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ロマンを生きることを現実のうえでのみ生きること

2015.03.09(00:04)

短篇五芒星短篇五芒星
(2012/07/13)
舞城 王太郎

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 3月5日(木)

 会社にいった。ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を読んでねた。


 3月6日(金)

 会社にいった。すっかりわすれていたけれど、わたしは2月にローゼンクロイツ「ダージュの旋律」、花姫パパ「セレンと虚空の塔」をクリアしていた。「ダージュの旋律」はとてもよかったと思う。
「セレンと虚空の塔」は村の近くにとつぜん塔ができるところからはじまる。べつの世界で強大なちからを求めようとした兄と妹がいて、兄はそのちからに飲まれて暴走、妹は石像に閉じこめられて、セレンたちはその兄と妹を解放するために塔を攻略していく、という物語だ。途中、塔の魔力を解放していくんだけれど、それがきっかけで村の近くに魔物が発生して村人たちは怪我をする。妹は。わたしたちのせいでこんなことになってごめんなさい、というようなことと言うんだけれど、セレンは、ぜんぜん気にしないでください、村のひとたちの怪我もたいしたことはなかったんだし、というようなことを言う。作者としてはいい場面として描いているんだと思うけれど、わたしはどうしてもひっかかってしまう。そもそもの話として、セレンは村人たちが怪我をしたことを許す立場になく、妹があやまるのはセレンにたいしてではなく村人たちにたいしてで、妹はそのあと村人たちに怪我をさせてしまったことを気にかけている様子はない。村のひとたちの怪我がたいしたことなかったのは事実かもしれないけれど、それはセレンたちが救助にまわったからで、彼らは実際に殺されかけている(足をやられて動けなくなっているひとまでいたのに)。そのとき、彼らが感じただろう殺されるかもしれないという恐怖の感情は、すくなくともこの物語ではまったく無視されているように感じる。
 セレンはあかるく、天真爛漫な性格をしている。問題なのは世界がそのセレンをつねに肯定するように動いているということだと思う。おそらくこの物語で唯一いっぽうてきに被害をうけた村人たちは、そしてその怪我は、ただセレンというキャラクターを肯定するだけの装置にしかなっていない。村人たちには自らの怪我を憂い、その怪我について他者と共有するだけの個性すらもあたえられていない。彼らが怪我をしたのはセレンが妹を許すためだけだったし、ひいてはそういうセレンを賞賛するためだけだったように見えてしまう。この物語にとってセレンは世界としてある。それはほんとうにはもう狂気でしかないのに、それは狂気としては指摘されない。なぜなら、世界そのものがすでに狂っているからで、そのなかで彼女たちは理性をよりどころにして動いているからだ。そしてその理性とは、作者が彼女たちにあたえたものでしかない。
 ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を読んだ。中巻のいいところはドミートリイが金策に奔走するところだけれど、この場面は基本的にはギャグとしか書かれている。ドミートリイにいきなり金鉱へいくことをすすめだすホフラコワ夫人はほんとうにおもしろくて思わず笑ってしまうんだけれど、重要なのは、それらのことをドミートリイが「リアリズム」だと言っていることだと思う。


 リアリズムってやつは、なんて恐ろしい悲劇を人間の身に引き起こすんだろう!


 ドミートリイはこの金策はまったくすばらしいものだと、相手がことわるはずがないと思いこんで相手のところにいくけれど、それはまったくくだらない理由で頓挫してしまう。ドミートリイ自身が抱いていたロマンにたいして現実はあまりにも滑稽で、その滑稽さだけがドミートリイを苦しめている。重要なことはそういう現実感のように思う。セッターのありかたもホフラコワ夫人のありかたも、すくなくとも現代のわたしたちから見たら自然主義的なふるまいではないけれど、その滑稽さにおいて、彼女はドミートリイにとってもそしてわたしたちにとってもきわめて現実的なちからでたちはだかっている。

 わたしは、ふた昔前の《ロマンチシズム》の世代に属する一人の娘を知っているが、この娘なぞは数年にわたってさる紳士におよそ理解しがたい恋をよせ、いつでもその男としごく円満に結婚できたのに、超えがたい障害を自分で勝手にひねりだして、嵐の夜、絶壁にも似た高い岸から、かなり深い急流に身を投じ、もっぱらシェイクスピアのオフェリアに似たいという、ひとりよがりの気まぐれから生命を落としたのである。それも、彼女がかねがね目をつけて惚れこんでいたその絶壁が、もしそんなに美しくなく、散文的な平らな岸であったとしたら、おそらく自殺なぞまるきり起こらずにすんだはずであった。


 ドミートリイもおそらくはロマンを生きようとしている。重要なことは、ドストエフスキーがロマンを生きようとすることですらリアルだという強烈な認識を抱いていることで、「カラマーゾフの兄弟」の異様なちからはおそらくはこういうところにあるように思う。けれどわたしたちはドミートリイをたぶん笑うことはできない。わたしたちはロマンを生きていて、現実はまたどうしようもなくくだらくて、そして、わたしたちはロマンを生きることを現実のうえでのみ生きることしかおそらくはできはしないのだから。


 3月7日(土)

 朝おきて新文芸座にいってツァイ・ミンリャン「郊遊〈ピクニック〉」、ジャ・ジャンクー「罪の手ざわり」を見た。
 ツァイ・ミンリャン「ピクニック」はびっくりするくらいにカメラが動かないし、そのなかでほとんど耐えがたいほどにまで息の長い場面がつづいている。おそらくは各場面の長さをそれぞれはんぶんほどに縮めても物語的な意味ではこの映画の価値はなにも変わらないだろうと思う。だから、たんじゅんな意味では2時間20分くらいはあるこの映画のはんぶん以上は物語的なものではないなにかでできていて、そのなにかとはいったいなんなんだろう、ということからこの映画ははじまっているように思う。わたしにはけれどそのなにかをさししめすことはできないし、それを言葉でもって積極的にさししめそうとは思わない。それでも、もしかしたらこの映画はゴダール「さらば、愛の言葉よ」とはまるでぎゃくの映画に思えるような気がする。まえにも書いたけれど、「さらば、愛の言葉よ」には映像と言葉と音楽と編集の4つしかなく、ただその4つがむきだしにそこにならべられているような気がする、あるいはそれらがたがいに溶けあうことなくその場所に存在しているように思えるいっぽうで、「ピクニック」ではそれらが合成されたものがそこにはりつけられているようにも思う。ゴダールのありかたはすでにyoutubeやニコニコ動画の、つまり映画ではない「動画」にあまりにも接近していて、接近していくことで意味と物語を失いつづけていく。「ピクニック」ではそれらが合成されたものが「ありつづける」ということ、おそらく重要なのはそのてんで「ありつづける」ということ、ただそれだけのためにある種の長さが必要とされるような気がする。おそらくすでにわたしたちは「さらば、愛の言葉よ」という映画を消費することなしに見ることはできないような気がする。それは積極的な価値の創造を放置するということで、もっと言えば、それは文学と映画がすでにやっていて、演劇とダンスがいまだなしえていないこと、だと思う。だからこそ一般的には文学や映画よりも演劇やダンスのほうがおもしろいんだと思うけれど、そのいっぽうで、すくなくとも映画よりも歴史のふるい演劇のその奇妙なまでの「洗練のされなさ」ということは興味ぶかいと思う。けれど、それはおそらく劇場と劇場にたいするわたしたちの意識の問題でしかないのかもしれない。劇場の問題、劇場にたいするわたしたちの意識の問題、それはきっとわたしたちにとっては文学の問題で、でもわたしたちはもうそれに気づくことはできない。
 映画を見たときにその映画をとおして現実社会の問題を考える、ということがわたしにはできないしやりたいともあまり思っていなくて、だからというわけじゃないのかもしれないけれど、わたしは外国の映画を見たときに、わたしたちとはまるきり考えかたも価値観もちがう、と思うことはほとんどない。それは、けっきょくのところ、アメリカ映画もフランス映画も日本映画も韓国映画もロシア映画もたいしてちがいはないということだと思うけれど、中国映画を見たとき、というか、わたしは中国映画はワン・ビンやジャ・ジャンクーくらいしか見ていないのでよくはわからないし、ワン・ビンやジャ・ジャンクーがつまり中国という国の貧しさを描くことにすぐれているというだけなのかもしれないけれど、ジャ・ジャンクー「罪の手ざわり」を見るとびっくりするくらいに不愉快な場面を見ることができる。女を金で買おうとして札束で顔をたたきつづける、という信じられない場面がおそらくは冗談ではなくでてくるところもすごいけれど、たとえば、4つめの話で同僚がけがをする原因をつくってしまった青年が工場長(みたいなひと)に呼びだされる場面がある。工場長は食事をしながら青年を箸で指さしておまえはこれからしばらく無給だ、ということを言うんだけれど、このときの工場長の態度がとても自然にものすごく不愉快に描かれている。重要なのは金とそれにまつわる権力の問題で、金と権力ここまで直接的にむすびついた自然な態度、というのをわたしは見たことがなくて、びっくりしてしまう。ワン・ビン「無言歌」を見たとき、わたしはその光景が核戦争後の世界があったらこういう世界なのかもしれないと思ったけれど、わたしにとってこういう映画はどことなく終末思想を感じさせるSFみたいに思えてしまう。それは、キューブリック「時計じかけのオレンジ」やタルコフスキー「ソラリス」がSFだとはわたしには思えない、ということとおなじ意味でしかないのかもしれないけれど。
 そのあとにお友達と会ってごはんを食べにいった。だいたいお店なんか決めていないのでひたすらにてくてくてくてく歩いて、だいたい歩きつかれたところでてきとうなお店にはいる、といういつもの感じだった。ふりこめ詐欺の防止のために手あたりしだいに電話をかけて注意をうながす、という仕事をしていると聞いて、そんなやりかたじたいが詐欺みたいな仕事があるのか、と愕然した。あとは「リア充」という言葉はもうふるい、と聞いて愕然とした。愕然としてばっかりだったかもしれない。


 3月8日(日)

 朝おきて、「カラマーゾフの兄弟」を読みながら郵便を待っていた。


 近くに部落があり、黒い、ひどく真っ黒けな百姓家が何軒も見える。ところが、それらの百姓家の半分くらいは焼失して、黒焦げの柱だけが突っ立っているのだ。部落の入口の道ばたに女たちが、大勢の百姓女たちがずっと一列にならんでおり、どれもみな痩せおとろえて、何やら土気色の顔ばかりだ。特に、いちばん端にいる背の高い、骨張った女は、四十くらいに見えるが、あるいはやっと二十歳くらいかもしれない。痩せた長い髪の女で、腕の中で赤ん坊が泣き叫んでいる。おそらく彼女の乳房はすっかりしなびて、一滴の乳も出さないのだろう。赤ん坊はむずがり、泣き叫んで、寒さのためにすっかり紫色になった小さな手を、固く握りしめてさしのべている。
「何を泣いているんだい? どうして泣いているんだ?」彼らのわきを勢いよく走りぬけながら、ミーチャはたずねる。
「童でさ」馭者が答える。「童が泣いてますんで」馭者がお国訛りの百姓言葉で、子供と言わずに《童》と言ったことが、ミーチャを感動させる。百姓が童と言ったのが彼の気に入る。いっそう哀れを催すような気がするのだ。
「でも、どうして泣いているんだい?」ミーチャはばかみたいに、しつこくたずねる。「なぜ手をむきだしにしているんだ、どうしてくるんでやらないんだい?」
「童は凍えちまったんでさ、着物が凍っちまいましてね、暖まらねえんですよ」
「どうしてそんなことが? なぜだい?」愚かなミーチャはそれでも引き下がらない。
「貧乏なうえに、焼けだされましてね、一片のパンもないんでさ。ああしてお恵みを乞うてますんで」
「いや、そのことじゃないんだ」ミーチャはそれでもまだ納得できぬかのようだ。
「教えてくれよ。なぜ焼けだされた母親たちがああして立っているんだい。なぜあの人たちは貧乏なんだ。なぜ童はあんなにかわいそうんだ。なぜこんな裸の曠野があるんだ。どうしてあの女たちは抱き合って接吻を交わさないんだ。なぜ喜びの歌をうたわないんだ。なぜ不幸な災難のために、あんなにどすぐろくなってしまったんだ。なぜ童に乳をやらないんだ」
 そして彼は、たしかに気違いじみた、わけのわからぬきき方にはちがいないが、自分はぜひともこういうきき方をしたい、ぜひこうきかねばならないのだと、ひそかに感じている。



 重要なことは、ときには書かれえるべきものがあるということだと思う。そして、書かれえるべきものは書かれえるべきを場所を必要とするということだと思う。とても純粋な言いかたをすれば、小説とは書かれえるべきものではなく、書かれえる場所のことだ。けれど、そのことはたったひとことの書きたいことのために小説家は小説を書いているという小説の夢だとはわたしは思わない。
 郵便局からの荷物の不在票がはいっていて、送り主が「UJA」となっていてまるで覚えがなかったからどうしようかと思って「UJA」で検索したら、おなじようなひとがyahoo!知恵袋にいっぱいいて、「VJA」だったと知った。クレジットカードの更新だった。yahoo!知恵袋にはあらゆることが書いてある。
 ドトールにいって日記を書いて、舞城王太郎「短扁五芒星」を読んだ。「美しい馬の地」、「アユの嫁」、「あうだうだう」がわたしはよかったと思う。こういう小説を読むと、「ディスコ探偵水曜日」は長篇として書かれた短篇だったのかもしれない、というようなことを思う。




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