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わたしの海とか石とか樹木とか、てにをは、とか

2014.10.23(01:05)

詩とはなにか―世界を凍らせる言葉 (詩の森文庫)詩とはなにか―世界を凍らせる言葉 (詩の森文庫)
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吉本 隆明

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暮れていく愛暮れていく愛
(2013/05)
鹿島田 真希

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 10月19日(日)

 吉本隆明「詩とはなにか」を読んだ。


 自己は自己に憑いた、意識は励起状態で言葉を表出した。そこでは散文の場合とおなじように海とか石とか樹木とかいう言葉がつかわれ、また「てにをは」がつかわれる。外観からは詩の言葉は何の変哲もないのである。しかし、詩では海とか石とか樹木とかいうように指示性の強いことばさえ意識の自発的な表出――叫びのような機能を高度に負わされ、また「てにをは」のような指示性のないことばさえ、高度の指示的な役割を負わされるというような矛盾が交響している。


 BATIKの「ペンダントイヴ」を、たとえばわたしは詩だと思っているわけじゃないけれど、それは散文でもなくて、だからわたしがどれだけBATIKのことを書いたとしてもそれがBATIKになるわけじゃない。BATIKの「海とか石とか樹木」や「てにをは」がかりにわたしにとって詩のようなものであったとしても、それを書いたわたしの文章の「海とか石とか樹木」や「てにをは」がBATIKの「海とか石とか樹木」や「てにをは」とおなじ働きをするわけじゃない。重要なのはもうそういうことでしかない気がずっとする。BATIKについて書いた文章がBATIKになるということがBATIKについて書くということじゃないということはわかるけれど、BATIKのことをどれだけ書いたところでその文章がBATIKに接近していくわけじゃないとしたら、それなら、その文章はいったいなにになろうとしているんだろう。だれもがパラジャーノフが「ざくろの色」を撮ったようなやりかたでサヤト・ノヴァについては書くことはできないに決まっているのに。
 鹿島田真希「暮れていく愛」を読みはじめて、「パーティーでシシカバブ」でいきなりびっくりした。死ぬほどどうでもいい会話が最初から最後までつづいているだけの小説で、わたしには鹿島田真希がいったいなにを思ってこんなものを書いたのかもわからないけれど、それなのにこんなにおもしろいなんておかしいことだって思った。たとえば、この小説の文章にある会話と会話の切断のされかたはすさまじいと思う。この小説の会話は「だから」とか「でも」とか「それで」とか「そこで」とかそういう言葉でばきばきにゆがめられていて、というより、ぐにゃりとおれまがっていて、しかも、そのおれまがったさきでまたべつの会話や会話的な行為につながってしまう。問題はつながってしまうそのことじたいで、この小説はそんなふうに会話がつながってしまうことそれじたいだけを希望や駆動力として動いてしまうように思う。おれまがったそのさきになにもなかったらこの小説はほんの数ページできっと終わってしまうはずで、そして、そこで終わっちゃいけない理由もほんとうにはなにもないように見えるのに。でも、それでもそれは彼女たちの会話の意味がわからないということじゃないし、会話の意味やつながりが崩壊しているというわけでもなくて、わたしには彼女たちが話していることがわかってしまって、しかも、ほかのほとんどの小説にでてくるひとたちよりも彼女たちのほうが話をすることができるように思ってしまって、だから、この会話はわたしたちがぜったいにしないようなやりかたでなされていたとしても、わたしたちがしているようなやりかたとおなじぐらいには現実的なんだと思う。


 10月20日(月)

 会社にいった。モスバーガーで日記を書いた。
「語りえることはすべて明晰に語りえる、語りえないものについては沈黙しなければならない」とウィトゲンシュタインは言っていて、「論理哲学論考」で彼はすべての哲学の問題を解決したと思ったと「論理哲学論考」の訳者あとがきには書いてある。


 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。


 たとえば、これとおなじ言葉をミラン・クンデラも言っている、と高橋源一郎がどこかで書いていたように思う。
 ウィトゲンシュタインがやっていることは世界の限界の提示で、その限界のなかでは語りえることはすべて語りえる、そしてそれは語りはじめた瞬間に語りおえてしまうようなありかたをしている、ということだと思うけれど、そのとき、語りはじめてから語りはじめる小説も、あるいはわたしたちの日常的な会話も、すべては世界のそとがわから語られたり、しめされたりしているんだろう。


 善き意志、あるいは悪しき意志が世界を変化させるとき、変えうるものはただ世界の限界であり、事実ではない。すなわち、善き意志も悪しき意志も、言語で表現しうるものを変化させることはできない。
 ひとことで言えば、そうした意志によって世界は全体として別の世界へと変化するのでなければならない。いわば、世界全体が弱まったり強まったりするのでなければならない。
 幸福な世界は不幸な世界とは別ものである。



 たとえば、ほとんどすべての小説や日常的な会話が世界のうちがわで部分の変化を求めて、そしてそれを幸福と呼んでいるだけだとしたら、わたしたちはいったいなにを書いて、なにをしゃべっているんだろう。


 10月21日(火)

 会社にいった。


 10月22日(水)

 会社にいった。阿部共実「空が灰色だから」を3巻まで読んだ。鹿島田真希「暮れていく愛」を読みおわって、津村記久子「婚礼、葬礼、その他」を読みおわった。おもしろかった。




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