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友達をものとして所有してしまう、あるいはしてしまいたいと思ってしまうこと

2015.01.05(23:53)

ちーちゃんはちょっと足りない (少年チャンピオン・コミックスエクストラもっと!)ちーちゃんはちょっと足りない (少年チャンピオン・コミックスエクストラもっと!)
(2014/05/08)
阿部 共実

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死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々(1)(少年チャンピオン・コミックス・タップ! )死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々(1)(少年チャンピオン・コミックス・タップ! )
(2014/12/10)
阿部共実

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 「ちーちゃんはちょっと足りない」
 「蹴りたい背中」
 「魔法少女まどか☆マギカ」
 「魔法少女」
 「HUNTER×HUNTER 13巻」
 以上の物語内容に結末をふくめて言及しています。


 1月1日(木)

 お買いものにいってお金を湯水のようにつかった。湯水のように流れていくお金のうちからほんのすこしだけとりわけて阿部共実「ちーちゃんはちょっと足りない」と「死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々」を買った。「ちーちゃんはちょっと足りない」という漫画はわたしはいままで読んだ阿部共実の漫画のなかでいちばんよかったと思っていて、どんなふうに言ったらいいのかよくわからないけれど、わたしがいちばんこの漫画に似ていると思ったのはTSの「魔法少女」だった。それは物語が似ているとか設定が似ているとかそういうことじゃなくて、いっぽうは漫画でいっぽうはゲームなんだけれどそのそれぞれがその媒体においてのみこういう表現が可能になるというつよい意志とかたかい技術でもって作品をなそうとしていて、そしてそうやって表現されたものの色とかかたちとかがわたしは似ていると思う。
「ちーちゃんはちょっと足りない」がたとえばわたしたちに恐怖を抱かせるとしたら、それはナツが友達をものとして所有してしまう、あるいはしてしまいたいと思ってしまうことの恐怖にねざしているからだと思う。自分はその友達のことを好きだと思う、でもその好きだという気持ちはただ自分がその友達を好きだと思っていたほうがつごうがいいしらくだし気持ちがいいからだからなのかもしれない、そういう自分に都合のいい部分をすべてとりさってなおわたしは自分はその友達を好きだと思うことができるんだろうか。それはわたしたちはいまここにいてこういうことをやっていて、そしてそれをわたしはたのしいと思って生きてきて、けれどそれでもそれはほんとうはたのしいことじゃなかったのかもしれない、という感覚とつよくむすびついていて、それは「空が灰色だから」の一部の作品や本谷有希子「自分を好きになる方法」で描かれていたことで、もっと言えば、かりにそれが美しいものを求めているけれど美しいものを求めてしまう自分はどんどん醜いものへとなりはててしまうというものと表面的に近しいなら、それがサリンジャー「フラニーとゾーイー」ということになると思う。
 でも「自分に都合のいい部分をすべてとりさってなおわたしは自分はその友達を好きだと思うことができるんだろうか」という問いからあらわれるその好きだというありかたを求めるとしたら、それが「真の友情」とか「ほんとうの親愛」になるんだろうか。たとえば、綿矢りさ「蹴りたい背中」ではハツはきらきらした時間とかほんとうは美しいはずの人間関係を否定してそれらの時間や人間関係とかをひたすらにものとして消費していくクラスメイトたちを軽蔑して真の友情みたいなものを絹代に求めつづけるけれど、ハツは自分がそんなものはえられないだろうという卑屈さをずっとまといつづけ、いつのまにか絹代と消費されるものとしての友情を抱きあうことも消費されるものとしての時間をともにすごすことすらできなくなってしまった自分に気づいてしまっているように見えてしまう。ハツは他者としてのにな川の背中を蹴ったとしても、でもそれがゾーイーがフラニーにあたえたようないたわりにならないことを知っているように思う。
「真の友情」とか「ほんとうの親愛」なんていうものをわたしたちはあるように思っていて、そしてそれを思うからわたしたちの目のまえにあるものがものとしておたがいを所有しあうような人間関係なのかもしれないと疑ってしまうかもしれないけれど、「ちーちゃんはちょっと足りない」ではすくなくともその対立じたいが否定されているように思う。この漫画の最後のひとこまはハッパーエンドとしての雰囲気につつまれているけれど、やっていることはナツがちーちゃんをものとしておがたいを所有しあう友情にひきこんでいるだけでそれはナツにとっての一時的なやすらぎにはなるかもしれないけれどこれまでナツが思ってきたことの事態への解決にはなっていないし、ナツがちーちゃんに旭との絶縁を暗に、暗にというのはちーちゃんにそれがどういうことなのか深くわからせることなく(すくなくともナツはわかっていないことを気にしていないとわたしは思う。)迫っている以上もちろんハッパーエンドにもなっていない(ちーちゃんはここでただひとこと「うん」と言うけれど、そのこまの雰囲気とちーちゃんの表情があまりにも絶妙すぎて、こういうこまを描けてしまうところが阿部共実のほんとうのすばらしいところだと思う。ここで読んでいるひとは「ちーちゃんはじつはいまナツが言っていることや思っていることのすべてを深く理解しているのでは? あるいはそれ以上にナツのことをあわれんでいるのでは?」という感覚を抱かされて、この漫画の雰囲気にものすごいどろどろしたものをふりまいている。ぜんぜん関係ないけれど、冨樫義博もじつはそういうところがものすごくうまいと思う。「HUNTER×HUNTER」で、ずっとまえに「パクノダは死ななくてはよかったのでは? 命とひきかえに弾を撃たなくてももっとよい方法があったのでは?」というネット上の議論を見たことがあったけれど、わたしはそういうことじゃなくてパクノダは団長あるいは旅団をうらぎったことの責任をひとりでひきうけてあえて死んだと思っているし、パクノダがつたえたかったこともクラピカの情報ではなくてパクノダの思いだったと思っていて、というか、すくなくとも冨樫は「パクノダがただ仲間にクラピカの情報をわたすために死んだ」という描きかたはあきらかにしてはいなくて、そういうことが言葉として表現されていなくてもクノダがアジトにもどるまでのひとこまひとこまにきちんと表現されていると思う。すくなくともわたしが好きなありかたにおいての思う漫画の技術のうまさというのはこういうところに表現されるものだと思う)。かりにこの漫画で全包囲的なハッピーエンドがありえるとしたら、それはナツがちーちゃんにではなく旭や藤岡や奥島にこころをひらかなければだめなはずで、けれど阿部共実はそうしない。ナツがつらいのはナツのこころの暗部をだれとも、自分がものとして所有しているちーちゃんとすらも共有できていないというところだと思うけれど、それでも、けっきょくはナツはかつて所有して、そしていちど自分からてばなしたものをもういちど所有し、その所有の意志を再度確認しただけにすぎないように思う。「ちーちゃんはちょっと足りない」というこの漫画がすぐれているのはわたしたちにはけっきょくのところ「真の友情」や「ほんとうの親愛」なんていうものはなくて、その世界のあちこちに局所的なかたちで偏在しているゆがんだ視線としてのしあわせをそのときどきで感じつづけていくしかない、ということをそのことを肯定も否定もせずに描いていることだと思う。すくなくとも、わたしにはこのハッピーエンドに見える終わりかたをバッドエンドとしてきりすててしまうことすらできない。これをバッドエンドだときりすててしまったらわたしたちはもういちどナツをくりかえすだろうと思う。これをバッドエンドだときりすてることができないわたしたちはきっと暗い絶望を抱えているんだろう。それでもわたしたちはその暗い絶望を抱えて生きていくしかなくて、それを肯定することも否定することもその暗い絶望の放っている美しい光を捨てろという傲慢さにすぎないように思う。
「死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々」は「アルティメット佐々木27」の佐々木がかわいすぎるのでなんでもいいけれど、「深い悲しみ」みたいなほんとうにいっぱつものの思いつきねたでしかないものがきちっとおもしろいのがよかったと思う。


 1月2日(金)

 お酒を飲んで喫茶店にいって小説を書いた。
「ちーちゃんはちょっと足りない」をわたしはTS「魔法少女」と比較しつつ書こうとしたけれどわすれていた。端的には「魔法少女」は遥が千代子を、「魔法少女まどか☆マギカ」はほむらがまどかをそれぞれものとしての友達として所有しようとする話だと思うけれど、「まどか☆マギカ」はすくなくとも「新編」以前まではその部分はかなり無邪気に描いているようにわたしには思えていて、そして「魔法少女」はぎゃくにそのことをとても自覚的に描いているように思う。
「まどか☆マギカ」の「新編」以前のラストではまどかの願いがかなって終わり、というかたちにはなっているけれど、「友達をものとして所有すること」という観点から考えればかなっているのはまどかの願いじゃなくてほむらの願いだったように思う。まどかが願いをかなえる、という世界のなかでのみほむらは「ほむらちゃんはわたしのいちばんの友達だったんだね」とまどかに言ってもらえていて、わたしが「無邪気に」と言うのはそのせりふを言うシーンをいいシーンとしてストレートに描いているようにしか見えなかったからだ。「新編」では作者がどこまで自覚的かはわからないけれど、ほむらはその考えを自覚しつつ行動していてそれが作品に奇妙な暗部を投げかけているように思う。いっぽうで「魔法少女」はその部分をたぶん最初から作者が自覚的に描いていて、というか、「魔法少女」がたぶん「ちーちゃん」なみに恐怖を呼びおこすとしたら遥が千代子にたいしてかなり美しいありかたで友情を抱いているところだと思う。遥はごくごくふつうに千代子にたいして親愛を抱いていて、そしてそのようなかたちでありながらそれがものとしての友達の所有になりえていることだと思う。奇妙なのは、おそらくは遥や千代子には「ちーちゃん」のナツのようなどろどろした部分は見れなくて、でもそれなのにこのふたりの関係はどこかゆがんでいて、「マクベス」じゃないけれど、きれいはきたない、きたないはきれい、という関係がいろいろなものが不足しあいながらその不足をたがいにおぎないあうかたちでなりたっていることだと思う。そしてその不足がせつじつさを呼びおこしているんだと思う。そういうとても微妙な感覚のありかたというのはふつう描こうと思ってもそうそう描けるものじゃないと思う。
 いろいろ書いたけれど、表現の技術なんてけっきょくのところそれを言葉や比喩としての言葉で語ることなくなにかを表現できるか、ということにほとんどすべてのものがかかっているというだけのことなのかもしれない。たとえば「昴の騎士」のティエラにしても、せりふが「……」しかなくてもどんな気持ちを抱いているのかということがわたしたちにもわかるだろうと思うけれど、たんじゅんにはそういうことなんだろうなという気がする。




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