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物語のある部分の言葉を語りおわったあとで

2014.12.30(00:57)

ひとり日和 (河出文庫)ひとり日和 (河出文庫)
(2010/03/05)
青山 七恵

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 11月10日(月)

 会社にいった。山崎ナオコーラ「浮世でランチ」を読みおえた。おもしろかった。


 11月11日(火)

 会社にいった。青山七恵「ひとり日和」を読みおえた。この小説は主人公の女の子がいろいろなものごとについてどうでもいい、どうでもいい、とばかり言ったり思ったりしているんだけれど、わたしが重要だと思ったのはどうでもいいと思うその女の子とどうでもいいと思われている対象の距離感みたいなものだった。いろいろなものごとについてどうでもいいと思ってばかりいる小説をわたしにはこれといってあげることがどうしてかできないけれど、そういう小説、あるいはそういう雰囲気をまとった小説はきっとたくさん存在してはいて、そしてたぶんそういう小説でそのひとたちが思うどうでもいいことはけっきょくはどうでもいいことではなくて、ほんとうはそれを求めているのに手にはいらないからどうでもいいと思ったりしていたり、とんがったりしたり、あきらめたり、そういうわたしたちはそれを複雑だとは呼ばないけれど内実としてはきっと複雑な感情がぎっちりとひしめいていて、そして、小説全体がそういう雰囲気におしこめられてしまうのを避けることはきっとむずかしくて、それがむずかしいからこそ類型に向かってしまうように思う。それで、たぶんこの小説の重要なところは主人公の女の子がいくらどうでもいいと思ったとしてもそういう類型に向かっていかないように見えるところで、たんじゅんに、どうでもいいと言うことは価値をさげることで、だからこそいままでどうでもよかったものがどうでもよくはなかったものだと認識することがカタルシスめいたものを発生させるのかもしれないけれど、わたしにはこの女の子がどうでもいいと言ったとしてもそこに存在しているものとか彼女自身の価値をさげてはいないように見えた。どうでもいい、と言ったり思ったりすることがとくべつな意味をけっして持ってはいなくて、そしてきっとほんとうには持ってはいないことのほうが重要で、ここにあるどうでもいいということはほんとうにはどうでもよくないこととして存在しているんじゃなくて、ただただどうでもいいことそのままとして存在しているように感じた。


 11月12日(水)

 会社にいった。葛西善蔵「贋物・父の葬式」を読みはじめた。


 11月13日(木)

 会社にいった。


 11月14日(金)

 会社にいった。


 11月15日(土)

 ひらめのまねごとをしていた。


 11月16日(日)

 アサヒ・アートスクエアで鳥公園「透明な隣人」を見た。とてもおもしろかったと思う。この作品で西尾佳織はたぶん最悪な演出をしたと思う。けれど、重要なことはその最悪さがどんな最悪のありかたをしているかということで、その最悪さが放っていた奇妙なほどの痛々しさはかるい吐き気とか目をそらしたくなる感覚と似ていて、なんだか、西尾佳織はにんげんをきれいなんだとは思ってはいないんだろうなという気がすごくした。でもそれはみにくいからといってきりすてるというありかたではなくて、自分がさらけだしている暗部を目を思いきってあばききってしまうようなつよいまなざしのような感覚があって、わたしは鳥公園の演劇を見るといつもいろいろなことがわからなくなってしまう。それでもときどき、もういろいろなことがわからなくなったほうがいいように思うこともある。わたしは最悪で、最悪な自分のなかで生きていかなければいけないということは最悪とはかぎらない、というそのことは希望なんかじゃないけれど。


 11月17日(月)

 会社にいった。


 11月18日(火)

 会社にいった。


 11月19日(水)

 会社にいった。

 
 11月20日(木)

 会社にいった。

 11月21日(金)

 会社にいった。

 
 11月22日(土)

 アトリエ春風舎にいって「3 youths on the sand」という企画で蜂巣もも+綾門優季「不眠普及」という作品を見た。とてもすばらしかったと思う。この演劇の重要なところは彼らが物語を語っているということだと思う。重要なのは物語を「語っている」というところで演劇に物語が「ある」ということはたぶんふつうのことだと思うけれど、演劇で物語を語るということはたぶんわたしが考えているよりはずっとずっとむずかしくて、だからわたしは物語が蜂巣ももと綾門優季がやったようなかたちで語られる演劇はたぶんほとんど見たことがないように思う。物語は語られるものだけれど、語られたものがある特定の形式をとることでそれが作品として成立するわけじゃないとわたしは思う。すくなくとも文章のかたちで物語を語ったところでそれが小説になるわけじゃないし、映像のかたちで物語を語ったところでそれが映画になるわけじゃない。演劇はただ舞台があってひとがいてそのひとが動いたりなにかをしゃべったりする、ただそれだけのことだけれど、事実としてそれは演劇と見なされたり見なされなかったりする。わたしは演劇の稽古を見たらたぶんそれは演劇の稽古だと認識してそしてたぶんその稽古にお金をはらおうとはしないだろう。
「不眠普及」という作品がすばらしかったのはそこで語られた物語が演劇というもののなかで語られえたという事実だと思う。ここで語られた物語は坂倉奈津子という俳優から浮遊して劇空間にほとんど物質的なたしかさでもって存在していたように思えた。坂倉奈津子は物語を語ったけれど、その物語は坂倉奈津子がその物語のある部分の言葉を語りおわったあとにもその劇空間のなかにたしかにのこっていたと思う。坂倉奈津子はそういう語りかたをしていた。それがすばらしいことだ、ということはたとえば言葉では表現することはできないけれど、それはすばらしいことなんだと思う。そしてそうやった語られうることを可能とする戯曲を書いたり演出をしたり演技したりすることが演劇で物語を語りえるということで、そしてその語りかたは小説とはちがっているはずだし、実際にちがっていたと思うし、ちがっていてよかったと思う。




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