたぶんウィトゲンシュタインがつかっているようにはつかっていないからで、だから、わたしはそれらの単語を知っていてもウィトゲンシュタインが知っているようには知らないし、わかりもするはずがないように思う。
 ウィトゲンシュタインの文章をわからないと思うときのわたしの「わからない」とラッセルが書いたヘーゲルについての文章をわからないと思うときの「わからない」、そのふたつはおなじ言葉としてわたしはふつうに書いているけれど、そのないじつはきっとぜんぜんちがっていて、わたしがいまなにかを言いたいと思っている「わからない」はふたつめの「わからない」なんだと思う。
 いまは関係ないけれど、ウィトゲンシュタインのつかっている「事態」という言葉をウィトゲンシュタインがつかっているようにわたしが理解すればウィトゲンシュタインが言っていることをわかるようになるんだろうかと考えてみても、わたしはわかるようになるといまは思えてはいなくて、それは、たんじゅんにわたしはそのときヘーゲルについて書かれた文章についてわからないとおなじようなやりかたでウィトゲンシュタインもわからないと思うだけだと思っているからのような気がする。


 およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。


「論理哲学論考」の序文のこの言葉もわたしにはわからない。それは、ウィトゲンシュタインがなにを言おうとしてこれを書いているのかがわからないからというわけじゃなくて、もう感覚だけで書くけれど、「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。」ということがどういうことなのかがわからないんだと思う。時間も空間も文章の意味そのものも意味的つながりも文脈も、そのどれも欠いているわけじゃないのにわからない、というこの感覚だけをたよりになにかを、そのなにかっていうのは小説や詩をふくんでいるけれど、そういう感覚だけをたよりになにかを読んでいくしかないのかもしれない、ということもいったいどういうことなんだろう、とときどき思う。




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