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わたしが深みだと思っているそれは

2014.12.31(00:28)

贋物・父の葬式 (講談社文芸文庫)贋物・父の葬式 (講談社文芸文庫)
(2012/09/11)
葛西 善蔵

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 11月23日(日)

 ひなまつりごっこをしていた。


 11月24日(月)

 デザートについて思案していた。


 11月25日(火)

 会社にいった。


 11月26日(水)

 会社にいった。


 11月27日(木)

 会社にいった。


 11月28日(金)

 会社にいった。


 11月29日(土)

 TS「OtoZ」をやっていた。

 
 11月30日(日)

 TS「OtoZ」をやっていた。


 12月1日(月)

 会社にいった。


 12月2日(火)

 会社にいった。
 綿矢りさ「憤死」を読んだ。おもしろかった。


 12月3日(水)

 会社にいった。


 12月4日(木)

 会社にいった。
 鹿島田真希「その暁のぬるさ」を読んだ。鹿島田真希の小説は読むたびになんだこりゃと思うけれど、その例にもれないでなんだこりゃって思って、だからたのしかった。


 12月5日(金)

 会社にいった。


 12月6日(土) 
 
 本谷有希子「自分を好きになる方法」を読んだ。これはたぶん錯覚だと思うけれど阿部共実「空が灰色だから」のある部分というのはたぶんこれとおなじやりかたで書かれている、と思う。


 12月7日(日)

 お友達と六本木で待ちあわせをして、森美術館に「リー・ミンウェイとその関係展」を見にいった。わたしはへんな蜘蛛みたいなものがいるところでぼけっと待っていて、へんな蜘蛛みたいなもののぎりぎり射程外のところにいるとお友達にメールをおくったらざんねんだったなそこは射程内だという返信が返ってきて、わたしはとてもざんねんだった。
 森美術館にいったらもう入り口でひとがひとひとしていて、これはたいへんだと思ったけれど、もちろんリー・ミンウェイなんか見にいきたがるひとがそんなにたくさんいるわけじゃなくて、みんなのめあてはティム・バートンだった。
「リー・ミンウェイとその関係展」では応募するとリー・ミンウェイと美術館で一晩すごせますよとかお花を持って帰ってくださいそしてそれを帰り道でだれかにわたしてくださいとかそういう感じの展示があって、だいたいのところわたしは参加型とか能動型の作品にはもういっさいふれることができないにんげんだということをあらためて思わされた。
 3年まえくらいまえに買っていた旅行のおみやげをようやくわたすことができた。お友達はまたわたしにおみやげを買ってきてくれたようだったけれどまたいつものとおり持ってくるのをわすれたと言っていた。ずっとあげるあげると言っていたゴーヤチップスもとうとう自分で食べたと言っていた。しゃぶしゃぶですかね、と言ってわたしたちはしゃぶしゃぶした。おいしかったしたのしかった。


 12月8日(月)

 会社にいった。葛西善蔵「贋物・父の葬式」を読みおえた。


「僕はあそこの停留所のとこで君の肩につかまって、ほんとにおいおい声を出して泣いたんだぜ。それは幾ら君と云う人を突ついて見ても、揺ぶって叩いても、まるで活きて行けるものと云った感じの手応えが全然ないのだからね。それは君も確かに一個の存在には違いないだろう、併し何と云う哀しい存在なのだ! そしてまた君は君一人の人では無いのだ、細君とか子供とか云うつながりを持った人なのだ……」


 たんじゅんに考えれば近代文学が描いているにんげんには深みがなくて、それはたぶん近代文学には思想というものがすくなくともここさいきんの現代文学よりは明確にあらわれているからだと思うけれど、でもどちらにしろ、わたしはもうかりに近代文学のにんげんの内面に深みがあったとしてもその深みをたぶん理解できないだろうと思う。現代文学に深みというのは端的にいって周縁の暗さだと思っていて、その暗さは暗黒を照射していてたぶんもしもかりにあると仮定したところでその深みにはとどかないだろうと思う。でもきっとそう仮定したところでわたしが現代文学を読んで感じるその深みはほんとうにはきっとなくて、わたしが深みだと思っているそれはただの暗黒のかたまりなんだろうと思う。だからそれはもう深みみたいな距離の問題じゃなくて明度の問題にすぎないようにときどき思っていて、もっと言えば、たとえば松田青子が描いているのはにんげんの内面の深度ではなくてにんげんの内面が構築する世界の明度なんだろう。
 現代文学を読んだときに思う感覚、たとえばにんげんの深いめんにふれてしまったとわたしがときどき思うその感覚は深い場所にふれてしまった感覚ではなくて暗黒にとどいてしまった感覚なのかもしれないけれど、葛西善蔵「贋物・父の葬式」で描かれているのはわたしにとっては深さだったように思う。わたしは現代文学を読んでいてそこに描かれたひとたちをたぶんぜったいに理解できないだろうとときどき思う。わたしは葛西善蔵「贋物・父の葬式」を読んで葛西善蔵のことを理解できたとも思わなくて、それでも、現代文学を読んだときに思う理解できないということと葛西善蔵を読んだときに思う理解できないということはわたしたちはいつもおなじ理解できないという言葉でくくってしまいがちで、けれど、ほんとうにたいせつなのはその差異なんだろうという気がした。


 古典詩の価値は、その時代の定常意識を基準にして励起状態をかんがえることできまるので、現代の定常意識を基準にしてその当時の励起状態を考えるのではない。モダニストたちが、たとえば『万葉集』が幼稚な詩であり、藤村の『若菜集』が、現在じぶんが書いている詩よりもつまならない作品だと錯覚するのは、現在の状態で直接過去の励起状態をはかるからである。
            ――吉本隆明「詩とはなにか」


 吉本隆明が言っていることはたぶんわかるだろうと思う。でも、たとえば感情がないにんげんが本を読むにはどうしたらいいんだろうか。わたしはときどきそのことを思う。感情がなければわたしたちは本を読むことはできないんだろうか。
 

 12月9日(火)

 会社にいった。


 12月10日(水)

 会社にいった。


 12月11日(木)

 会社にいった。


 12月12日(金)

 会社にいった。
 こんぶおにぎりをむぐむぐ食べていたらがりっとした。このこんぶかたいって思ったけれどそれはあまりにかたすぎてなんだろうなんだろうとものすごくこわかったけれど、歯のつめものがとれてそれをがりがりしていただけだった。よくなかったけれどよかったと思った。


 12月13日(土)

 ほととぎすが鳴いた。

 
 12月14日(日)

 草原が集約されていた。


 12月15日(月)

 会社にいった


 12月16日(火)

 会社にいった。


 12月17日(水)

 会社にいった。


 12月18日(木)

 会社にいった。すぐに帰って歯医者にいって問診票を書いたけれど、最後に歯医者さんにいったのはいつですかという項目があった。まるで思いだせない。歯医者さんには遠まわしにきみの歯深刻だよというようなことを言われて落ちこんだ。


 12月19日(金)

 会社にいった。 


 12月20日(土)

 神奈川芸術劇場までいってチェルフィッチュ「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」を見た。おもしろかったと思う。
 

 12月21日(日)

 TS「昴の騎士」をやった。
 

 12月22日(月)

 会社にいってすぐに帰って歯医者さんにいった。がりがりされて顔を水びたしにされて帰ってきた。


 12月23日(火)

 TS「昴の騎士」をクリアして、「魔法少女」をやりはじめた。


 12月24日(水)

 会社にいった。


 12月25日(木)

 会社にいった。


 12月26日(金)

 会社にいった。


 12月27日(土)

 アトリエ春風舎までいってうさぎストライプ「空想科学」を見た。わりあいいつものうさぎストライプっぽくない作品だとわたしは思った。大谷容子はいつも作品にはうそはいれないんだけれど今回はおおきなうそをいれてみたと言っていて、それは斉藤マッチュの頭にずっと斧がささっていたとかそういうわざとらしい演出のようなことだとわたしは思って、でもわたしはそのわざとらしい演出にずっとなじめないままだった。でもこれはたぶんちらしで書いていることとの齟齬みたいなものがあって、ちらしで書かれていた内容は静謐で感傷的な印象がつよくてわたしはそういう印象をもってこの作品を見にいったわけだけれどすくなくとも舞台のうえでの斉藤マッチュはそんなふうなありかたをしていなくて、それはちらしがわるいというわけじゃないけれどだからわたしはこの作品を見ているあいだずっとむくわれないままだった。うさぎストライプの作品はどことなく静謐ななかでなにか言いたいことがあってでもそれはどんなかたちでも言うことができなくて、それでもなにかを言ってしまうということがよわさではなくて希望を持ったつよさとしてたちあらわれてくる感覚があって、それがうさぎストライプのいいいところだとわたしは思っていてだから過剰な運動と過剰な音楽のなかでの役者の独白がたしかなカタルシスとしてありえるんだろうという気がしたけれど、たとえば亀山浩史のやっていることのそのうそっぽさゆえの現実性の欠如がいまいちよくわからなかったし、全体的にはあまりよくなかったと思う。それでも老後のひとり暮らしの話は身につまされてとてもよかった。


 12月28日(日)

 歯医者さんにいった。親知らずぬきますかと言われていやぬかないですと言った。神経ぎりぎりのところまでけずってもうつぎ虫歯になったらぬかないとだめですねと言われて生きていることがいやになった。
 TS「魔法少女」をやって、それからオースター「オラクル・ナイト」を読みおえた。オースターのさいきんの作品はぜんぜん読んでいなかったからいまさら読んでいるけれど、「幻影の書」とか「闇の中の男」よりもわたしは「オラクル・ナイト」がよかったと思う。けっこうまえにリチャード・パワーズ「囚人のジレンマ」を読んだときにも思ったけれど、こういう作品には歴史、あるいは物語としての歴史を前提にして構築された物語観みたいなものがずっと小説全体に横たわっているような気がしてしまう。「オラクル・ナイト」がアメリカの歴史を下敷きにして物語を書いているというわけではたぶんないんだろうけれど、でも感覚としては歴史は物語なんだというすくなくとも日本が抱いているだろう感覚よりはつよいその感覚が根底にあるような気がしてしまう。たとえば村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」には満州での戦争のことが描かれているけれど、そこで語られている物語とわたしたちの現実と歴史観というものが物語としての歴史を要素として響きあっている感じはしなくて、「ねじまき鳥クロニクル」はもっとべつのものとしてあってだからだめだと言っているわけじゃないけれど、ただ物語を語るというそのことだけでその国の歴史とどうしても響きあってしまうということ、そのことは技術の問題なのか作者の問題なのかあるいは日本人のわたしがアメリカ文学を読むという問題なのかはわからないけれどわたしはとても興味ぶかく思う。
 

 12月29日(月)

 会社にいった。
 TS「魔法少女」を途中までやって、これでやるのは3回目でたぶん今回は途中まででやめるけれど、「OtoZ」や「昴の騎士」や「魔法少女」みたいなゲームのそのおもしろさのありかたはとても希少だと思う。
 田山泰次郎「肉体の悪魔・失われた男」を読みおえた。


 12月30日(火)

 ドトールにいって日記を書いた。そのあと渋谷のユーロスペースまでいってアンドレイ・ズビャギンツェフ「ヴェラの祈り」を見た。今年ほとんど映画を見ていないせいもあるのかもしれないけれど、なんでこんなにおもしろいんだろうなって思った。わたしにはこの映画のよさを語ることはできないからなにも書かないけれど、こういう映画がただひとつあるだけで映画というもののありかたがわたしのなかでぐりぐりと変わっていって、映画を見るとか小説を読むとか演劇を見るとかそういうことってこういうことなんだよなっていう気持ちがすごくする。


 12月31日(水)

 喫茶店で小説を書いて、トム・ジョーンズ「コールド・スナップ」を読みながら電車にのって実家に帰った。コンビニにいかなくてもごはんがでてくるなんて! ここは天国にいちばん近い島か!




コメント
前作から時間が経ちましたが、次作は進んでいるのでしょうか…?
新作、楽しみにしております!!
【2015/01/03 16:05】 | てんてん #- | [edit]
ありがとうございます。
ノーコメントのほうがよいように思うので
もうしわけないですがノーコメントにさせていただきますが…
がりがり書いていますので
どうぞ首をながくしてお待ちしていただけるとさいわいです。
【2015/01/03 23:49】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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