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言文一致体と3D映画

2015.03.04(23:57)

カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)
(1978/07/20)
ドストエフスキー

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 3月3日(火)

 朝おきてドトールにいって日記を書いた。それからシネスイッチ銀座までいってゴダール「さらば、愛の言葉よ」を見て、電車にのって帰った。「カラマーゾフの兄弟」をずっと読んでいた。近くにこどもたちがいて、こどもたちは俺PKちょううまいよとかそんなことを言っていた。
「さらば、愛の言語よ」は「ソシアリスム」とおなじでどういう物語なのかやっぱりまるでわからなかったけれど、映像を見ているとどきどきしてしまう。「世界泥棒」のなかであやがアンゲロプロスの映画を見ながら、なにがおこっているのかわからないけれど、たいせつなことがうつっているような気がする、そしてそれだけが気持ちがいい、みたいなことを言っていたけれど、そういう感じがする。
 物語を理解できない、ということを前提にすればこの映画はとてもたんじゅんで、この映画には映像と言葉と音楽と編集しかない。そして、けっきょくは映画とはそれだけのものなんだと思う。それでも、わたしたちが映画を見るときにはそこには映像と言葉と音楽と編集以外の「なにか」があるようにいつも感じてしまう。そしてわたしたちが見ていると思っているものはその「なにか」であって「映像と言葉と音楽と編集」ではない。これは映画だけの話ではなくて、小説でもおなじで、小説はけっきょくのところ文章でしかないし、その読みかたもただ文章をうえからしたに読んでいくだけしか本来的にはありえない。でも、わたしたちはそれよりももっとむずかしいことをやろうとして、それができなくて、そのことを「理解できない」という表現でまとめてしまっているようにときどき思う。
 わたしたちが「理解できない」と思うとき、その理解できない対象は作品のなかにあるのではなくてわたしたちのなかにある。「理解できない」というのは孤独な感情だけれど、それは、わたしたちがその作品からつきはなされていると感じるからではなくて、わたしたちがその作品にふれてさえわたしたちのなかに徹底的に閉じこめられていることを無意識に感じてしまっているからなのかもしれない。
 3D映画というものに、すくなくともわたしはこれまでに3D固有の価値を感じたことはなかったし、端的に言えば「さらば、愛の言葉よ」でもやはりおなじだった。右目視点のカメラと左目視点のカメラがそれぞれ剥離していってふたつの像がかさねあわされているあの場面を見てもわたしはそうだった。それでも、この映画はわたしがとてもひさしぶりに見た3D映画だったし、なにかを語りたいと思ってしまうのは、さらば、愛の言葉よ」の3D映像に見られたところどころのいびつさだった。「さらば、愛の言葉よ」ではあきらかに縮尺が狂っている映像がいくつもうつしだされている。裸の男の足首、柵の向こう側で柵にかたほうの手をかけている女のひとの手、たとえばそれらはあきらかにわたしたちがふつうに知っている一般的な絵画の遠近法を逸脱している。これがいまの3D映画の技術的な問題なのか、あるいはゴダールがわざとそのような撮りかたをしているのか、ふだん3D映画を見ないわたしにはわからないけれど、重要なことはその遠近法の逸脱こそがわたしたちに違和をあたえるということだと思う。
 どんなに写実的な絵画も、写真も、実写映画も、わたしたちはそれが現実ではなく、絵画であって写真であって映画だということを「わかる」ことができる。わかる、ということはわたしたちはそこにうつしだされたものと現実のものの差違を知っているということで、けれど同時に、わたしたちはそれらのものをあたりまえに現実的なものだと認識している。だから、わたしたちは遠近法的な世界を、つまりは数学的作図によってつくりだされた世界をとても現実的に見つめている。重要なことは、けっきょくのところ写真にうつしだされた風景そのものなんてこの世界の現実のどこにもありはしないのに、わたしたちはその風景がこの世界の現実のどこかにあるとほとんど疑いもなく思っているということで、だから、わたしたちが知っている現実とは現実的なもののことではなく、その現実を見つめているわたしたちの現時的な見かたなのかもしれないように思う。
「さらば、愛の言葉よ」の3D映像はその意味で一般的な現実的風景からは遠ざかっている。すくなくともゴダールの3D映像ではものとものとがそれぞれの部分部分ですこしずつずらされている。それは、けれど平面的な世界のうえに構築された孤独なずれであって、世界全体がそうなっているわけではなく、わたしたちは、どんなに3D映像を見たとしてもそれを現実と見まちがえることはいまの技術水準ではおそらくはないだろうと思う。それは、その映像がけっきょくのところ平面のうえにのみ構築されているからというたんじゅんな理由にすぎないのかもしれない。でも、重要なことは、3Dになったからといって、つまり、現実の形式に近づいたからといってそれらが現実そのものに近づくわけではない、ということだと思う。
 柄谷行人は、日本語の言文一致体は当時の話し言葉を書き言葉にうつしかえたものではなく、当時の小説家たちによって創作された言語だ、と言った。すくなくとも、それぞれの地方の方言でしゃべっていたおおくのひとたちにとってその言葉はまったくリアルなものではなかった、と。おなじように、近代遠近法によって描かれた絵画も特殊な技法によって創作された絵画だし、3D映画も特殊なカメラによって創作された映像でしかない。だから、その価値をはかるものは「より現実的かどうか」という問題ではなく、もっとべつのものであるようにわたしは思う。日本近代小説のはじまりは、その目的は、たんじゅんに言えばにんげんの感情をありのままに描くことだった。わたしたちは感情を描くために創作された言葉によってなにをしゃべりえるんだろう。そして、にんげんの感情というものがその実際として創作されたその文体から創造されたものだとしたら、わたしたちの感情とはほんとうにはどんなものとしてあるんだろう。そして、わたしたちがつくりだした映像はわたしたちのなかになにを創造するんだろう。
 こどもたちに言葉を教えるまえにカメラを持たせればなにかが変わるだろう、かつてゴダールはそう言った。こどもたちがパンを食べたいときにパンと言うのではなく、こどもたちはパンをそのカメラで撮ることになるだろう、と。このとき、こどもたちに語られたパンとカメラによって撮られたパンはそのものとしておなじものだろうか。「芸術的」ということの意味はそのパンとパンの差異へのまなざしにすぎない。


 3月4日(水)

 会社にいった。会社にいってしまった。なんだかよくわからないけれど仕事がいっぱいあって、それでもわたしは屋久島で買ってきたたんかんジュースなんかをあたりにくばっていた。
 帰りにモスバーガーにいって日記を書いた。煙草をやめようといちにちにいっかいは思っているけれど、やめてはいない。このあいだ歯医者さんにいったとき、煙草を吸っていますかと訊かれて吸ってますとこたえて、やめたほうがいいですよ、と言われた。知ってるけど、と思った。




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