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そうやってふれてしまった理解へのなまぬるい感触みたいなもの

2014.11.10(02:02)

闇の中の男闇の中の男
(2014/05/30)
ポール オースター

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すみれすみれ
(2012/06)
青山 七恵

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ファイナルガールファイナルガール
(2014/03/21)
藤野 可織

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奇跡も語る者がいなければ (新潮クレスト・ブックス)奇跡も語る者がいなければ (新潮クレスト・ブックス)
(2004/11/25)
ジョン・マグレガー

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注 ポール・オースター「闇の中の男」
  はきか「ルインズワルド」
  スクウェア「クロノ・クロス」「クロノ・トリガー」
  以上の物語内容に言及しています。


 10月23日(木)

 会社にいった。


 10月24日(金)

 会社にいった。


 10月25日(土)

 柄谷行人「倫理21」を読んで、アゴタ・クリストフ「どちらでもいい」を読んで、ポール・オースター「最後の物たちの国で」をひさしぶりに読みかえした。


 10月26日(日)

 はきか「ルインズワルド」をやった。


 10月27日(月)

 会社にいった。


 10月28日(火)

 会社にいった。


 10月29日(水)

 会社にいった。


 10月30日(木)

 会社にいった。


 10月31日(金)

 会社にいった。
 はきか「ルインズワルド」を終えた。わたしが言うことじゃないとわたし自身でも思うけれど、物語というのは論理的なんだということをこのゲームをやってとてもつよく思った。たぶん物語というのは人物の志向によってつむがれていくもので、その志向と時間と空間とのからみあいを物語としてわたしたちは感じているわけで、その志向だけでも時間と空間だけでもそれは物語としては機能しないで、つまりただの設定として終わってしまう。人物の志向と時間と空間をどうやってからみあわせていくかということのもっとも根幹としてあるのは論理で、論理というか、それはいまこの人物はこう思っているからつぎはこう行動することにしたというだけのことなのかもしれないけれど、とにかく、そういうことのたんじゅんなつみかさねにすぎない。「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」がわからないのはわたしたちがシンジ以外のそれがわからないからというだけのことで、もしもわたしたちがそう思えないのならそれは設定とされているものが複雑だからにすぎないと思う。
「ルインズワルド」においてカイツはロウにラニエを殺さないでくれと言う。カイツがラニエを殺されることをよしと思っていなかったことはあきらかで、ロウがけっきょくはラニエを殺そうとすることもあきらかなのに、カイツはこの状況にたいしてなにも対策をうとうとはしない。ロウはラニエを殺しにきてそのはじめとしておそらくはくちふうじとしてカイツを殺し、そのあと3対1で戦うのは不利だと感じてその場所を去ったはずなのに、ラニエがカイツの死に落ちこんで家でひとりきりになったときですら襲ってこない。そして仲間もラニエがロウにねらわれているのを知っているはずなのにそのことにたいしてなにも対策をしない。そしてけっきょくはロウもあとになって3対1で戦いを挑んでくる。
 問題は、彼らの志向と彼らの行動がまったく一致していない、あるいはすくなくとも一致していないとわたしに思えてしまうということで、こうなってしまうのは物語をさきにつくってしまっているからか、あるいはつくられた物語にたいして人物をあてはじめたときにその物語をつくりなおすことをしなかったから、ということなんだと思う。物語というものがもしもわたしが言ったように人物の志向と時間と空間のからみあいなのだとしたら、「物語をさきにつくる」ということはほんとうには不可能なことで、かりにつくったとしても(そしてそのときつくられたそれはそのひとが物語だと思ったとしても設定にすぎないんだけれど)、わたしたちは実際に作品をつくるときに物語をつねにつくりなおさなければいけない。物語の強度というのはそうやってつくりなおされることにわたしたちがどうやって耐えられるか、その部分によってすくなくともその部分をはかられているような気がする。
 たとえばフリーゲームでわたしがとくにすぐれた物語だと思うのは「B.B.ライダー」とか「魔法少女」とか「おばけと魔法と」とかだけれど、これらの作品のいずれも当初からの設定としての物語はあるだろうとしても作品をつくる過程でつねにその物語を語りなおしているように思うつよさを感じられて、だから、わたしはたとえば「魔法少女」で千代子がなにを考えているのかまるで理解できなくてもその行動とその志向が論理的にむすびついていないとは感じない。これはまえにも書いたけれど、「魔法少女」では登場人物が自分でなにかを考えていると思う。でも、おおくの作品でなにかものを考えているのは作者かプレイヤーのどちらかでしかなくて、そうであるかぎりそこに物語は発生なんてしないだろうとわたしは思う。


 11月1日(土)

 岩井克人「貨幣論」を読んだ。


 11月2日(日)

 吉本隆明「最後の親鸞」を読んだ。親鸞は「たとえば人を千人殺してみろ。そうすればまちがいなく往生できる」と言っていて、わたしはそのことについてなにかを書こうと思ったんだけれど、わすれてしまったからもうなにも書かない。

 
 11月3日(月)

 中村文則「世界の果て」、青山七恵「すみれ」を読んだ。わたしは小説について文章がうまいとかへただとかということはそれを言うことによってその小説についてわたしが言いたことを言うことができるような場合にしかほとんど言わないようにしたいと思っているけれど、文章がうまいとかへただとかということは、たぶん事実としてあるんだろうという気がする。といっても、選んで読んでいるかぎりへたな文章というものを読むということはほとんどなくて、あっても、たとえ文章じたいがへただったとしてもそれがへたさとして小説の外面までにじみだしてしまうことはもっとまれだと思う。だから、かりにその小説をつくりだしている文章のへたさがおもてにでていないのなら、わたしはそれを気にすることなく読めると思っているけれど、それは同時に文章のうまさというものも気にすることなく読めてしまうということなのかもしれないと思う。


 わたしは黙ってブランケットをかけ直した。今度ははねのけられなかった。レミちゃん。ブランケット越しに背中に手を当てると、レミちゃんはうつ伏せだった体を横向きにして、「あたしはまだ、生きてるのに!」と叫んだ。右の目の下に、レミちゃんの生あたたかい唾が飛んできた。

 
「だけど……そうでも言わないと、レミはたぶんいつまでも出ていかなかっただろうから……ちょっと残酷だけど、いつまでもここに置いておくわけにはいかないんだよ」
 さっきまでレミちゃんがしていたように、父はテーブルの表面のある一点をじっと見つめていた。よく目を凝らしてみると、父の視線の先、きれいに磨かれた大理石の表面には、ビーズ一粒ほどの小さな白い破片が残っていた。
「どうして?」
 父も母も、黙っていて、何も言おうとしなかった。



 青山七恵「すみれ」ならたとえばわたしは文章のうまさはわかると思う。このふたつの文章にはすくなくとも主人公の「わたし」の心情表現は直接的にはなにも描かれてはいないし、ふたつめの文章のテーブルのうえの小さな白い破片を見つめる場面なんてこの小説のすじにはなんの関係もないことでしかないのに、すくなくともわたしはこのときの「わたし」の心情になにか思うことがあった気がする。それはあきらかに直接的に言葉でしめされていない「わたし」の感情やあるいは感情に類するものが「右の目の下に、レミちゃんの生あたたかい唾が飛んできた」や「よく目を凝らしてみると、父の視線の先、きれいに磨かれた大理石の表面には、ビーズ一粒ほどの小さな白い破片が残っていた」という文章のなかにたちあらわれてくるからで、小説の文章のうまさというもののひとつのありかたはこういうことのなかにあるということはまちがいないと思う。けれど、それは「風景を比喩として登場人物の心情を描く」というたぶん国語の授業なんかでならうようなことよりも、すくなくとも現代小説においてはもうすこしふかい技術の問題としてあるような気だけはする。
「わたしの右目の下に、」ではなく「右目の下に、」と青山七恵は書いている。「わたしの」という言葉をはぶくことができている、わたしにとってはそれがその「もうすこしふかい技術」としてある部分で、「わたしの」という言葉をはぶいたときにたちあらわれる技術上の効果を説明する意味はないと思うしわたしにはそういうことはできないけれど、「わたしの」という言葉をはぶくことができるかできないか、というその水準、あるいはその水準を問題にするような位相で書くということを小説家がやっているのだとしたら、小説を書くということもとうとい行為のように思えることもあるような気がする。
 中村文則「世界の果て」の重要なところはたぶん狂気の描きかただと思っていて、とくに重要なことはきっとその狂気について、その部分だったとしてもわたしたちが理解できるということだと思う。「ゴミ屋敷」や「戦争日和」や「夜のざわめき」はともかくとして、すくなくとも表題作の「世界の果て」ではたぶん難解な思想はなにひとつ語られてはいないし、ここでわたしたちが理解できない言葉はたぶんひとつもない。そして、だからといってわたしには他人を包丁でさしてしまうこどもをこれは現実的ではない小説ではないと言ってきりすててしまうことはできないし、重要なのはわたしたちがきりすすてしまうことはできないと思うそのことだと思う。たとえば舞城王太郎「阿修羅ガール」のグルグル魔神をきりすててしまうことはたぶんわたしにはできなかったし、アイコもきりすてることはしなかった。わたしたちは殺さないだけで、そしてその殺さない「だけ」というかろうじてのこる結果としての事実について、わたしたちは、だれかに殺されるまえにそのことについてなにかを思えるんだろうか。


 11月4日(火)

 会社にいった。


 11月5日(水)

 会社にいった。


 11月6日(木)

 会社にいった。


 11月7日(金)

 会社にいった。
 ジョン・マグレガー「奇跡も語る者がいなければ」を読んだ。さいきん読んだ小説のなかではこれがいちばんおもしろかったけれど、どうしてだろうと考えて、これはたぶんサリンジャーなんだなという気がした。
 あと、これはもうこの小説とはなんの関係もないことだけれど、善良さというのはきっと善良ではないということを自身の属性として獲得された状態にある、ということで、問題はそういう矛盾したありかたを統合したかたちで愛することができるかということだとなんとなく思った。みにくさなんてあたりまえにあるなかで、たとえば柴崎友香の小説にも松田青子の小説にもマグレガーの小説にもサリンジャーの小説にもやさしいかたちをした光がたしかにあって、わたしはそういうことを書けるひとをいちばんうらやましく思う。


 11月8日(土)
 
 ドトールにいってポース・オースター「闇の中の男」を読んで、部屋に帰ってから藤野可織「ファイナルガール」を読んだ。
 オースター「闇の中の男」を読んでまっさきに思いだしたのは村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」だけれど、それはたぶんどうでもいいことで、わたしとしていちばん気にかかったのはオースターがブリックをあっさりと殺してしまったことだった。それが現実的だといえば現実的なことなのかもしれないけれど、その結果作用としてブリルは娘や孫娘と対話をかさねることに成功しているように見えてしまう。希望と絶望を安易に対比することにわたしは価値を感じるわけではないけれど、おそらくきっとブリルにとっては娘や孫娘との対話が希望としてあるんだろうという気がして、そしてわたしはそれをただしいありかただとは思う。でも、そうなったときにブリックの物語はいったいどこにいってしまうんだろうと思う。スクウェア「クロノ・クロス」では前作「クロノ・トリガー」で改変して結果として回避されてしまった未来が世界に復讐しにやってきた。ひとつの未来を選びとることはたとえそれが世界を救うことであったとしても彼らが選びとらなかった未来の抹殺でしかなくて、彼らはひとつの未来を救いとったかわりにほかの未来をその手で殺してしまっていて、それをおこなった彼らも、そして彼らにそれをおこなわせたわたしたちもおそらくきっと実際の復讐者がやってくるまでそのことに気がつきもしないんだろうという気がする。ゴダールはだれかのいちにちのつぶやきですらも小説になりえると言った。そのことに気づいたらはそのだれかはこう言うだろう、僕は今日なんてすばらしい小説をつくったことか! けれどその小説はだれにも読まれない小説で、おなじように母親が撮った自分のこどもの映像もほとんどだれにも見られない映画で、そういうことを考えればわたしたちは世界にあるほとんどの小説を読んでいないし、ほとんどの映画を見ていなくて、でもそれはあたりまえのことで、なぜならそうやって作られた小説や映画にはほとんどのひとが価値がないと思うからで、でも、そう思ったときにわたしたちがつかう価値という言葉はほんとうにはいったいなにをさししめているんだろう。わたしたちは読まれないといけないように小説を書いていて、それはもちろんただしいことだろうけれど、だれかがいちにちのつぶやきとしての小説や母親がこどもを撮った映画にたいしてつかうような価値でわたしたちの小説を評価することはほとんどむりなんだろうという気はする。そしてそれはもっとたんじゅんに言うと、わたしたちの日常的な行為や事態と商業的にさしだされて作品としてかたちをなされたもの、そのふたつのものをおなじ言葉では評価できない、ということで、すくなくともわたしはそのことがまるでできていないと思う。ゴダールという映画監督はたぶんそのふたつのことをおなじ言葉で語ろうとした。そしてただそのことだけによって彼の映画は難解だと呼ばれていて、でも、わたしにはもうそういうことはどうにもできない。
 藤野可織「ファイナルガール」という小説が奇妙なのは、たぶん藤野可織がそこで描きだす人物についてとかそこでおこっているものごとについてとかをわたしたちに理解させるようには書いていないからだと思う。たぶんわたしたちはそこでなにがおこっていて、そしてそのことについて彼らがなにを考えているのかを理解できないだろうと思うけれど、そうであるような前提をたててすらわたしはそこに書かれている彼らのなにかを理解できてしまうような気がする。ホラー、というふうに藤野可織の作風はよく言われていて、そういうホラーの感じというのはたぶんわたしたちが彼らが考えていることがまるでわからないのに彼らのなにかを理解してしまうということ、あるいはそうやってふれてしまった理解へのなまぬるい感触みたいなもの、そういうものごとに感じてしまうわたしたちのいやらしさみたいなのもので、わたしはそういうことを書けてしまうひとは藤野可織と西尾佳織しか知らない。


 11月9日(日)

 朝おきてなにげなく山崎ナオコーラ「浮世でランチ」を読みはじめてとてもおもしろいと思った。登場人物の性別がでてくるひとでてくるひとすべてにたいしてぜんぜんわからなくてとまどって、こういうひねりかたみたいなものがどうしてかとても新鮮に感じられた。
 ドトールにいってドン・デリーロ「墜ちていく男」を読みはじめて、そのあとモスバーガーにいって最後まで読んだ。モスバーガーには知らないあいだに「勉強等の長時間のご利用はお控えください」という掲示がはられていた。俺か? 
 けれどわたしはそれは見なかったことにしてその掲示物の真下でいまこの文章を書いている。


「自爆テロがあるところではね、まあ、この話は聞きたくないかもしれないけど」
「わかりません」
「それが起こる場所ではね、生存者たち、近くにいて怪我をした人たちが、何ヶ月も経ってからだけど、こぶをこしらえることがあるんだって。もっといい言葉がないから、こぶって言うんだけど。とにかくその原因がどうも、小さな破片らしいんだ。自爆テロリストの体の一部ってこと。テロリストは爆発して、文字通り粉々になって、肉や骨の破片がすごい勢いで飛び散る。だから、破片がへばりついちゃうんだって。届く範囲内にいた人たちの体に埋め込まれちゃうんだよ。信じられる? 女子学生がカフェで自爆テロに遭い、生還する。それから数ヶ月して、彼女の体から肉の小さな粒が見つかる。人間の肉体の破片が肌に埋め込まれてたんだ。そういうのは有機榴散弾って呼ばれてる」


 
 それが事実かどうかということはこういう話にはきっと関係なくて、たとえば、かりにこの話がデリーロがつくったまったくの虚構だったとしても、わたしがこの話を読んだときに感じたなにかみたいなものはたしかにちゃんと存在していたはずで、大事なのはそんなふうにわたしたちが感じたなにかであって、けっきょく、わたしたちが書いていることもたぶんわたしがこの話を読んだときに感じたようななにかをまたほかのだれかに感じさせるようなものなんだろうという気がした。




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