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あらゆる意味を剥離されたにんげんあるいはにんげんの身体そのものから発露されるグロテスクなもの

2015.01.22(01:03)

パノララパノララ
(2015/01/15)
柴崎 友香

商品詳細を見る


 野崎まど「know」
 深水黎一郎「ウルチモ・トルッコ」
 以上の物語内容に結末をふくめて言及しています。

 1月5日(月)

 会社にいった。


 1月6日(火)

 会社にいった。


 1月7日(水)

 会社にいった。歯医者にいったら歯をごりごりされた。


 1月8日(木)

 会社にいった。


 1月9日(金)

 会社にいった。

 
 1月10日(土)

 会社にいった。会社にいってしまった。
 家に帰って柄谷行人「日本近代文学の起源」を読んだ。
 SFは一般的にわたしたちの未来の世界のことを描いているけれどそれは「わたしたちの未来の世界」のうちがわで描かれているわけじゃない、ということを思った。たとえば野崎まどの「know」ではいまから50年ほどあとの世界が描かれているけれど、その世界はその世界のうちがわから描かれているわけじゃなくて、いま現在のわたしたちの視線からその世界のことが描かれているように思えて、そしてそうであるならSF的であるということはわたしたちが描いているその視線のありかたにつけられた名称でしかないようにも思う。
「know」では主人公の連レルがひとびとの頭に電子葉が生めこまれた世界のありかたを描写している。彼はそうなった社会のありようとか電子葉が埋めこまれたひとびとがその電子葉をつかっている様子をいろいろと語っているけれど、未来の世界のひとびとがそうであるようなありかたを彼がしているわけじゃないように見える。わたしたちが科学的にあるとか、コンピュータが進化するとか、そういうものはけっきょくのところわたしたちが機械化されてなお機械であるということを意識しないというかたちでなされていくしかなくて、それは端的にいってこれからの科学的なものとか機械的なものはわたしたちがスマートなかちであれるようなものとしてしか進化していかないだろうということだけれど、でもわたしはそんなふうに漠然と思う。そしてそうであるならわたしたちが電子葉をつかうときわたしたちは電子葉をつかうことを意識しないと思っていて、わたしたちが他人としゃべったりするということをいちいち意識しないということがそうであるようにそのような未来ではそうなっているように思うし、もしもそうでないならそれはたぶん未来じゃないように思う。だから、電子葉をつかう、ということをそのつど意識していかなければいけない連レルは舞台の設定とははんたいにあくまで現代的な意識をたもちつづけているように見える。彼が見ている世界はわたしたちが想像しなかったような未来じゃなくて、いつかだれかが書いた小説やいつかだれかが見た映画なのかもしれない。この小説におけるほんとうの未来世界と呼べる世界というのはほんとうには最終章のなかでだけ描かれている死後の世界が既知のものとなった世界としてあって、そして、だからこそ作者も連レルもあの世界についてまったくなにも語らない。
 でもそれはべつにSFの欠陥というわけでもきっとなくて、ふつうに生きているわたしたちが未来を想像するときそこに想像されるものはいつも過去のものだし、それに、わたしたちが未来だと思っているものを未来のうちがわから見る場合、おそらくわたしたちはそれがSFだということに気がつくことすらできないんだろうと思う。


 1月11日(日)

 いちにちじゅう「ゼーガペイン」を見ていた。声、というか、しゃべりかたをもふくめた声という意味ではわたしは「lain」の清水香里や野津あおいや青柳いづみがほんとうにすごいと思っているけれど、「ゼーガペイン」の花澤香菜もほんとうにすごい。

 
 1月12日(月)

 いちにちじゅう「ゼーガペイン」を見ていた。おもしろかったと思う。


 1月13日(火)

 会社にいった。柄谷行人「意味という病」を読んだ。


 1月14日(水)

 会社にいった。柄谷行人「隠喩としての建築」を読んだ。


 1月15日(木)

 会社にいった。柄谷行人「内省と遡行」を読んだ。


 1月16日(金)

 会社にいった。柄谷行人「内省と遡行」を読んだ。


 1月17日(土)

 柄谷行人「〈戦前〉の思考」を読みながら電車にのって、横浜までいって柴崎友香「パノララ」を買った。STスポットで鳥公園「空白の色は何色か?」を見にいくつもりでお友達と待ちあわせをしていて、でもお友達はさいふをわすれてわたしはさっさとさきにいって見ていた。見おわったあとにいっしょにごはんを食べた。お友達はずっとニーソックスさいこうと言っていた。なんだろうこのひとはと思ってばかりいた。
 たとえばわたしたちがある作品を見てその作品について語る、ということはほんとうにはどういうこととしてあるんだろう、とときどき思う。わたしたちはわたしたちがその作品を見たということ、そしてそこで抱いた感情やその作品の放った印象やその作品の意味について語り、わたしたちはそのことを「その作品について語る」と呼ぶ。けれど、おおくの場合そこで語られているのはその作品を見たわたしたちの体験で、そうであるならわたしたちが語っているのは「その作品」ではなくてその作品を見た「わたし」なんじゃないだろうか、という気がする。でも、わたしはだから「たとえば主観をできるだけ排除して、『わたし』について語るのではなく『作品』について語ることこそがしんの批評だ」ということを言いたいわけではまるでないし、しんの批評があるなんて思ってもいない。わたしはただわたしたちの語りかたはけっきょくのところなにを語ったとしても「わたし」についての語りにならざるをえないありかたをしているかもしれないということを思っているだけで、だからわたしたちはなにを語ったとしてもわたしたちの物語を語ってしまうのかもしれない。けれど、重要なことはそのようなかたちで語られる「わたし」というものも「ありのままのわたし」というわけではもきっとなくて、わたしたちが作品を語るときの「わたし」はつねにその作品を語るその語りのありかたに縛られているはずだと思う。わたしはこれから鳥公園「空白の色は何色か?」についてサンプルをひきあいにだしつつ語ろうと思っているけれど、そうやって語られた「わたし」というものはサンプルを通過してきていて、それはサンプルについてなにかを考えたり語ったりした過去の「わたし」への参照としてあって、そんなふうにつくられた「わたし」は一回性の「わたし」ではなく複数の「わたし」としてあるように思う。そのときの過去の「わたし」が主観的存在なのか客観的存在なのかという問いにはたぶん意味はないし、わたしたちは主観と客観という対立的な概念があるように考えがちだけれど、客観というものも主観から生みだされたものとしてあるだけで、たとえば会社で仕事をすれば「客観」という概念が重視されるけれど、それはけっきょくのところ「わかりやすさの重視」と「数値化されたデータ(具体性)の重視」というものの言いかえにすぎなくて、それは技術的な問題としてあるだけで精神的な問題としてあるわけじゃない。重要なことはわたしたちはつねに「わたし」というものを作品を見るたびに構築しているということで、それを「仮想のわたし」として見るか「実体としてのわたし」として見るかはその価値観によっていて、そしてわたしたちの作品への語りがそのようなありかたをしているとするならば、そのときつねに「わたし」によって見られた作品は「わたし」に回収されることで忘却されつづけているかもしれない、ということだと思う。わたしたちが作品について語るとき、作品はわたしたちによって語られた「わたし」の部分として配置される。だからわたしたちはその作品をわたしたちの記憶にとどめるためにその作品について語るのではなく、その作品をわたしたちのなかにとりこみ「作品そのもの」を忘却するために語っているように思う。そのときわたしたちが愛しているのは「作品そのもの」ではなく「わたしたちに語られた作品」としてあって、そして「わたしたちに語られた作品」というものだけが「わたし」としてあるならば、わたしたちはいつも「わたし」だけを愛しつづけているんだろう。
 鳥公園「空白の色は何色か?」という演劇はグロテスクな作品だったと思う。グロテスクな演劇としてわたしが思いおこすのはサンプルの演劇だけれど、わたしが見たかぎり、サンプルの特徴は「にんげんの身体」と「もの」の境界を失わせていることだと思う。たとえばサンプル「永い遠足」では羽場睦子があんパンを胸につけてそれを乳房だと見なしていた。ここで重要なことは、おそらくわたしはここでそのあんパンにたいしてグロテスクなものを感じていたような気がする、ということだと思う。
 グロテスクなもの、というときそれは視覚的なもの不快さとしてうけとめられがちだけれど、そうじゃなくてわたしたちはそのものが持っている「意味」にゆらいしているように思う。たとえばかなしみホッチキスの「タオルケットをもう一度」というゲームでは、スーパーファミコンレベルのドット絵で描かれた登場人物たちが牛と交配されたり、内臓や脳味噌を露出させて殺されたりするけれど、その視覚的表現というものはグラフィックスレベルのたんじゅんな意味においてはリアルだというわけじゃない。それにもかかわらずわたしたちがそこにグロテスクさを感じるならば、きっとわたしたちはそのような視覚的な表現をされたものの「意味」そのものにたいしてグロテスクさを感じているように思う。つまり、わたしたちはそのグラフィックスから現実的にリアルな映像としての内臓や脳味噌を想像してそしてその想像されたものをグロテスクだと思っているわけじゃなくて、わたしたちはそのグラフィックスから現実的にリアルな映像を想像することなくそのグラフィックスそのものをグロテスクだという認識を持つことができているんだろうという気がする。おなじようにサンプル「永い遠足」においても、あんパンはただあんパンとしてあるだけでグロテスクなものとしてあるわけじゃなくて、きっとわたしはそのあんパンが彼女の乳房としてあることにたいしてグロテスクさを感じているんだと思う。たんじゅんな意味ではそのときあんパンは彼女の乳房の比喩としてあるかもしれないけれど、比喩というもののある種の機能は「本来は無関係な複数のものを関連づけることによって本来は無関係であるはずのその個別なものたちの意味や印象がたがいにまざりあったかたちで比喩されたもののうえで発露する」ということだとわたしは思っていて、でも、サンプル「永い遠足」においては比喩されたもの、比喩したものの区別はおさらくはなされていないように思う。それはたんじゅんにはこれが文章で描かれたものではなくて演劇だということによっているのかもしれないけれど、このとき、あんパンは彼女の乳房として比喩されていると同時に彼女の乳房はあんパンとして比喩されているようにわたしには見える。わたしが思う比喩の機能でいえばそれは基本的に単一方向的な機能としてあらわれていて、一般的に比喩されるものは比喩するものの意味や概念や印象だけを発露するものだと思う。たとえば「彼女の笑顔は花のようだ」という文章があったとすれば、それはもちろん花について語っているのではなくて彼女の笑顔について語っていて、花という概念や意味や印象だけがそれを語るにんげんによってとりだされているだけだと思う。だから、この文章では彼女の笑顔は存在しているけれどこのとき比喩している花じたいはどこにも存在していない。重要なことはサンプル「永い遠足」においてはこの単一方向的な流れがうちけされているということだと思う。彼女があんパンを乳房と呼ぼうと乳房をあんパンと呼ぼうともうおおきなちがいはなくて、このとき舞台のうえには実際のあんパンも乳房も物体として存在してしまっている。だから、きっとそれはもうすでに比喩ですらないように思う。このとき、舞台のうえには「あんパンとしての乳房」と「乳房としてのあんパン」が同時に存在してしまっていて、しかもわたしたちはきっと「あんパンとしての乳房」と「乳房としてのあんパン」をもうすでに区別することはできないでいて、そこに生じている意味と物体の乖離がわたしたちにグロテスクさを感じさせているんだと思う。
 鳥公園「空白の色は何色か?」という演劇においてもこのたぐいのグロテスクさはことこまかく埋めこまれている。登場人物は3人だけしかいないけれど、AはつねにAを演じるわけではなく、Aはおそらくはなんの意味もなくBやCを演じてしまうし、それだけではなく、テツオという人物は俺はもうテツオをやめると言って2000円で買ったどうでもいい仏像にテツオであるということを委託してしまう。これは外面的にはただの設定としてしかうけとれなくて、その舞台を見ているわたしたちも、そしてテツオの暮らす部屋にやってくる女の子ですらもテツオを演じている役者をテツオだと見なし、その仏像はテツオであることを委託されたただの設定としてのテツオだとしかうけとめられないで、わたしたちは舞台のうえに存在している意味と物体(人物)の乖離にたいしてグロテスクなものを思いうかべるだろうと思う。ここまではおそらくはサンプルがやっていることとおなじ作品のありかたをしているようにわたしには思える。でも、鳥公園「空白の色は何色か?」がおそろしいのはたぶんこれ以降にあって、仏像にテツオを委託したテツオという人物はそのあとあらゆる欲求を失って衰弱していく。彼はほとんどなにも食べないで(ときどき自分の排泄物を食べる)、睡眠もほとんどとらない。彼はだれも愛さないし、彼らが疑似的に形成している家族というかたちの意味すらもまるで理解できないと語り、他者を信頼するということがどういうことなのかまるでわかったことがないと語る。端的にいえば、彼はもうすでににんげん的であることをやめている。サンプル「永い遠足」において、羽場睦子は乳房はあんパンで、あんパンは乳房だという表現をとることができている。けれど、それはつまり暗黙に乳房というもの、そしてあんパンというものの存在の意味を前提としている。彼女がこう表現するとき、彼女の乳房には、あるいは彼女の身体にはなんらかの意味があるということを暗に言っているようにわたしは思う。鳥公園「空白の色は何色か?」がおそろしいのはおそらくわたしたちがそうやって前提としているにんげん的なものの意味を、にんげんの身体の意味をまったくとりさってしまっているところだと思う。終盤のテツオはおそらくすでになんの意味すらも持っていない。彼はなにかを語るけれど、すでにその語ることにも語られたことにもなんの意味はない。彼はなんの意味も持たないひとつの肉体としてそこにいて、そしてほんとうに彼はその舞台のうえに肉体としてただいるだけにすぎない。にんげんはただにんげんとしてそこにいるわけじゃない、という認識を鳥公園はわたしたちにあたえる。にんげんもにんげんの身体もつねに「意味されたもの」、あるいは「比喩されたもの」としてそこに存在していて、わたしたちやわたしたちの身体はありのままのものとしてそこにあるというわけじゃない。鳥公園はグロテスクだけれど、サンプルで表現されていたグロテスクさとはまったくべつのありかたとしてのグロテスクさを持っていると思う。ものから意味を転移された身体、身体から意味を転移されたもの、それはおそらくともにグロテスクだけれど、鳥公園のグロテスクさはあらゆる意味を剥離されたにんげんあるいはにんげんの身体そのものから発露されるグロテスクさだと思う。わたしにはすくなくともわたしたちから意味内容を剥離してありのままのにんげんになれ、なんてことは言えないし、言わない。けれど、わたしたちは意味を剥離されたテツオの身体をとおしてわたしたちの身体にまとわりついた意味、そしてその意味が身体そのもののよりも遥かに美しいこと、それらがほんとうにはいったいどういうことなのかを考えることはできるように思う。それがたとえ希望ではないとしても。


 1月18日(日)

 ドトールにいって文章を書いて、モスバーガーにいって日記を書いて、家に帰って柴崎友香「パノララ」をずっと読んでいた。


 1月19日(月)

 朝おきて柴崎友香「パノララ」を読みおえて、河出書房新社にいった。わたしはわたしが書いたものについてだいたいなんにもわかっていなくて、わたしが書いた文章でもどういう意味だろうと思ってばかりいて、だからそれはもしかしてまじめに考えたほうがいいようなものなんだろうかとときどき思う。
 家に帰って「NOIR」を見はじめて、安心して見られる作品だと思った。第1話からとくにもりあがる場面でもないのに音楽が鳴っていること、そしてそれが不愉快ではないありかたをしているということがいいと思う。そして、ミレイユが霧香と比較して弱すぎるような気がしてほんとうにだいじょうぶなんだろうかという気がした。あとはこのふたりがいっしょに暮らしていてもおたがいの名前をほとんど呼ばないところがいいと思う。4話まででたぶん霧香が1度か2度、そしてミレイユにいたってはたぶんいちども呼んでいなくて、この作品においてそれがリアリティをましているというわけじゃないけれど、現実的にわたしたちがだれかとふたりでいるときにおたがいの名前を呼びあうことはほとんどないとわたしは思っていて、作品のなかでそれがなされるとしたらそれはとくべつな意図があるか、あるいは映像というものがあらかじめない場所で考えられたことを映像にむりやりあてはめようとしているからだと思う。
 柴崎友香「パノララ」はわたしは奇妙な小説だと思うけれど、その奇妙さについてあんまりうまく言えないような気がする。柴崎友香の作品をわたしが好きなのはたんじゅんでそれは彼女が世界を美しいものとして見ているからだと思う。たとえば彼女の小説はほかの小説にくらべて小説のなかの人物が見ているものや人物が考えていることとその人物の抱く気持ちが直結していて、その気持ちの反映として世界が美しくそして鮮明にひらかれていくような印象があった。
「小説のなかの人物が見ているものや人物が考えていることとその人物の抱く気持ちが直結」しているということなんてあたりまえのことのようにも思うけれど、でもすくなくともいま現在つくられている作品のなかの人物はほとんどはたぶんそういう描かれかたをされていない。彼らは自分が「うれしい」と思っていてもきっと自分がどうして「うれしい」のかわかっていないし、あるいは、もっと言えば彼らが「うれしい」ためには彼らがうれしいためのなんらかのものを必要としていて、しかもそれはたびたび隠蔽されているように思う。そして、そうやって必要されたもの、必要とされてなお隠蔽されたものが彼らの感覚と彼らの見るものや彼らの考えるものを遮断していて、はんたいに、その遮断を消しさった場所で柴崎友香の小説はなりたっているような気がしていた。


 映画館は空いていた。いちばん後ろのいちばん端の席に座った。映画はおもしろかった。百貨店に入って、ずっとほしい地球儀を見に行った。五万円で、棚の同じところに置いてあった。わたし以外にほしい人はいないのかもしれないと思った。だからって安くはならなかった。作った人がすごいからだと思った。広い歩道橋を歩くころには暗くなっていた。人がたくさん歩いていた。一人残らず知らない人だった。誰もわたしを気にかけなかった。
 どこにでも行ける、と思った。わたしはどこにでも行ける。その意志があれば。
             ――柴崎友香「ビリジアン」


 たとえばこの文章では彼女が抱く感情のために必要なものはなにもないように見える。彼女はおそらくは彼女が抱く感情にたいしてなにも用意はしていないし、だから「どこにでも行ける」ような気がするんだとわたしは思う。「パノララ」を読んだあとからふりかえってみれば、ということだけれど、柴崎友香の小説がそうであったようなありかたがその世界への理解みたいなものだったように思う。いままでの小説の主人公が他者の考えかたとか気持ちを理解していたとか世界のありかたを理解していたとかそういうことじゃないけれど、ただ漠然とそういうことだけが世界への理解みたいなもののように思う。でも「パノララ」の主人公はたぶんそういうありかたとはぜんぜんちがうありかたをしていると思う。まとまりも中心も欠いた「パノララ」はつねに緊張みたいなものがずっと走っているように思う。でもそれは不穏さとか不気味さとかとはちがう。彼女はわたしから見たらだれともほんとうには親密ではないなくて、でもその緊張や世界や風景からほんとうに疎外されているわけでもなくて、ものすごくちいさな世界への理解みたいなものでどことなく親密としてある世界とつながっていて、たぶん、わたしはそのつながりかたが奇妙に見えているんだと思う。


 1月20日(火)

 会社にいった。深水黎一郎「ウルチモ・トルッコ」を読んだ。「読者が犯人」というトリックに挑戦した作品で、被害者は対人恐怖症で文章を読まれただけで苦痛を覚えるという設定となっていた。被害者は主人公の小説家に手紙を送っていて、そこには彼のいろいろな体験が書かれている。主人公の小説家はその手紙を新聞小説としてそのまま公開し、その新聞小説じたいが「ウルチモ・トルッコ」というこの小説だというメタ的なしかけになっている。そして、その新聞小説(=「ウルチモ・トルッコ」というこの小説)を多数の読者(=わたし)が読むことによって被害者は死にいたった。だから被害者を殺した読者(=わたし)が犯人となる、というしかけになっている。
 基本的に「読者が犯人」というしかけがむずかしいのはメタ的なことだと思っていて、このトリックが衝撃をあたえるには「その新聞小説を読んでいる読者」と「わたし(この現実レベルにいるただひとりのわたし)」が同一だという意識じたいが問われると思う。「『新聞小説』=『ウルチモ・トルッコ』」という論理がいっぽうであって、だから「『その新聞小説を読んでいる読者』=『わたし(この現実レベルにいるただひとりのわたし)』」という論理がそこから導かれるわけだけれど、問題は「『その新聞小説を読んでいる読者』=『わたし(この現実レベルにいるただひとりのわたし)』」という認識を持っている「わたし(わたしたちを認識するわたし)」という存在がいるということで、この場合、わたしたちが通常の意味でいう「わたし」とは「わたし(わたしたちを認識するわたし)」のことであって「わたし(この現実レベルにいるただひとりのわたし)」というのはこのときわたしたちにとってはほんとうには「わたし」じゃない。「わたし(この現実レベルにいるただひとりのわたし)」というのは「わたし(わたしたちを認識するわたし)」がつくりだした「わたし」で、「わたし(この現実レベルにいるただひとりのわたし)」が論理的に被害者を殺したとしても、「わたし(わたしたちを認識するわたし)」は彼を殺してはいないからわたしたちが彼を殺したというおどろきとしての実感を持つのはむずかしいし、小説のなかの被害者に等号でむすばれる現実レベルでの対象物はあたりまえにないから現実レベルの図式はくずれてしまう。「『その新聞小説を読んでいる読者』=『わたし(この現実レベルにいるただひとりのわたし)』=『わたし(わたしたちを認識するわたし)』」というかたちでつなぐのがむずかしいというのがそもそもの問題なんだと思うけれど、メタ的なレベルでいえば、「『その新聞小説を読んでいる読者』=『わたし(この現実レベルにいるただひとりのわたし)』」をむすぶ「=」と「『わたし(この現実レベルにいるただひとりのわたし)』=『わたし(わたしたちを認識するわたし)』」をむすぶ「=」は存在のありかたの次元がちがうから後者の「=」は作品内の論理ではけっしてむすばれないように思う。たとえばこの小説のなかで語られる四つ葉のクローバーの話、ああいう話がたぶんその後者の「=」をむすびえるという気がする。
 そして、わたしにとってはミステリにおける謎解きはたぶん広義での意味に変容にあると思う。AとBという犯人候補がいるとして、わたしはだいたい犯人はAでもBでもどちらでもよくて、重要なことはAが犯人だとされたときにその世界やその殺人やそれまであった感情がどんなかたちで変わっていくかということだと思う。謎なんてなかった、ということでもいい。謎をつくっているのは探偵で、犯人にとって謎はそもそも最初から謎ですらない。




コメント
酔える作品、その作品そのものに対してだか、その作品を読んでいる自分自身に対して酔っているんだか解らないけれど、もしそういう酔える作品を良い作品と世間が見なしているとするならば、「世界泥棒」はそれらとは違って何処か一定の距離を置いた何かであるような気がします。

日常生活の中で突き放したような台詞を吐くことはできるし、そのような若者の姿はよく目にするかもしれないけれど、作品の中で言葉の操り手としてのあくまで真摯な詩人としてそれを断行するのは難しい。ただそうあることは難しい。

例えばロジックを気の利いたパズルのように組み合わせて、ちょっと読者を突き放すようなことをやってみせるのは確かにかっこいいし、そういったことの得意な作家さん方も大勢存在するでしょう。しかしそのような作家さん方の方法論と桜井さんのやっていることとはかなり違うと思います。

問題はそれを読み取ってくれる人がどれだけいるかということで、そこが心配になる点でもありますし、近年の出版業界の在りかたを考えても懸念材料は多々ありますが、必ずや次の一手を解き放ってくれるものと大大期待しております。

話は少し変わって質問ですが、小説を書く時は手書き(原稿用紙、ノート)でしょうか、キーボード打ち込み(PC、ポメラ等)でしょうか?。また横書きか縦書きかどのようにお書きでしょうか?。最近VerticalEditor等を使って文章を縦書きにして読んでみたり(実験っぽく)などしています。一方(自分の頭の中)では横でも縦でも同じじゃねぇかという気もなんだかするのですが。
【2015/01/22 11:50】 | coi #MCQq8fME | [edit]
coiさんへ

ありがとうございます。
こわいのは なにも語らずにつきはなされることもある ということだと思います。
やさしくしているつもりで それはけっきょくやさしさではない ということがありえる
ということだと思います。
そうであるなら 語りつづけることがかろうじて僕たちを守るやりかたなのかもしれないですけれど
それはほとんど卑怯なやりかたとひとしくなるように思います。

僕は現在の出版社のありかたに不安も不満もないですから
書くことはやめないつもりです。
 
小説を書くときはポメラです。古い型で横書きです。
才能がないひとは なんであれ 
書くための技術を持てば書けるし
書くための技術を持たなければ書けない
というだけのことのように思います。
才能がないひとにとっては スタイルというのは
気持ちの問題ではなく技術の問題だと思っています。
【2015/03/04 00:18】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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