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言葉で表現できる水準の対立

2015.03.04(00:00)

金を払うから素手で殴らせてくれないか?金を払うから素手で殴らせてくれないか?
(2014/03/27)
木下 古栗

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来たれ、野球部 (講談社文庫)来たれ、野球部 (講談社文庫)
(2014/03/14)
鹿島田 真希

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 1月21日(水)

 会社にいった。


 1月22日(木)

 会社にいった。


 1月23日(金)

 会社にいった。


 1月24日(土)

 矢部崇「紗央里ちゃんの家」を読んだ。この小説は、たとえばカフカの小説に似ているように思う。そのできごとが現実に準じた現実性を保有しているわけではないのに、できごとのいちいちが持つ質感は現実に準じた現実性だけをかろうじて保有していて、だから、おそらくはそれだけが小説の現実性を露出させているように思う。あとは会話文の書きかたが、このひとはおそらくこの会話文を自分でも支配できないままに書いているように見えるけれど、それでもとてもうまいと思う。


 1月25日(日)

 木下古栗「金を払うから素手で殴らせてくれないか?」を読んだ。この小説は中原昌也の小説に似ていて、わたしは読んでいるあいだ何度か笑った。こういう小説のおもしろさ、というものはいつも奇妙で、こういう小説がもっとはばひろく読まれたらいいのにと思うけれど、わたしはなにもしないんだろうと思う。ある時期からの高橋源一郎の小説も、そして中原昌也の小説も、もともとはブコウフスキーからきているものだとわたしは思っていて、けれど高橋源一郎は書くことにまえむきで中原昌也はぎゃくにうしろむきだと思う。でも、けっきょくはそのどちらも、あるいは木下古栗の小説も質的にはおなじちからをそのうちに秘めているように感じられる。たとえば、村上春樹が書くことにまえむきだからといっても高橋源一郎の「まえむき」ということとはまるでちがった意味あいを持っていて、だから、これはいつもそうだけれど、重要なことは言葉で表現できる水準の対立を避けつづけることだと思う。それは「うしろむき」なことなのかもしれないにしても、すくなくともわたしが感じれるせつじつさというのはそのなかにしかないように思う。
「言葉で表現できる水準の対立を避ける」ということはおそらくすべてを愛するということだけれど、それはきっと論理的な話でしかないし、論理的に考えれば、すべてを愛するときすべてのものはそのときすでに愛を失っている。問題はそのなかでなおなにかを愛するやりかたで、そのなかにはいやおうなく差別的な感情が含まれている。愛するということが絶え間ない差違化だとすれば、そこにはもう純粋なものなんかないように思えるし、ぎゃくに、差違化にたいする感情の希薄さこそが純粋なものとも呼べるようにも思える。


 1月26日(月)

 会社にいった。


 1月27日(火)

 会社にいった。会社の試験の勉強でもいいかげんにしようかしらんと思ってドトールにいくと、きみTwitterのアカウントのっとられてるよ、というおそろしいメールががりがりとどいていたことに気づいて帰った。いきなりサングラスとかすすめてなに考えてるの、とか、マッカーサーになれっていうの、とか、そんなことを言われていて、どうしようかと思った。俺じゃない、俺じゃないよ、と思った。よくわからないけれど、Twitterのほうで自動的に排除されていたらしくて、わたしはわたしもどきが撃ちはなったツイートを見ることはできなかったけれど、レイバンのサングラスをあらゆるひとにおすすめしていたらしかった。みんな、レイバンのサングラスを買おう!


 1月28日(水)

 会社にいった。モスバーガーにいって会社の試験の勉強をした。


 1月29日(木)

 会社にいった。モスバーガーにいって会社の試験の勉強をした。


 1月30日(金)

 会社にいった。


 1月31日(土)

 柴崎友香「きょうのできごと、10年後」を読んで、中村文則「何もかも憂鬱な夜に」を読んだ。おもしろかった。


 2月1日(日)

 村田沙耶香「マウス」を読んだ。


 2月2日(月)

 会社にいった。夜中に友達から電話でかかってきて、旅行にいこうということだった。友達は沖縄か種子島か屋久島か蟹と言った。蟹と種子島はないなとわたしは言った。沖縄もないなとわたしは言った。だから屋久島にいくことにした。


 2月3日(火)

 会社にいった。


 2月4日(水)

 会社にいった。ヴォネガット「母なる夜」を読んだ。


 2月5日(木)

 会社にいった。木下古栗「いい女vs.いい女」を読んだ。


 2月6日(金)

 会社にいった。鹿島田真希「来たれ、野球部」を読んだ。わたしはこの小説を圧倒的におもしろいと思うけれど、それについてはなにも言えない。


 2月7日(土)

 ドトールにいって依頼されていた原稿を書いて、それからモスバーガーにいって依頼されていた原稿を書いた。


 2月8日(日)

 ドトールにいって小説を書いて、それからモスバーガーにいって小説を書いた。


 2月9日(月)

 会社にいった。


 2月10日(火)

 会社にいった。


 2月11日(水)

 ドトールにいって小説を書いて、それからモスバーガーにいって小説を書いた。


 2月12日(木)

 会社にいった。


 2月13日(金)

 会社にいった。


 2月14日(土)

 屋久島になにがあるのか知らなかったけれど、縄文杉があるらしかった。
 柴崎友香「ドリーマーズ」を読んだ。「ドリーマーズ」はいちどどこかで読んだ記憶があるけれど、わたしは読んだことがないと思いながらこれを読んでいて、だから不思議な気持ちがした。
 酔っぱらっている、という状態の「わたし」を書くとき、わたしたちはそのときの「わたし」を外面的なものから書いてしまうように思う。それは足がふらふらしているとか気持ちがわるくて吐いてしまったとかそういうことだけれど、たとえば中村文則「何もかも憂鬱な夜に」はその感覚としての不快さを前面におしだしていて、それは「おそさ」とか「にぶさ」に直接つながっている。わたしたちが知っているはずの世界のありかたがわたしたちが知っているものよりも「おそく」そして「にぶく」あって、だからこそわたしたちはその感覚の原因としてあるだろう世界の粘膜めいたものに不快さを感じてしまうように思う。それを書きこめば中村文則が書いたようになって、それが「わたし」にとってすらもよくわからない憂鬱な夜になりかわるように思う。けれど、わたしたちはわたしたちが酔っぱらっているそのまえの状態からすでにその憂鬱にとらわれていて、酔っぱらう、ということはその憂鬱さを解決することにはならない。わたしたちが世界の粘膜にふれたところでその粘膜が消えるわけではなく、「何もかも憂鬱な夜に」の彼はおそらくはそのことをすでに知ってしまっている。
 いっぽうで、柴崎友香「ドリーマーズ」の酔っぱらった感覚というのは「はやさ」と「にぶさ」にむすびついている。世界は加速していて、そのなかで「わたし」はおきざりにされそうになりながら加速していて、その加速が彼女にほとんど絶対的なたのしさをあたえている。彼女には過疎化した世界のほつれめからあたたかい光が射している。重要なことは、わたしたちにとっての世界がそうでありえるということを知ることだと思う。「ドリーマーズ」のなかで彼女はそこでおこっていることのちいさなことがらのいちいちに感応していて、それだけが世界のたしかさとつながりえるように思う。




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