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そのときわたしたちが想像しなかったものをわたしたちが愛するための装置

2015.01.07(00:00)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)
(2008/08/22)
カズオ・イシグロ

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 1月3日(土)

 カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」を読んだ。オースターもそうだけれど、基本的にこういう小説がやっていることはただある物語をある語りかたで語るというただそれだけのことなのにどうしてこんなにおもしろいんだろうと思ってしまう。
 友達とお酒を飲んだ。もうおっさんだよおっさんといういかにもおっさんがしそうな会話をしたようなしなかったような気が、した。


 1月4日(日)

 早稲田松竹にいってフィリップ・グレーニング「大いなる沈黙へ」、ルーシァン・キャステーヌ=テイラー、ヴェレナ・パラヴェル「リヴァイアサン」を見た。りょうほうともねむっていたからではけっしてないはずだけれど、ドキュメンタリー映画を見るとフィクションの映画がいかにそこにうつしだされた人物たちがなにを思ってなにをしているのかがわかるようにつくられているかということがよくわかるような気がする。あるいは、その監督たちがいかにそこにうつしだされた人物が会話をしている場面ばかりをつくっているということがよくわかるような気がする。
「大いなる沈黙へ」では修道士たちはわたしたちが日常的に交わすような会話はほとんどしない。それは修道士たちがそういう会話を禁じられているからなのかもしれないけれど、ナレーションや解説やインタビューがいっさい存在しないこの映画を見ていてもそれはわからない。おなじようにわたしはこの映画を見て修道士たちが祈ったり食事をしたり雪のうえで遊んだり洋服をつくったり髪を(電気バリカンで!)剃ったりしていることはわかるけれど、わたしはそこにけっして不快じゃない「わからない」ということを思う。わたしは以前「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を見たときに、この映画がわからないのは物語や設定が難解だからじゃない、彼らがなにを目的としてその行為をしているのかその理由をわかりやすいかたちで見ているひとにあたえるというありかたをいっさい拒絶しているからだ、というようなことを言ったように思う。わたしたちが作品を見たときに思う「わかりやすい」というのは「物語や設定が複雑ではない」ということだけを理由としているわけじゃなくて、あるいっていの流れを持った物語のその流れと登場人物たちの意志の流れがひとしい、ということのそのひとしさとおおきく関係しているように思う。だから、すくなくとも宗教を知らないわたしがこの映画を見ても彼らの行為や彼らの身体にいっていの「わからなさ」を抱いてしまうけれど、重要なのはそれが「不快ではない」ということだとわたしは思う。
 そして「リヴァイアサン」を見たときにもしもそこに不快を感じるのであれば、その不快さはたとえば「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を見たときに感じたかもしれないその不快さととても近しいありかたをした不快さだと思う。それは機械的なつめたさをもって監督がそこにうつしだす対象を、あるいはその対象を見るわたしたちを拒絶している、という感覚なのかもしれないと思う。「わからない」のそのありかたで言えば「リヴァイアサン」の「わからなさ」というのは「大いなる沈黙へ」よりもずっとわたしたちを拒絶していて、この映画ではなにがうつしだされているのかわからないこともおおくて、たとえば船のうえの巨大な機械のかたまりがうつしだされてもわたしにはそれがいったいなんなのかわからない。重要なことは「わからない」とわたしたちが思ったときにそう思ったわたしたちが感じる「わからない」のありかたで、「リヴァイアサン」の「わからなさ」は徹底的ににんげん性を排除した無機質なかたまりとしてあるように思う。この映画は死んだ魚の死骸などにカメラをはりつけて撮られていて、だからにんげんの手では通常撮ることができないだろうアングルの映像がたくさんうつしだされている。たとえば、それは理論的には「ひとの手を経由していないありのままの風景としての自然」だととらえることもできるように思う。でもこの映画を見てわたしがわたしが好きだと思うありかたとしての「風景」が感じられただろうかと考えれば、やっぱりわたしは感じられてはいなかったと思う。


 十八年という歳月が過ぎ去ってしまった今でも、僕はあの草原の風景をはっきりと思いだすことができる。何日かつづいたやわらかな雨に夏のあいだのほこりをすっかり洗い流された山肌は深く鮮やかな青みをたたえ、十月の風はすすきの穂をあちこちで揺らせ、細長い雲が凍りつくような青い天頂にぴたりとはりついていた。空は高く、じっと見ていると目が痛くなるほどだった。風は草原をわたり、彼女の神をかすかに揺らせて雑木林に抜けていった。梢の葉がさらさらと音を立て、遠くの方で犬の鳴く声が聞こえた。
 ――村上春樹「ノルウェイの森」
 

 たとえばこの文章を読んでわたしたちがある特定の共通の風景を思いえがくことはできないけれど、それは村上春樹の文章がだめだからというわけじゃない。一般に文章は風景を緻密に再現できるように書かれているわけではないし、たとえどんなに書いてもわたしたちはつねにそれとはべつのものを想像したり、あるいはなにも想像しなかったりする。わたしはこの文章を美しいと思うけれど、そのときわたしはかならずしもこの文章が書きだしている風景が美しいと思っているわけじゃないように思う。この風景描写が美しい、たとえばわたしたちがそんなふうに言うことはたやすくことができてしまうはずで、わたしが問題にしたいのは、そのときわたしたちが美しいと思っているそれは文章それじたいなのか、それとも文章それじたいによってわたしのなかに想像された風景なのか、あるいは、文章それじたいによってわたしのなかに想像されなかった風景なのか、ということだと思う。


 現代人が本を読むときには、一ページの一つ一つの言葉を(いわんや綴りを)読みとることはほとんどなく、むしろ二十の字のうちからいい加減に五つくらいを拾って、この五つの字に属しているらしい意味を「推察」するのであるが、――同様に、われらがたとえば樹を見るときも、葉や枝や色や形を正確に完全に眺めることはない。われらにとっては、樹という漠然たる形を空想に描きだす方がやさしいのである。もっとも異常な体験の場合すら、われらは同じようなことをする。われらは体験の大部分を仮作する。そうして、「発見者」たらんと志すときのほかは、いかなる出来事をもわざわざ観察しようとは努めない。これによって見れば、われらは根本的にむかしから、――詐ることに慣れているのである。より上品に偽善的により快い表現を用いるならば、われらがみずから知るよりもはるかに芸術家なのである。――たとえば、活発な会話ををしながら、われらは相手の顔をとても肉眼が及ぶことのできないほどにはっきりと細かく見ることがあるが、これとても相手が述べる思想や自分が相手に喚び起したと信ずる思想がそう思わせるのである。この際の相手の顔の筋肉の動きや目の表情のこまやかさは、われらが想像して描き出したものなのである。相手はまったく別の表情をしていたか、または何の表情をもしていなかったのである。
――ニーチェ「善悪の彼岸」


 小説を読むとき、わたしたちはそこの書かれた文章をちがう文章を読んでいて、映画を見るとき、わたしたちはそこにうつしだされた映像を見ていて、音楽を聴くとき、わたしたちはそこに鳴っている音とはちがう音を聴いている。そしてときどきわたしたちはその文章やその映像やその音が直接的に表現しているものとはちがうものすら想像しないままにその表現にふれつづけているのかもしれないとときどき思う。わたしが重要だと思うことは、「そのときわたしたちが想像しなかったもの」ですらわたしたちは愛せてしまうことだと思う。だから、小説も映画も音楽も「そのときわたしたちが想像しなかったもの」をわたしたちが愛するための装置でしかないのかもしれない。でも、わたしはそれがかなしいことだとは思わない。




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